2000年12月17日日曜日

ルカ1章26-38節「恵まれた女よ、おめでとう」

月報 第9号

《クリスマス礼拝説教》  

 「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」。この挨拶は何のことかと驚くマリヤに天使ガブリエルは続けます。「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです」。
  伝承によるとマリヤはこのときまだ十五歳前後といいます。この天使の言葉の意味を理解するにはあまりにも若い、いや幼かったと言えるでしょう。「主があなたと共におられます」。それは、神は生涯マリヤと共におられるという意味です。神はマリヤにどのような生涯を用意されたのでしょうか。

 「見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい」。マリヤはけなげに答えます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。いいなずけのヨセフはマリヤが身ごもったと聞いた時、どれほど苦しんだことでしょう。誰だか分からない子を宿したマリヤのことを公にすることも出来ました。そうするならマリヤは石で撃ち殺されるかもしれません。しかしヨセフは義しい人だったので、ひとまずイエスを自分の子と認め、それからマリヤと離縁しようとしたのです。ところがこのように考えているヨセフに天使が現れ言いました、「マリヤを妻としてめとるがよい」。十代半ばの若い女性が乳飲み子を抱えて生きるのはあまりにも厳しい時代でした。
 彼らはベツレヘムに行き、そこでマリヤはイエスを産み、飼い葉桶に寝かせました。客間には彼らのいる余地がなかったのです。そしてヘロデが幼子を殺そうとしているのを知ってエジプトに逃げました。しばらくしてヘロデが死んでからガリラヤのナザレで新しい生活を始めました。
 次々と子供達が産まれました。ナザレには今もマリヤとヨセフが生活したと思われるところが残っています。マリヤとヨセフの生活は貧しいながらも楽しいものであったに違いありません。夫ヨセフと子供たちの面倒を見たり食事の世話をしたり忙しい中にも笑顔の絶えない家庭であったでしょう。しかし、そのような生活は長く続きませんでした。ヨセフが死んだのです。それまで喜びも苦しみも共にしてきた夫を失ったことはどれほど大きな悲しみだったことでしょう。しかしマリヤにとって幸いだったのは、イエスが父親の仕事を引継ぐことの出来る年に達していたということでした。そうでなければマリヤ一人で子供たちを養うことは出来なかったでしょう。
 イエスは三十歳になるとマリヤの理解できない行動をとるようになりました。そして、遂には家を出て行きました。母親は子供たちが幾つになっても自分の目の届く所に留めておきたいものです。このことはどれほどマリヤを苦しめ悲しませたことでしょう。ある時などマリヤはイエスのところに押しかけ、家に連れ戻そうとしました。以前の平和が戻ったのはマリヤがこのようなイエスを受け入れ、その教えを信じたときでした。
 しかしこれもつかの間でした。イエスは大祭司やパリサイ人、律法学者に捉えられ、ローマ総督ピラトのもとに連れて行かれ十字架にかけられたからです。夫ヨセフを失ったとき、それは確かに悲しい出来事でした。しかし、愛する我が子が手足に釘を打たれ、十字架につけられ苦しむ姿を見ることに比べられません。だれもこのマリヤの気持を支えることは出来なかったでしょう。
 しかし、マリヤは耐えたのです。つるぎで胸を刺し貫かれるような悲しみの中にあっても、自分を見失うことはありませんでした。そのマリヤに仲間の婦人たちや弟子たちが伝えたのです、「主イエスは甦った」と。マリヤの驚きはどれほどだったでしょうか。マリヤ自身もこの甦られたイエスに出会ったのです。そしてイエスの弟子たち、婦人たち、自分の子たちと心を合わせ、ひたすら祈りをしているとき五旬節(刈入れの祭り)を迎えます。この時、弟子たちの内に聖霊が下り、マリヤもまたイエスが自分の心の中に入ってきたのを知りました。長男、いや何よりも神である主イエスが共に生きて下さり、もはや自分一人ではないのです。自分の内に住まわれた主イエスが生前、自分に語られたことの意味を教えるのです。それは御国で主イエスに再び会えること、そして夫ヨセフに会えることをです。マリヤはこのことを頭で理解するというのではなく心からの事実として受け入れました。

  「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」。この天使ガブリエルの言葉の意味を理解するのにマリヤは生涯をかけ、そしてその苦労は報われました。
この天使ガブリエルの言葉は、主イエスを救い主と信じる者全てに向けられているのです。

2000年11月19日日曜日

ルカ22章1-23節「新しい契約」


月報 第8号

出エジプト記24章1~8節

 十字架に付けられる前の晩、主イエスは弟子たちと過越しの食事を共にされました。弟子たちにパンを取り、「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である」、そして杯も同じ様にして「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」と言われました。新しい契約とは一体、何なのでしょうか。それに対する古い契約とは何でしょう。その違いはどこにあるのでしょうか。
 
