2000年12月17日日曜日

ルカ1章26-38節「恵まれた女よ、おめでとう」

月報 第9号

《クリスマス礼拝説教》  

 「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」。この挨拶は何のことかと驚くマリヤに天使ガブリエルは続けます。「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです」。
  伝承によるとマリヤはこのときまだ十五歳前後といいます。この天使の言葉の意味を理解するにはあまりにも若い、いや幼かったと言えるでしょう。「主があなたと共におられます」。それは、神は生涯マリヤと共におられるという意味です。神はマリヤにどのような生涯を用意されたのでしょうか。

 「見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい」。マリヤはけなげに答えます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。いいなずけのヨセフはマリヤが身ごもったと聞いた時、どれほど苦しんだことでしょう。誰だか分からない子を宿したマリヤのことを公にすることも出来ました。そうするならマリヤは石で撃ち殺されるかもしれません。しかしヨセフは義しい人だったので、ひとまずイエスを自分の子と認め、それからマリヤと離縁しようとしたのです。ところがこのように考えているヨセフに天使が現れ言いました、「マリヤを妻としてめとるがよい」。十代半ばの若い女性が乳飲み子を抱えて生きるのはあまりにも厳しい時代でした。
 彼らはベツレヘムに行き、そこでマリヤはイエスを産み、飼い葉桶に寝かせました。客間には彼らのいる余地がなかったのです。そしてヘロデが幼子を殺そうとしているのを知ってエジプトに逃げました。しばらくしてヘロデが死んでからガリラヤのナザレで新しい生活を始めました。
 次々と子供達が産まれました。ナザレには今もマリヤとヨセフが生活したと思われるところが残っています。マリヤとヨセフの生活は貧しいながらも楽しいものであったに違いありません。夫ヨセフと子供たちの面倒を見たり食事の世話をしたり忙しい中にも笑顔の絶えない家庭であったでしょう。しかし、そのような生活は長く続きませんでした。ヨセフが死んだのです。それまで喜びも苦しみも共にしてきた夫を失ったことはどれほど大きな悲しみだったことでしょう。しかしマリヤにとって幸いだったのは、イエスが父親の仕事を引継ぐことの出来る年に達していたということでした。そうでなければマリヤ一人で子供たちを養うことは出来なかったでしょう。
 イエスは三十歳になるとマリヤの理解できない行動をとるようになりました。そして、遂には家を出て行きました。母親は子供たちが幾つになっても自分の目の届く所に留めておきたいものです。このことはどれほどマリヤを苦しめ悲しませたことでしょう。ある時などマリヤはイエスのところに押しかけ、家に連れ戻そうとしました。以前の平和が戻ったのはマリヤがこのようなイエスを受け入れ、その教えを信じたときでした。
 しかしこれもつかの間でした。イエスは大祭司やパリサイ人、律法学者に捉えられ、ローマ総督ピラトのもとに連れて行かれ十字架にかけられたからです。夫ヨセフを失ったとき、それは確かに悲しい出来事でした。しかし、愛する我が子が手足に釘を打たれ、十字架につけられ苦しむ姿を見ることに比べられません。だれもこのマリヤの気持を支えることは出来なかったでしょう。
 しかし、マリヤは耐えたのです。つるぎで胸を刺し貫かれるような悲しみの中にあっても、自分を見失うことはありませんでした。そのマリヤに仲間の婦人たちや弟子たちが伝えたのです、「主イエスは甦った」と。マリヤの驚きはどれほどだったでしょうか。マリヤ自身もこの甦られたイエスに出会ったのです。そしてイエスの弟子たち、婦人たち、自分の子たちと心を合わせ、ひたすら祈りをしているとき五旬節(刈入れの祭り)を迎えます。この時、弟子たちの内に聖霊が下り、マリヤもまたイエスが自分の心の中に入ってきたのを知りました。長男、いや何よりも神である主イエスが共に生きて下さり、もはや自分一人ではないのです。自分の内に住まわれた主イエスが生前、自分に語られたことの意味を教えるのです。それは御国で主イエスに再び会えること、そして夫ヨセフに会えることをです。マリヤはこのことを頭で理解するというのではなく心からの事実として受け入れました。

  「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」。この天使ガブリエルの言葉の意味を理解するのにマリヤは生涯をかけ、そしてその苦労は報われました。
この天使ガブリエルの言葉は、主イエスを救い主と信じる者全てに向けられているのです。