2002年1月20日日曜日

使徒24章1-27節「死者の復活のこと」

第22号

〈新年礼拝〉

新しい世界


エレアーデという人の書いた永遠回帰の神話」という本を読みますと、古代社会では、宇宙は永遠で物質や生命はその中で現れ消えていく、すなわち万物は成長と衰退を繰り返し、それはあたかも月が新月から満月に満ち欠けを繰り返すのと同じであると書かれています。そして一年をそれに当てはめると、正月は新しい世界の始まりとなります。日本ではごく最近まで、新しい年に古い年の借金の取りたてはありませんでした。落語では長屋の大家さんは何としても除夜の鐘がなる前に、たまっている家賃を取り立てなければなりませんでした。反対に店子の八つぁん、熊さんにとっては大晦日さえ過ぎれば借金は帳消しになったのです。新しい世界に古い世界の出来事を持ち込むなら、全てが台無しになってしまいます。そういえば、子供の頃、元旦の朝起きると、太陽も空気も家も全てが新しくなっているように感じたものでした。このような考え方は、今日でも陰暦を使う世界で共通して見られるようです。また、宇宙は永遠から永遠に続くと考えている世界では、この無限の宇宙と一体になるとき心の安らぎを覚えると言われています。子供のころ野原に寝そべって夜空の星を見ながら宇宙に漂った、何ともいえない懐かしい記憶が思い出されます。

神の支配
 聖書の宇宙観、世界観はそれとは違います。宇宙とその中にある全てのものは神によって創造されたと教えるからです。初めがあり終わりがあって歴史が生まれます。もし宇宙が永遠に続くなら全ての出来事は繰り返しに過ぎなくなります。神によって創られたものには創られた目的、すなわち神の意志があります。神の意志があるところには神の力が働いているはずです。そして実際にこの世で働いている神の力を二つの面に見ることが出来ます。一つはニュートンやアインシュタインの相対性理論に代表される、いわゆる数学的、物理的法則でそれら自然の法則によって神は宇宙を現在の状態に保っておられます。宇宙をその状態に保つ物質間の力は神の力によるもので、その力がなくなれば宇宙は一瞬にして崩壊してしまいます。もう一つは、聖書が証するもので、人間は神と結びつくことによって初めて生きるものとされるということです。人は神の力によって本当の意味で生かされるのです。
 神は最初の人間、アダムとエバを創られエデンの園に置かれ、園の中央にある木の実を食べてはならないという戒めを与えられました。その戒めによって神との間に結びつきが生まれたのです。また神はモーセを通してイスラエルの民に十戒を与えられ、その戒めを守ることによって生きるようにされました。さらに神は御自身の独り子、主イエスをこの世に送られ、その言葉を信じ、守る事によって全ての人を生きるようにされました。

死者の復活
 今日の聖書の箇所でパウロは、ユダヤ人議会でファリサイ派やサドカイ派の議員たちに対し、パウロらキリスト者は彼らと同じ先祖の神を礼拝していると言いました。そしてファリサイ派の人々と同じように旧約聖書全体をことごとく信じ、復活の希望を持っていると言いました。サドカイ派の人たちはモーセの五書しか信じず、復活を信じていなかったため、ユダヤ教の正統派とは言えませんでした。ユダヤ人たちは主イエスを信じる人たちを「ナザレ人の分派」と呼び、ユダヤ教の正統派とは認めていませんでした。「ナザレから何のよいものが出ようか」と言ったのです。しかし、パウロはキリスト者こそアブラハムの信仰を受継ぐユダヤ教の正統派であると言いました。主イエスこそ旧約聖書で予言するメシアだからです。
 神がエデンの園を創られたとき、そこには死はありませんでした。死がこの世に入り込んだのはアダムとエバが神の言葉、すなわち戒めに従わなかったためです。その罪の結果はアダムとエバの子孫である人類全体に及んだのです。しかし神である主イエスは、天の父の御言葉に従い少しの罪のない生涯を送られました。そして人でもあった主イエスは私たちと同じ罪の誘惑に会われました。その主イエスが私たちの罪の贖いのために十字架につかれたのです。しかし、罪の結果である死は主イエスを墓に閉じ込めて置くことは出来ませんでした。三日目に甦られれ、私たち信じるものの初穂となられたのです。
 パウロは、正しい者も正しくない者もやがて復活すると言います。復活し主イエスの前に立つのです。そして、主イエスを信じなかった者は裁かれるのです。その裁きとは主イエスの戒め、すなわちその言葉を信じてこの世を生きたかどうかが問われるということに尽きます。しかし、主イエスを信じている者には御国が約束どおり用意されるのです。これこそ本当の新しい世界なのです。