  神が人に約束されることが契約です。私たち人間の約束、あるいは契約は考えが変わったり、状況が変わることにより守られなくなる場合が多くあります。しかし、神は約束されたことを変えることはありません。問題はその契約を人が守るかどうかということなのです。
  はじめに古い契約を取上げてみましょう。古い契約は旧約聖書に幾つか書かれていますが、その中で重要なのはシナイ山での契約です。神はエジプトで四百三十年もの間奴隷だったイスラエルの民を救うためにモーセをエジプトの王ファラオの前に遣わしました。しかし、その結果、イスラエルの民の労働はかえって以前よりも厳しくなりました。そこで神はモーセによって奇跡を行い、エジプトの民に災いをもたらしました。しかし災いが去るたびにファラオは心を頑なにし民を去らせようとはしませんでした。神は最後にエジプトの全ての初子、ファラオの長子から奴隷の子まで、そして人の子から家畜までを撃たれたのです。夜、主の使いがエジプトに出て行くと家々では大きな叫び声があがりました。死者のいない家はなかったからです。しかし、イスラエルの家は主の御言葉を守り、小羊の血を入口の柱に塗ったため主の使いが入ることなく過ぎ越したのです。
  遂にファラオはこのままではエジプトの民は滅ぼされると思い、イスラエルの民を去らせました。その夜、エジプトを出たユダヤ人は、成人男子だけで六十万人といわれます。彼らは荒野に入り、シナイ山に着くと神と契約を結びました。雄牛を殺し、モーセはその血の半分を鉢に取り、残りを祭壇に注ぎました。そして契約の書を読み、民はその契約を守ることを誓約し、鉢の血を民に注いで言いました「見よ、これは主が…あなたがたと結ばれる契約の血である」。この日、民は神が与えられた十戒を守ることを誓ったのです。そして、十戒を守る民を神は救われるのです。
  それでは新しい契約とは何でしょうか。主イエスは御自身の血で民と契約を結ばれました。小羊の血でイスラエルの民が命を贖われ、エジプトから救い出されたように、主イエスを信じるものは十字架の血によって命が贖われ、この世から救い出されるのです。

  古い契約の救いでは、カナンの土地が与えられ、子孫が増え、神の祝福に預かるというものでした。しかし、イスラエルの民は十戒を守ることは出来ませんでした。神が求める正しい生き方をせずに自分勝手に生きたのです。神は預言者を何人も遣わし、神に立ち返るように求めましたが民は聞き入れませんでした。
  このような民を救うため神は主イエスを遣わされ新しい契約を与えられたのです。それは主イエスを信じる信仰による契約で、もはや行いによるものではありません。何故なら主イエスがイスラエルの民、そして私たちに代わって神の前に正しく生きて下さり、律法を全うされたからです。そして少しも罪のない主イエス御自身が十字架に付けられて私たちのために死に、その清い命で私たちの罪を贖ってくださったのです。
  私たち人間はどれほど頑張っても、主イエスのように罪を犯すことなく生きることは出来ません。主イエスが罪のない清い生涯を送ることが出来たのは神であられたからです。天の父は主イエスを義とされ人間の罪を贖うものとして受け入れられました。私たち人間は神の前に正しい義なる者とは認められません。従って人間は他の人の命を贖うことは出来ません。
  神であられた主イエスは、同時に私たちと同じ人間でした。人間であったからこそ主イエスは私たち人間の罪を贖うことが出来たのです。主イエスは私たち人間の身代わりとなられ、私たちが負わなければならない罪の苦しみを御自身の身に負われたのです。
  主イエスは弟子たちに、そして私たちに神の国で一緒に食事を取られることを約束されました。そして御自身の血によって罪が贖われたことを覚えるようにと聖餐を制定されました。新しい契約は私たちに来るべき天の御国に入れること、つまり永遠の命を約束します。そのことを証するため主イエスは私たちの初穂として甦られました。その約束と共に信じる者は信仰による交わりと神の祝福を得るのです。

2000年10月15日日曜日

ルカ20章27-40節「生きている者の神」

月報 第7号

 聖書には主イエスとパリサイ派の人々や律法学者との論争は数多く出てきますが、サドカイ派の人々との論争はあまりありません。ルカによる福音書ではこの個所だけです。主イエスとサドカイ派の人々の信仰とでは違いが大きすぎて、同じ土俵の上に立って論争することが出来なかったからでしょう。サドカイ派の人々は律法の書、すなわちモーセの五書だけを聖典と信じていました。律法の書には天使や霊については書かれていません。そのためサドカイ派の人々は天使や霊の存在を否定し復活も信じていませんでした。サドカイ派の人々にとって神を信じるということは、この世を律法に従って正しく生きるということでした。信仰によって初めてこの世での生活が守られ、良い家庭を築き子供を正しく育てることが出来るのでした。このことはある面で自分の生活や意志を大切にして生きることでもあったのです。

