2000年5月21日日曜日

ルカ24章1-12節「あの方は復活なさった」

月報 第2号

  婦人たちは十字架につけられた主イエスの遺体が降ろされ、墓に納められる有様を見届けました。そして安息日が終わると、日が昇る前に彼女たちは準備していた香料を持って墓に向ったのです。着いてみると、墓の入り口をふさいでいた石は脇に転がしてあり、墓は空いていました。恐る恐る中に入ってみますと、主イエスの遺体は見当たりません。誰かが来て遺体をどこかに持っていったに違いありません。しかし、それにしてはどうして亜麻布が残されているのでしょう。死体に巻いてあった亜麻布を取って運ぶということはありえないことです。婦人たちがいったいどうしたことかと途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人が現れ、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と言われました。「主イエスは復活なさった。」この二人の宣言こそイースターの出来事なのです。
二人の人は輝く衣を着ていたのではなく着ている人が輝いていたのです。そのため衣が輝いて見えたのです。彼らは天的な存在でした。恐れて顔を地に伏せた婦人たちに天使たちは続けます。この事は、主イエスが生前あなたがたに話しておかれたことではないのか。主イエスが語られたことを思い出してみなさい。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
 婦人たちはあわてて弟子たちのところに戻りこのことを伝えました。しかし弟子たちは信じませんでした。なぜ使徒たちは信じなかったのでしょう。主イエスを埋葬した墓は空になっていました。しかもその墓には遺体を巻いていた亜麻布が残されていました。そして天使が現われ主イエスの復活を証言し、主イエスの生前の約束を思い起こさせました。にもかかわらず、弟子たちはこの話しはたわごとのように思ったのです。

弟子たちは主イエスはこの地上に神の国を建設すると信じていました。メシアである主イエスは決して死ぬことはない。自分たちの国を植民地としていたローマのくびきから開放し、イスラエルを神の国とし、その支配は世界の果てにまで及ぶ、そして自分たちもまた主イエスと共にこの国を治めることを夢見ていたのです。そのため誰が右大臣になるか左大臣になるかでもめたほどでした。従って、突然の十字架の死は理解できないことでした。それは彼らが信じていた主イエスがメシアであることを否定されたことであり、また彼らの極めて人間的な野望が打ち砕かれることだったのです。しかも彼らは主イエスが捕らえられるとき助けることすらせず、見捨てて逃げてしまったのです。挫折と後悔に沈んでいる彼らにとって主イエスの復活はどのような意味があると言うのでしょうか。それゆえ主イエスの復活を受入れることが出来ず疑ったのです。
 それでは彼らが信じるようになったのはどうしてでしょうか。それは、直接、復活の主に出会ったからに他なりません。主イエスは弟子たちに御自身をお示しになって復活されたことを疑う余地のないようにされたのです。疑っていたトマスに対しては十字架で受けた傷痕をお見せになり、信じるようにと触れてみるように言われました。このようにして始めて彼らは主イエスの復活を信じたのです。
 しかし弟子たちはメシアである主イエスの使命を十字架の死と共に見失っていました。その彼らに対して主イエスは御自身の復活と使命について旧約聖書にもとづいて弟子たちに教えられたのです。弟子たちは自分たちが考えているようなメシアではなかったことを再び復活の主イエスから学ばなければなりませんでした。

このことは私たちについても言えるのではないでしょうか。もし、私たちの信仰を聖書や信条、教理だけから学ぼうとするなら結局は生ける主に出会うことのない自分の考えの信仰となってしまいます。「何故、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と天使は言われましたが、死んだ文字の中に主イエスはおられないのです。そうではなく今生きておられる主イエスに教えられながら聖書を学ばなければなりません。主イエス御自身が聖書を通して語られます。そして私たちの経験によってその言葉が正しいのを確認するのです。あるいは反対に自分の経験したことが聖書に書いてあるのです。ここに私たちの生きた信仰があります。
 「復活なさった」と言うことは今も生きていると言うことに他なりません。主イエスに出会った弟子たちは、「あの方は復活なさった」と人々に宣言しました。そして同じ経験をした私たちもまた「あの方は復活なさった」と人々に宣べ伝えるのです。