2001年10月21日日曜日

使徒15章1-35節「重荷を負わせない」

第19号

創世記17章1節~14節

  9月11日に起ったアメリカ同時多発テロの衝撃は、多くの人にこれからの世界が今までと違ったものになっていくのではないかという不安を抱かせました。その後に続いたアフガニスタンへの報復攻撃により、それが現実になっていくのを実感させられます。今回の多発テロは理由がどのようなものであれ、決して許せるものではありません。しかし、その背後には南北問題(貧富の格差)やアメリカの一極支配(政治、経済、軍事、文化、価値観など)や、アメリカがこの地域や中東でして来た事、特にイスラム諸国からイスラエルの後ろ盾となっていると批判を受けているパレスチナ問題などがあります。
  私たちキリスト者もこの世界の現実に目を背けて生きる事は出来ません。世界で起っている事をどのように考え、受け止めて生きるかは私たちの信仰の問題でもあります。そして、今日の箇所はこのような世界をどのように捉えたらよいのか、その示唆をも与えます。

 15章のはじめには、アンティオキア教会からパウロやバルナバをはじめ数名の者がエルサレム教会に集まって来た事が書かれています。ファリサイ派からキリスト者になった人たちが「異邦人も割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救われない」と主張したからです。彼らは主イエスの救いを否定したのではありません。ただ、それだけでなく割礼と律法も救われるために必要であると言ったのです。(以後、救いには行いも必要とする考えを「行為義認」と呼ぶ)これに対してパウロたちは、神である主イエスが血を流して私たちの罪を贖ってくださったので、それを信じる信仰だけで充分であると主張したのです。(以後、「信仰義認」と呼ぶ)
  私たちは誰でも自分には価値があり、それを人に認めてもらいたいという思いがあります。同じように信仰者にも、神が求めているよい行い(律法)をする事によって神に認めてもらいたいという強い思い、即ち行為義認の考えがあります。しかし、人は律法に熱心になればなるほど、それに反して行動する人たちを裁くようになり、遂にはそのような人たちを殺す事すら正当化するようになります。事実、律法の遵守者であるファリサイ派の人々は、主イエスが安息日を守っていない、また、そのような者が自らを神と称していることなどを理由にして十字架につけました。パウロもまたファリサイ人であった時、キリスト者を迫害し、ステファノの殺害に賛成しました。
  アメリカと戦う人たちは、自分たちは正しいと信じ、その為には罪のない人が巻き添えになっても仕方がないと考えるのでしょう。この考えはアメリカの報復戦争にも見られます。テロの撲滅こそ今回犠牲となった人たちに報い、そして二度と悲惨な犠牲者を出させない道であるとその正当性を主張します。しかし、それにより新たな難民が生まれ、罪のない多くの市民も死ぬ事になるでしょう。その結果、民衆の怒りは広がり、新たなテロが起るのではないかと案じられます。遂にはアメリカ(及び同盟国)とイスラム国家との終わりのない戦いに発展する危険すらあります。正しいと思ってした行為の中にも自分たちの支配や権威を正当化させようとする思い、即ち罪が入っている事があります。いずれにせよテロ行為の大義名分としている様々な問題をそのままにして、武力による解決は難しいと思われます。
  困難ではあってもテロ犯罪者だけが捉えられ、合法的な裁判にかけられる道を選ばなければならなかったのではないでしょうか。そしてテロを生む土壌が解決されなければなりません。豊かな国に住む人たちは、自分たちの利益の追求だけでなくその富や技術を他の国の人たちに分かち合う必要があります。一部の先進国だけが豊かな生活をして、他の国は貧しいままでいいはずはありません。私たち人類は、人種や民族、住んでいる国家が違っても同じ兄弟姉妹だからです(創二章二節)。

 エルサレム使徒会議では行為義認ではなく、パウロたちの主張する信仰義認が公式に認められました。これによってキリスト教はユダヤ教から分かれました。救いは神の恵みによるのです。主イエスは私たちに代わって律法を全うされて死なれ、甦られ、天に昇り、約束の聖霊を父なる神から受け、私たちに注がれました。この聖霊こそダビデの壊れた幕屋を立て直すものです。私たちの内に住まわれる事によってエルサレム神殿ではない新しい神殿、即ち教会が形成されたからです。
  教会は罪人であったにも関らず主イエスの十字架による一方的な愛によって救われた者の群です。その私たちには、不正に対してテロや武力で報復する権利はないと思います。そして、罪人であった私たちに示された神の愛を人と社会に実践する以外、主イエスから何の重荷も負わせられていないと信じます。