 このサドカイ派で復活はないと言い張っていた人々が主イエスに論争を持ちかけました。復活があるかないかの論争はパリサイ派の人々に対して極めて効果的だったのでしょう。パリサイ派の人々が答えに窮すると、どうだ、復活はないのだと自らの論議の正当性を主張したに違いありません。彼らは主イエスもまた答えられないに違いないと戦いを挑んできたのです。
 彼らは主イエスに言いました。モーセは「もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけなければならない」と言っている。それではもし七人の兄弟がいて長男が子をもうけることなくして死に、次の兄もその女を妻とし、彼もまた子をもうけることなくして死に、遂には七人の兄弟全員が子をもうけることなく死んだならこの女は復活して誰の妻となるのか、七人全員がこの女を妻にしたのだから。この例は極端すぎて少々話に無理があるような気がしますが当人たちはしごく真面目だったと思われます。こういう論理的矛盾がある以上復活はないのだというのです。
 主イエスのサドカイ人への答えは、復活にあずかる者は天使に等しいもので、神の子でもあるのでもう死ぬことはあり得ない、だからめとったりとついだりはもうしない、というものでした。結婚に対する考え方は今では多様化していますが、本来、子供を産み子孫を残すことにありました。その意味で死ぬことがない以上、その目的は失われます。復活にあずかる者の御国での生活はこの世の生活の延長ではなく、全く違ったものとなるのです。
 復活についてはダニエル書のように旧約聖書においても極めてはっきりと書かれているものもあります。しかし主イエスはここでは柴の書、すなわち出エジプト記三章に書かれているモーセの言葉を用いて彼らと同じ土俵に立って反論されます。主はモーセに柴の燃える火から話かけられ「わたしはアブラハムの神…である」と言われました。アブラハムは紀元前一九〇〇年頃の人で、モーセは一二九〇年頃です。従ってアブラハムはモーセより六〇〇年ぐらい前の人です。にもかかわらず神がこのように言われたのはアブラハムが今も生きていることを示している、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と主イエスは言われるのです。
 しかしこの言葉にはイスラエルの人たちにそうだと思わせる背景があります。神はアブラハムがこの世に生きている時、三つのことを約束されました。子孫が増え、土地が与えられ、多くの民族の祝福の基となると言うものでした。しかし実際アブラハムがこの世で生きている間にはこの約束は成就しませんでした。一人息子のイサクとわずかな土地、マクペラの洞穴が妻のサラと自身の墓として与えられ、祝福についてはその土地の人々から尊敬を得たに過ぎませんでした。従ってこの約束はアブラハムが今も生きている、あるいは復活することがなければアブラハムにとっては成就する、あるいはしたとは言えないからです。このことからも「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」でなければなりません。同じことはアブラハムと同じ約束を与えられたイサク、ヤコブ、そして他の族長たちにも言えます。

 復活は私たちへの約束でもあります。主イエスは私たちに「わたしは復活であり,命である。わたしを信じるものは死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ十一章)と言われました。主イエスは私たちに約束されただけでなく御自身が復活されることによってその約束が事実であることを御自身の身をもってお示しになったのです。そのことを通して確かに神は死んだ者の神ではなく、「生きている者の神」となったのです。

