2000年9月17日日曜日

ルカ19章1-10節「今日、救いがこの家に来た」

月報 第6号

 ザアカイはエリコの町に住んでいました。地図を見ますとエリコはエルサレムからおよそ三十キロぐらい東に行ったところにあります。交通の要衝で、ここにはローマ帝国の取税所があり、行き交う商人たちから税金を徴収していました。取税人は決められた額をローマに納め、それ以上に集めた分を自分たちの収入としていたのです。当然のことながらユダヤ人たちはローマのために働く取税人を嫌っていました。ザアカイはこの取税人の頭で、金持でした。人々はザアカイのことを罪人だと言い、白い目で見ていたでしょう。ザアカイはそのような同胞に、金持になることで見下そうとしていたのではないでしょうか。もしザアカイにとってお金だけが人々の嘲笑に耐えて生きる心の支えであったならその心は空しかったでしょう。
 そのようなある日、ザアカイは主イエスがエリコを通られると耳にしました。主イエスのことは以前から話に聞いていました。それはこの方こそメシアでローマのくびきからユダヤを開放しエルサレムに神の国を建設されるというものでした。ザアカイは何故かこの主イエスに心が引かれ、関心を抱いていたのです。
 彼が道に出て行くと既に長い人垣が出来ていました。背の低いザアカイは前の方に走って行っていちじく桑の木に登りました。そこから見ていると、突然主イエスは上を見あげてザアカイに言われました。「ザアカイよ。急いで降りてきなさい」。どうしてザアカイの名前を知っていたのでしょうか。群衆の誰かが木に登っているザアカイを見て彼の名前を呼んだのでしょうか。主イエスは続けて言います「きょう、あなたの家に泊まることにしている」。原文では「泊まらざるを得ない」「泊まるように前から定められている」あるいはもっと厳密には「父なる神が決められていて、今その人を見つけ出したので泊まる、客となることを喜ぶ」と言う意味だそうです。泊まるとは一緒に食事をし、一つ屋根の下に寝ることで、「私はあなたを友とする」ということです。主イエスは初めて会うザアカイを知っていて名前を呼んだのです。名前を知っているということは彼の人格も仕事も生活もその全てを知っているということです。一瞬の出来事でしたがザアカイはそのことを理解したのです。そして主イエスを神の子と信じ、今までの生活を悔い改めました。これが回心です。彼のように木の上で回心した人は少ないのではないでしょうか。回心したザアカイは喜んで主イエスを自分の家に迎え入れました。
 過日、埼玉育児院を訪ねました。教会員で院長の河東田姉のお話を伺い、施設を見学し、子供たちに会いました。新築された家では、小、中学生が保母さんと一緒に家庭的な雰囲気の中で生活していました。幼児たちの部屋に行くと、入って来た私たちを見て彼らの顔が輝きました。膝に上がってくる子もいました。私たちの訪問ですらこんなに嬉しいのなら主イエスが訪ねて来られたらどれほど喜ばしいことでしょう。主イエスが友として心に入って来るのが回心です。
 回心にはしるしが伴います。主イエスを受け入れた者は神の性質に似る者となるからです。神は愛と義なるお方です。神の愛は特に貧しい人、恵まれない人への慈しみとして示されています。ザアカイはそれまで自分を愛しているだけでした。しかし、今ザアカイは自分の財産の半分を貧民に施すと誓ったのです。神の義に似るとはどういうことでしょうか。それは、ザアカイにとって今まで取税人として自分がしたことを徹底的に調べ、もし不正な取立てをしていたなら四倍にして返すということでした。これこそ悔改めです。
回心を経験したクリスチャンはこのようなザアカイに似た証があるのではないでしょうか。悔改めは行いを伴うからです。
その後、主イエスはエルサレムに行き、パリサイ派や律法学者、祭司長などの指導者に捕らえられ十字架につけられ、殺されました。しかし、主イエスは復活されたのです。復活は多くの人にとって信じられない出来事です。直接復活の主に出会った弟子たちですらすぐには信じられませんでした。しかし、ザアカイにとって、主イエスの復活を信じることは他の人ほど難しいことではなかったでしょう。自分の全てを知っておられる主イエスと出会った木の上の出来事を考え「きょう、救いがこの家に来た」と言われた主イエスの顔を思い出せば、「そうか」とうなずけることだったのです。

 伝承は、ザアカイは取税人を辞め伝道者になったといいます。この伝承が事実なら主イエスとの出会いがそれからのザアカイの人生を大きく変えたことになります。きっとあの時の主イエスの笑顔がザアカイの心に焼きついていたに違いありません。