2001年12月16日日曜日

ルカ1章5-38節「神にできないことは何一つない」

第21号

〈2001年クリスマス〉 

創世記十八章一節~十五節

アブラハムとサラへの約束
 主はアブラハムに現れ「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」(創世記十二章二節)と言われました。しかしあなたに子を与える、あなたの子孫は星のようになる、という約束はいつまで待っても実現しませんでした。年老いたアブラハムを見て、妻サラが考えたのはつかえめであるエジプトの女、ハガルによって子をもうけるということでした。ハガルは身ごもり、その子はイシマエルと名づけられました。その時、アブラハムは八十六歳でした。
 主の使いは再びアブラハムに現れ「わたしは彼女(サラ)を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸国民の王となる者たちが彼女から生まれる」と言われました。アブラハムは笑ってひそかに言いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(一七章十五~十七節)
 主の使いは再び現れました。神の言葉を聴いて顔を伏せひそかに笑うアブラハムとサラ。神の約束の言葉はむなしいと知ってハガルによって子供を得ていた彼ら。そのアブラハムとサラになお「主に不可能なことはあろうか」と語りかけられる神の姿があります。そしてこの神の言葉を聴いて恐れ、「私は笑いません」となお自分の信仰を取り繕おうとするサラの姿があります。ユダヤ人の先祖となったアブラハムとサラの生き方は私たちに神への信仰とは何かを教えます。
 アブラハムとサラの夫婦はついに主が約束されたように自分たちの子、イサクを得たのです。その時アブラハムは百歳でした。そして九十歳のサラは我が子を自分の胸に抱いたのです。サラは「神はわたしに笑いをお与えになった。聞くものは皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(二十一章六節)と言いました。その喜びはどれほどのものだったでしょうか。

ヨセフとマリアへの約束
 アブラハムからおおよそ二千年後、主の使いがガリラヤのナザレという町に住むおとめマリアに遣わされました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。」マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えます。それに対し天使は「神にできないことは何一つない」と言われました。その言葉は主の使いが年老いたアブラハムとサラに言われたことでもありました。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言って受け入れたのです。
 しかし、マリアの苦難はそのときから始まりました。不義を働いたと思ったヨセフは、マリアと離縁しようとしました。女一人で乳飲み子を抱えて生きていくのは困難な時代でした。しかし、天使はヨセフにマリアが聖霊によって身ごもったという事実を告げたのです。ヨセフとマリアの家庭は、子供たちに囲まれた愛のある和やかなものであったと思われますが、長くは続きませんでした。ヨセフが比較的若くして亡くなり、長男のイエスが父ヨセフの仕事を継ぎ、大工として家族を支えていました。しかし、そのイエスも三十歳頃には公の伝道生活に入り、三年後、十字架の死を遂げることになったからです。マリアはイエスの死を十字架の下で見ていました。どれほど大きな痛みであったでしょうか。しかし、その涙はぬぐわれることになります。
 マリアは三日後、復活の主イエスに出会います。それは生前、主イエスが約束されていたことでした。マリアは主イエスが神であって、神の言葉は確かなことを知ったのです。

私たちへの約束
 ヘブライ人への手紙に、神は私たちにもっとよい都を天に準備されているとあります。そしてアブラハムとサラはこの天の故郷を熱望していたと言います(十一章)。同じようにマリアも主イエスに、そして苦労を共にした愛する夫、ヨセフに御国で再び会うことが出来るのを知ったのです。
 同じことは私たちにも言えます。私たちは、死は永遠の別れであって、愛するものと二度と再び会えないと思っています。しかし、今も生きておられる主イエスと人格的な交わりを持つことによって、永遠の命の約束が確かなものであるのを知るのです。それは「神にできないことは何一つない」という神の絶対的主権を教えるものです。そしてそれは、永遠の命が確かなのを教えるために、神が人となってこの世に来られたクリスマスの出来事でもあるのです。