2000年9月17日日曜日

ルカ19章1-10節「今日、救いがこの家に来た」

月報 第6号

 ザアカイはエリコの町に住んでいました。地図を見ますとエリコはエルサレムからおよそ三十キロぐらい東に行ったところにあります。交通の要衝で、ここにはローマ帝国の取税所があり、行き交う商人たちから税金を徴収していました。取税人は決められた額をローマに納め、それ以上に集めた分を自分たちの収入としていたのです。当然のことながらユダヤ人たちはローマのために働く取税人を嫌っていました。ザアカイはこの取税人の頭で、金持でした。人々はザアカイのことを罪人だと言い、白い目で見ていたでしょう。ザアカイはそのような同胞に、金持になることで見下そうとしていたのではないでしょうか。もしザアカイにとってお金だけが人々の嘲笑に耐えて生きる心の支えであったならその心は空しかったでしょう。
 そのようなある日、ザアカイは主イエスがエリコを通られると耳にしました。主イエスのことは以前から話に聞いていました。それはこの方こそメシアでローマのくびきからユダヤを開放しエルサレムに神の国を建設されるというものでした。ザアカイは何故かこの主イエスに心が引かれ、関心を抱いていたのです。
 彼が道に出て行くと既に長い人垣が出来ていました。背の低いザアカイは前の方に走って行っていちじく桑の木に登りました。そこから見ていると、突然主イエスは上を見あげてザアカイに言われました。「ザアカイよ。急いで降りてきなさい」。どうしてザアカイの名前を知っていたのでしょうか。群衆の誰かが木に登っているザアカイを見て彼の名前を呼んだのでしょうか。主イエスは続けて言います「きょう、あなたの家に泊まることにしている」。原文では「泊まらざるを得ない」「泊まるように前から定められている」あるいはもっと厳密には「父なる神が決められていて、今その人を見つけ出したので泊まる、客となることを喜ぶ」と言う意味だそうです。泊まるとは一緒に食事をし、一つ屋根の下に寝ることで、「私はあなたを友とする」ということです。主イエスは初めて会うザアカイを知っていて名前を呼んだのです。名前を知っているということは彼の人格も仕事も生活もその全てを知っているということです。一瞬の出来事でしたがザアカイはそのことを理解したのです。そして主イエスを神の子と信じ、今までの生活を悔い改めました。これが回心です。彼のように木の上で回心した人は少ないのではないでしょうか。回心したザアカイは喜んで主イエスを自分の家に迎え入れました。
 過日、埼玉育児院を訪ねました。教会員で院長の河東田姉のお話を伺い、施設を見学し、子供たちに会いました。新築された家では、小、中学生が保母さんと一緒に家庭的な雰囲気の中で生活していました。幼児たちの部屋に行くと、入って来た私たちを見て彼らの顔が輝きました。膝に上がってくる子もいました。私たちの訪問ですらこんなに嬉しいのなら主イエスが訪ねて来られたらどれほど喜ばしいことでしょう。主イエスが友として心に入って来るのが回心です。
 回心にはしるしが伴います。主イエスを受け入れた者は神の性質に似る者となるからです。神は愛と義なるお方です。神の愛は特に貧しい人、恵まれない人への慈しみとして示されています。ザアカイはそれまで自分を愛しているだけでした。しかし、今ザアカイは自分の財産の半分を貧民に施すと誓ったのです。神の義に似るとはどういうことでしょうか。それは、ザアカイにとって今まで取税人として自分がしたことを徹底的に調べ、もし不正な取立てをしていたなら四倍にして返すということでした。これこそ悔改めです。
回心を経験したクリスチャンはこのようなザアカイに似た証があるのではないでしょうか。悔改めは行いを伴うからです。
その後、主イエスはエルサレムに行き、パリサイ派や律法学者、祭司長などの指導者に捕らえられ十字架につけられ、殺されました。しかし、主イエスは復活されたのです。復活は多くの人にとって信じられない出来事です。直接復活の主に出会った弟子たちですらすぐには信じられませんでした。しかし、ザアカイにとって、主イエスの復活を信じることは他の人ほど難しいことではなかったでしょう。自分の全てを知っておられる主イエスと出会った木の上の出来事を考え「きょう、救いがこの家に来た」と言われた主イエスの顔を思い出せば、「そうか」とうなずけることだったのです。

 伝承は、ザアカイは取税人を辞め伝道者になったといいます。この伝承が事実なら主イエスとの出会いがそれからのザアカイの人生を大きく変えたことになります。きっとあの時の主イエスの笑顔がザアカイの心に焼きついていたに違いありません。

2000年8月20日日曜日

ルカ18章18-30節「ある金持ちの問い」

月報 第5号

 ある役人が主イエスのところにやって来て「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」と尋ねました。聖書は私たちの生命ほど大切なものはないと教えます。ルカの十二章にはある農夫のたとえが書かれています。その人の畑が豊作でした。さあこれから食い飲みし多いに人生を楽しもう、生活の保障が得られたのだからと考えましたが、神様はその人の命をその夜取り去られてしまったのです。世界中の金銀を自分のものとしても、あるいはこの世の人がすべて自分にひざまずいて尊敬の念を示しても、自分の生命を失うならそれは何の意味があるのでしょうか。この世だけで終わる生命ですらこれほど大切であるなら、永遠に生き続ける命はどれほど大切か測り知ることは出来ません。
 この聖書に出て来る役人は真面目な青年でした。そしてこの世だけでなく永遠に生きる命の大切さを知っていました。そのため小さい頃からモーセの律法を守って生活してきました。にもかかわらずその心は満たされず、不安がありました。永遠の生命を自分のものとしているとはどうしても思えなかったのです。それで主イエスに「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」と尋ねたのです。主イエスの答は「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え」というものでした。モーセの十戒の第五番目から第九番目の戒めにあります。しかし、それだけでは十分ではありません、何かが足りないのです。主イエスはそれに対して「あなたのすることがまだ一つ残っている」、自分の持ち物を売って貧しい人々に分けてやり、「わたしに従ってきなさい」と言われました。

