2000年11月19日日曜日

ルカ22章1-23節「新しい契約」


月報 第8号

出エジプト記24章1~8節

 十字架に付けられる前の晩、主イエスは弟子たちと過越しの食事を共にされました。弟子たちにパンを取り、「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である」、そして杯も同じ様にして「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」と言われました。新しい契約とは一体、何なのでしょうか。それに対する古い契約とは何でしょう。その違いはどこにあるのでしょうか。
 
  神が人に約束されることが契約です。私たち人間の約束、あるいは契約は考えが変わったり、状況が変わることにより守られなくなる場合が多くあります。しかし、神は約束されたことを変えることはありません。問題はその契約を人が守るかどうかということなのです。
  はじめに古い契約を取上げてみましょう。古い契約は旧約聖書に幾つか書かれていますが、その中で重要なのはシナイ山での契約です。神はエジプトで四百三十年もの間奴隷だったイスラエルの民を救うためにモーセをエジプトの王ファラオの前に遣わしました。しかし、その結果、イスラエルの民の労働はかえって以前よりも厳しくなりました。そこで神はモーセによって奇跡を行い、エジプトの民に災いをもたらしました。しかし災いが去るたびにファラオは心を頑なにし民を去らせようとはしませんでした。神は最後にエジプトの全ての初子、ファラオの長子から奴隷の子まで、そして人の子から家畜までを撃たれたのです。夜、主の使いがエジプトに出て行くと家々では大きな叫び声があがりました。死者のいない家はなかったからです。しかし、イスラエルの家は主の御言葉を守り、小羊の血を入口の柱に塗ったため主の使いが入ることなく過ぎ越したのです。
  遂にファラオはこのままではエジプトの民は滅ぼされると思い、イスラエルの民を去らせました。その夜、エジプトを出たユダヤ人は、成人男子だけで六十万人といわれます。彼らは荒野に入り、シナイ山に着くと神と契約を結びました。雄牛を殺し、モーセはその血の半分を鉢に取り、残りを祭壇に注ぎました。そして契約の書を読み、民はその契約を守ることを誓約し、鉢の血を民に注いで言いました「見よ、これは主が…あなたがたと結ばれる契約の血である」。この日、民は神が与えられた十戒を守ることを誓ったのです。そして、十戒を守る民を神は救われるのです。
  それでは新しい契約とは何でしょうか。主イエスは御自身の血で民と契約を結ばれました。小羊の血でイスラエルの民が命を贖われ、エジプトから救い出されたように、主イエスを信じるものは十字架の血によって命が贖われ、この世から救い出されるのです。

  古い契約の救いでは、カナンの土地が与えられ、子孫が増え、神の祝福に預かるというものでした。しかし、イスラエルの民は十戒を守ることは出来ませんでした。神が求める正しい生き方をせずに自分勝手に生きたのです。神は預言者を何人も遣わし、神に立ち返るように求めましたが民は聞き入れませんでした。
  このような民を救うため神は主イエスを遣わされ新しい契約を与えられたのです。それは主イエスを信じる信仰による契約で、もはや行いによるものではありません。何故なら主イエスがイスラエルの民、そして私たちに代わって神の前に正しく生きて下さり、律法を全うされたからです。そして少しも罪のない主イエス御自身が十字架に付けられて私たちのために死に、その清い命で私たちの罪を贖ってくださったのです。
  私たち人間はどれほど頑張っても、主イエスのように罪を犯すことなく生きることは出来ません。主イエスが罪のない清い生涯を送ることが出来たのは神であられたからです。天の父は主イエスを義とされ人間の罪を贖うものとして受け入れられました。私たち人間は神の前に正しい義なる者とは認められません。従って人間は他の人の命を贖うことは出来ません。
  神であられた主イエスは、同時に私たちと同じ人間でした。人間であったからこそ主イエスは私たち人間の罪を贖うことが出来たのです。主イエスは私たち人間の身代わりとなられ、私たちが負わなければならない罪の苦しみを御自身の身に負われたのです。
  主イエスは弟子たちに、そして私たちに神の国で一緒に食事を取られることを約束されました。そして御自身の血によって罪が贖われたことを覚えるようにと聖餐を制定されました。新しい契約は私たちに来るべき天の御国に入れること、つまり永遠の命を約束します。そのことを証するため主イエスは私たちの初穂として甦られました。その約束と共に信じる者は信仰による交わりと神の祝福を得るのです。