「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。この問いに対する最初の答は道徳的な行い、すなわちよい行いを求めるものでした。「何をしたら」という問いに答えるものです。しかし、その次の答は、貧しい人に自分の財産を施し「わたしに従ってきなさい」というものでした。よい行いだけでは永遠の生命を得ることは出来ません。「まだ一つ残っている」のです。主イエスをとるか財産をとるかの二者択一が迫られたとき主イエスを選ばなければならないのです。
 弟子たちは、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」と言いました。その弟子たちに主イエスは「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、…永遠の生命を受けるのである」と言われました。私たちは永遠の生命のために何かよいことをしようとします。そこから私たちの信仰は始まりますが、次に主イエスは永遠の生命のために自分の最も大切なものを捨てなさいと言われます。このことこそモーセの律法の第一の戒め「あなた方は私の他に何ものをも神としてはならない」に他なりません。しかし、この捨てるということは自分の意志では出来ません。残念ながら、大切な家族や財産を捨てるほどの強い信仰は誰も持っていません。それ故主イエスは「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっと、やさしい」と言われたのです。大金持の役人は主イエスの前を悲しみながら去って行きました。
 それでは弟子たちはどうして「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」と言えたのでしょうか。確かに弟子たちは仕事を捨て、親を捨て、家を捨てて主イエスに従いました。しかしそれは「私に従ってきなさい」と言われた主イエスの力だったのです。主イエスが彼らの心に働かれたからです。私たちは「あなたに従いました」と過去形でしか言えません。「私はあなたに従います」と自分の意志で主イエスに従おうとするなら、それは従うことの意味が分からないで言っているということになります。弟子たちの生涯を見ると、遂には最も大切なこの世の命すら主イエスのために捨てているのが分かります。事実、多くの弟子は殉教したのです。

「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」、この役人の問いに対する主イエスの答は、私に従う事を何にもまして大切にしなさい、優先しなさいというものでした。主イエスに従う、それは具体的には貧しい人を助けるといったそのような生活が求められます。しかし貧しい人のために自分の財産を分かち合うことすらが出来ないのが私たち人間です。
「私に従って来なさい」それは本来そのことが出来ない私たちへの招きの言葉です。決断して主イエスに従うならそれが出来るようにしてくださるのです。「人には出来ない事も、神には出来る」そのことが私たちを通して明らかになるためです。そして、自分の力で従ったのではないにもかかわらず主イエスは、その者は「永遠の生命を受けるのである」と言われます。

2000年7月16日日曜日

ルカ16章19-31節「ある金持ちと貧しい人」

月報 第4号

 聖書の中では金持ちと貧しいラザロの話はよく知られています。金持ちと貧しいラザロが対照して描かれ、金持ちのどこが問題だったかがよく分かります。
 この世において金持ちと貧しい人の生活の差は衣食住にあると言えるのではないでしょうか。この金持ちの家の門構えは立派で、紫の衣を身に付け、町の指導者を招いては贅沢な食事をしていました。貧しいラザロはその金持ちの門前に置かれていました。体が不自由で働くことはおろか歩くことも出来ませんでした。宗教的に汚れているとされる犬がやって来て全身のおできをなめても追い払うことも出来ませんでした。このできものは相当の痛みがあったと思われます。その上、いつも空腹に苦しんでいました。
 金持ちは門前にいるラザロを知っていましたが無視していました。この金持ちは富や地位、名誉、家族が多いことなどは神からの祝福であると信じていました。反対にラザロのように貧しい人は罪深い者とみなしていました。従ってこの金持ちにとってラザロのような者とは関わり合いを持つ必要はなかったのです。

人は誰でも死にますが、この二人にもその時が来ました。この金持ちが死ぬと盛大な葬儀が行われ、家族と共に町の名士や有力者がやって来てその死を惜しみ、嘆き悲しみました。それに対しラザロが死んだときはどうだったでしょう。誰もラザロの死を惜しみません。悲しむ人もいません。葬儀もなくすぐに墓に入れられました。しかし、死ぬや否や天使たちが現われラザロを宴席にいるアブラハムのすぐそばに運んだのです。アブラハムのすぐそばに行くことが出来た、それはユダヤ人にとってこの上もなく名誉なことでした。またこれほど安全な場所はないと考えられていました。金持ちはどうだったでしょう。黄泉に送られ肉体的、精神的に苦しむことになったのです。その苦しみは生きているときのラザロのとは比較になりません。しかもラザロの苦しみは死で終わりましたが、この金持ちの苦しみは永遠に続くのです。反対にラザロは金持ちが生きているときに楽しんだのとは比較にならないほどの喜びで慰められたのです。しかもそれは死で終わることがないのです。
 金持ちはこの苦しみと炎火のなかでラザロを自分のところに遣わして指をぬらし、舌を冷やして欲しいとアブラハムに頼みました。しかしアブラハムの答は、二人の間には大きな淵があって越えることが出来ないというものでした。生前ラザロに対して少しの同情を見せなかった金持ちは、ここでは逆になり少しの同情も与えられなかったのです。

 金持ちは死んで初めて自分の生前の生き方を反省し、悔い改めましたが、遅すぎたのです。死んでからでも助けてくれると教えられ、頼りにしていたアブラハムは姿が見えるにもかかわらず力になってくれませんでした。悔い改めは生きているときにしなければならなかったのです。悔い改め、それは人格を持った生ける神を信じることにほかなりません。神は愛と正義と公平を私たちが行うことを求められるのです。それが神御自身の性格だからです。従ってこの神を信じることは自分中心の生活を改めることにほかなりません。「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい」と聖書は私たちに命じます(三章十一節)。
 しかし金持ちは言います。生きているとき聖書をいくら読んでもそのように信じて悔い改めることは出来ませんでした、ラザロを甦らせて遣わして下さい、自分中心の生活がどのような結果になるかを甦った彼が証すれば人々は、自分の兄弟は驚いてその生活を悔い改めるでしょうと。それに対するアブラハムの答えは聖書を信じないのなら死人が甦って話をしても信じない、というものでした。

  この金持ちは、自分は生まれてきてよかった、と思っていました。反対にラザロは生まれて来なければよかったと思っていたでしょう。しかし、結果は逆になってしまいました。なぜなのでしょう。金持ちであることが問題ではありません。問題は富を全て自分のために使ってしまったということにあるのではないでしょうか。多くの富を与えられればそれだけ私たちはその富を有効に使わなければならない責任も生まれます。与えられた富や権威、権力は自分のためではなく人のために、貧しい人のために分かち合わなければなりません。社会において愛と正義、公平を実践することが求められているのです。神の戒めに従い、貧しい人への同情が求められているのです。
 この金持ちの生き方に、モーセと預言者の教えを受け入れ実行に移す信仰がなかったことが問題とされるのです。自分中心を悔い改めることのなかったその信仰が問題とされるのです。

2000年6月18日日曜日

ルカ24章36-53節「高いところからの力」

月報 第3号

 主イエスは十字架の上で息を引き取り、墓に納められました。弟子たちの衝撃はどれほどのものだったでしょう。何故なら当時ユダヤはローマの植民地でその支配下にあったので、この主イエスが祖国を救い、神の国として統治するために神から遣わされた救い主、メシアであると弟子たちは信じていたからです。この神の国は近隣諸国そしてついには世界の果てにまで及び、自分たちもまた主イエスの下で右大臣、左大臣になってこの国を統治すると信じていました。しかしこのような彼らの極めて人間的で野心的な夢は、主イエスの突然の死と共に砕けてしまったのです。それだけでなく弟子たちは主イエスが捕らえられたとき、主イエスのところにとどまることが出来ず、見捨てて逃げてしまいました。主イエスの愛と御業を想うたび自分たちは何ということをして主を裏切ってしまったのかと苦しんだに違いありません。
 十字架の出来事の後の三日目、朝早く遺体に香料と香油を塗るために墓に行った女性たちが驚いて帰って来て、墓が空であったことを弟子たちに告げました。その時、ある者は甦った主イエスにお会いしたと言ったのです。また、エルサレムを離れようとしていた弟子たちも戻って来て、甦った主イエスにお会いしたと弟子たちに伝えました。

このようなことを話している弟子たちの真ん中に主イエスは立たれました。亡霊を見ているのだと恐れおののいている彼らに主イエスは十字架に釘付けされた手足の傷痕をお示しになり、見るように、そして触れてみるようにと言われ、なお疑う弟子たちの目の前で魚を食べ、御自身が霊ではない事を示されました。確かに甦られた主イエスは生前の主とはどこか違っていました。しかし紛れもなく甦られたのです。そしてモーセの律法と預言者の書と詩編、すなわち旧約聖書をひも解いて彼らの心の目を開かれ、メシアについてのそれまでの誤った考えを正されたのです。

このようにして弟子たちは伝道するに十分な体験と知識を授けられましたが、主イエスは彼らをすぐには伝道に派遣されませんでした。「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(四十九節)と言われたのです。ヨハネによる福音書十四章で主イエスは弟子たちに自分が復活し天にあげられ、父の御許に行ったならあなたがたに助け主を送ろうと約束しておられます。この助け主こそ高い所からの力で、神の霊、キリストの霊です。私たち人間の先祖であるアダムとエバはこの霊を持ち、神との交わりがあったことが創世記のはじめに書かれています。しかしヘビ、すなわちサタンの誘惑に会ったとき彼らは罪を犯し、彼らを覆っていた神の霊が離れ、彼らは自分たちが裸なのに気がつきました。そしてその時から人間の知性は神を正しく認めることが出来なくなり、この世の事柄だけに限られてしまったのです。しかし、高い所からの力を与えられることにより私たちの知性は再び神に対して目が開かれ、神の愛を知るのです。神の愛を知って感情も神への愛に満たされるようになり、意志もまたその愛に動かされ喜んで神に従おうとするようになるのです。このときはじめて「あなたがたはこれらのことの証人となる」(四十八節)のです。高い所からの力に覆われない限り、どれほど聖書を読み、また教理を学んでも結局人の考えで主イエスに従うその限界を突き破ることは出来ません。伝道は私たちの内に住まわれた主イエスが私たちを通してなされる神の業であって、人の力ですることは出来ないのです。
 「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」(四十八節)と主イエスは言われました。この高い所からの力はあくまで贈りものであって、自分の知識や働きや努力の結果得られるものではありません。弟子たちに出来ることは主イエスの言われた通り、約束のものが与えられるまでその場所、エルサレムにとどまって祈ることでした。このような弟子たちに聖霊が降ったその出来事が使徒行伝二章一節以下に書かれています。激しい風が吹いて来るような激しい音と共に炎のような舌が現れ、弟子たち一人一人の上にとどまったのです。聖霊を受けた弟子たちはすぐさま伝道を開始し、神の偉大な業を語り始めました。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(四十八、四十九節)と書かれていることの始まりです。そしてこの日、すなわち聖霊降臨日(ペンテコステ)こそ神の霊を受けた人々の共同体の誕生、すなわち教会がこの世に生まれた日なのです。

2000年5月21日日曜日

ルカ24章1-12節「あの方は復活なさった」

月報 第2号

  婦人たちは十字架につけられた主イエスの遺体が降ろされ、墓に納められる有様を見届けました。そして安息日が終わると、日が昇る前に彼女たちは準備していた香料を持って墓に向ったのです。着いてみると、墓の入り口をふさいでいた石は脇に転がしてあり、墓は空いていました。恐る恐る中に入ってみますと、主イエスの遺体は見当たりません。誰かが来て遺体をどこかに持っていったに違いありません。しかし、それにしてはどうして亜麻布が残されているのでしょう。死体に巻いてあった亜麻布を取って運ぶということはありえないことです。婦人たちがいったいどうしたことかと途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人が現れ、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と言われました。「主イエスは復活なさった。」この二人の宣言こそイースターの出来事なのです。
二人の人は輝く衣を着ていたのではなく着ている人が輝いていたのです。そのため衣が輝いて見えたのです。彼らは天的な存在でした。恐れて顔を地に伏せた婦人たちに天使たちは続けます。この事は、主イエスが生前あなたがたに話しておかれたことではないのか。主イエスが語られたことを思い出してみなさい。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
 婦人たちはあわてて弟子たちのところに戻りこのことを伝えました。しかし弟子たちは信じませんでした。なぜ使徒たちは信じなかったのでしょう。主イエスを埋葬した墓は空になっていました。しかもその墓には遺体を巻いていた亜麻布が残されていました。そして天使が現われ主イエスの復活を証言し、主イエスの生前の約束を思い起こさせました。にもかかわらず、弟子たちはこの話しはたわごとのように思ったのです。

弟子たちは主イエスはこの地上に神の国を建設すると信じていました。メシアである主イエスは決して死ぬことはない。自分たちの国を植民地としていたローマのくびきから開放し、イスラエルを神の国とし、その支配は世界の果てにまで及ぶ、そして自分たちもまた主イエスと共にこの国を治めることを夢見ていたのです。そのため誰が右大臣になるか左大臣になるかでもめたほどでした。従って、突然の十字架の死は理解できないことでした。それは彼らが信じていた主イエスがメシアであることを否定されたことであり、また彼らの極めて人間的な野望が打ち砕かれることだったのです。しかも彼らは主イエスが捕らえられるとき助けることすらせず、見捨てて逃げてしまったのです。挫折と後悔に沈んでいる彼らにとって主イエスの復活はどのような意味があると言うのでしょうか。それゆえ主イエスの復活を受入れることが出来ず疑ったのです。
 それでは彼らが信じるようになったのはどうしてでしょうか。それは、直接、復活の主に出会ったからに他なりません。主イエスは弟子たちに御自身をお示しになって復活されたことを疑う余地のないようにされたのです。疑っていたトマスに対しては十字架で受けた傷痕をお見せになり、信じるようにと触れてみるように言われました。このようにして始めて彼らは主イエスの復活を信じたのです。
 しかし弟子たちはメシアである主イエスの使命を十字架の死と共に見失っていました。その彼らに対して主イエスは御自身の復活と使命について旧約聖書にもとづいて弟子たちに教えられたのです。弟子たちは自分たちが考えているようなメシアではなかったことを再び復活の主イエスから学ばなければなりませんでした。

このことは私たちについても言えるのではないでしょうか。もし、私たちの信仰を聖書や信条、教理だけから学ぼうとするなら結局は生ける主に出会うことのない自分の考えの信仰となってしまいます。「何故、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と天使は言われましたが、死んだ文字の中に主イエスはおられないのです。そうではなく今生きておられる主イエスに教えられながら聖書を学ばなければなりません。主イエス御自身が聖書を通して語られます。そして私たちの経験によってその言葉が正しいのを確認するのです。あるいは反対に自分の経験したことが聖書に書いてあるのです。ここに私たちの生きた信仰があります。
 「復活なさった」と言うことは今も生きていると言うことに他なりません。主イエスに出会った弟子たちは、「あの方は復活なさった」と人々に宣言しました。そして同じ経験をした私たちもまた「あの方は復活なさった」と人々に宣べ伝えるのです。

2000年4月30日日曜日

ルカ11章1-13節「求めなさい」

 

月報 第1号

 主イエスは弟子たちの求めに応じて、「主の祈り」を教えられた後、どのような姿勢で祈ったらよいかを示されました。それは「求めなさい」ということでした。そして、主イエスは身近な出来事を取り上げてその意味を説明されました。
 友達が旅の途中立ち寄りました。手紙や電話のない時代です。連絡なしの突然の訪問です。しかも真夜中です。パレスチナは暑いので、普通、日が陰って涼しくなってから歩いたのです。道に迷ったりすればすぐ時間がたちます。ですから真夜中友が立ち寄ることもあったのです。
 せっかく訪れた友人に、疲れてお腹が空いたまま床に入ってもらうわけにはいきません。特にパレスチナでは旅人をもてなさないことは恥ずかしいことでした。しかし、突然の来客を迎えたその人の家には肝心なパンがありませんでした。パンはその日、家族に必要な分を朝焼いたからです。
 パンがあるのではないかとその人が出かけていった近所の家は、一間だけの生活をしていました。決して裕福ではありません。日本でもごく最近まで一間だけで生活している家があっても珍しいことではありませんでした。あるいは親子で寝室を共にするのはよく見られることでした。この家でも一枚の敷物と一枚の掛け布で、子供が両親の間で川の字になって寝ていたのでしょう。
 外から戸をたたき「友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから」と言うと、中から声がしました。「面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない」。
 消した灯かりを再び灯すのは大変なことです。薄明りで戸のかんぬきをはずさなければなりません。子供たちは皆起きてしまいます。
 このような状況になるのを知っていて戸をたたき続けるのは私たち日本人にとって極めて苦手とするところです。私たち日本人は、世界で最も他人のことを気にし遠慮する民族ではないでしょうか。既に出かけるときからこんな時間に悪い、という思いがあります。隣人の家に着くと、起きていればいいが灯かりが消えているのでもう寝てしまったのでは、と小さく戸をたたきます。返事がないと、どうしよう、寝てしまっている、と困惑しここまで来て帰るわけにもいかない、と少し強く戸をたたきます。しかし中から「どなたです、こんな時間に。迷惑です」と声が聞こえたらすぐあきらめてしまうでしょう。友には悪いがこれ以上のことは出来ないと。
 主イエスは、こと神に対してはそうであってはならない、執拗に恥をもいとわないで戸をたたき続けなさい、「求めなさい」と言われるのです。主イエスはこのことに関してはこの世の常識にとらわれなくてもよいと言われるのです。

 主イエスは父と子の関係で説明します。ユダヤでは社会を構成する最小単位としての夫婦の関係、そして親子の関係を大切にします。モーセの十戒のうち、二つの戒めは家族に関するものです。家庭が崩壊すれば社会も崩壊するからです。ですから、ユダヤでは父と子の関係は非常に強いのです。「たとえ悪い親であっても子供には良いものを与える」と主イエスは言われましたが、ユダヤ人であれば誰でもその意味がよく分かるのです。
子が父親に「僕はあなたを信じない」と言うことは、その人格を認めない、何も期待していない、ということでしょう。父親にとってはさみしいことです。同じように私たちが神を信じないということは神に何も求めないということです。ここからは、人格関係は生まれようがありません。天の父は私たちに「求めなさい」と言われます。それは私たちの祈りに応えられるのを喜びとされると言うことです。私たちがそれによって主を讃美するのを知っておられるからです。主イエスは私たちの祈りに応えて天の父は最も大切な聖霊ですら私たちに与えてくださると言われました。この聖霊は私たちの心に宿り、永遠の命にまで導くのです。最も大切な聖霊すら与えられるというのなら、それ以外のものを求めて与えられないはずはありません。

川越教会は川越市に二つある日本キリスト教団の教会の一つで、川越駅から歩いて十五分以内のところにあります。そして百十年の歴史があります。この地に川越教会が建てられている意義は大きいと思います。

私たちにとって、求めるべきものは多くはありません。たった一つです。まだ救われていない人たちのために祈ることです。主イエスは「求めなさい」と言われます。共に主に祈り求めていきましょう。