2002年3月17日日曜日

ルカ15章16-32節「福音を恥としない」

第24号

ロマ書1章16-17

ロマ書の主題
  使徒言行録を終え、ロマ書に入りました。今日はその二回目ですが、パウロはこの聖書の箇所でロマ書の主題を記しています。それは 

一.      福音とは神の力である

二.福音には神の義が啓示されている

三.それは初めから終わりまで信仰を通して実現される

ということです。

一.福音とは神の力である
  福音とは、よき知らせです。この世の生涯が終わって神の前に立ったとき、神と私たちとの間に和解、平和が既になされているということです。それは御子に関するもので(ロマ一章三、四節)、人であり神であられる御子が救いに必要なこと全てを私たちに代わってしてくださったということです。主イエスは罪のない清い御生涯を歩まれ、十字架により私たちの罪を贖われ、復活なさり、天に上り、父の御許から約束の聖霊を注がれ、私たちの救いを確かなものとしてくださっているのです。救いは主イエスがなされた業であり、私たちはそのためにすることは何もありません。私たちもまた復活の希望を与えられていますが、私たちの復活もまた神の業に他なりません。

二.福音には神の義が啓示されている
  神は聖なるお方ですが、このことは神は義と愛を併せ持っておられるということです。義とは罪を正しく罰せられるということです。人は全て罪を犯しているので神に裁かれる存在でしかありません。しかし、神の愛はそのような人をも救われようとするのです。神はその愛のゆえに人と契約を結ばれました(虹の契約(創八章九~十七節)、アブラハム契約(創十二章一~三節)など)。神御自身の立てられた契約を守り、罪の結果である死から人を救うために遣わされたのが御独り子、主イエスでした。神は御子を義とされ、その結果、御子を信じる者をも同じく義とされました。福音には神の愛と義が啓示されていますが、そのことは神からの働きかけがあって初めて理解し、認めることが出来るのです。

三.それは初めから終わりまで信仰を通して実現される
 信仰とは見えないもの、すなわち主イエスを信じ、主イエスに従い、復活と神の御計画を信じることです。私たち自身の復活を信じることもまた信仰によります。事実とは誰もが理解し証明出来ることですが、信じることができるためには、啓示が必要とされます。

放蕩息子のたとえ話
 ルカに出て来るこのたとえ話はこのようなパウロの主張を分かりやすく教えるのに適しています。ここで登場する父親は神であり、二人の息子は私たち人間です。弟は父なる神の束縛を逃れて自由に生きようとします。ここに神なしに、自分中心に生きようとするアダムとエバ以来の原罪を見ることが出来ます。弟は父の財産を分けてもらい、それを全て自分のために使おうと家を出ます。しかも父親の目の届かない遠くの町に行くのです。しかし神から離れて生きることによって持っていたものを全て失い、ついには命さえ失う危険にさらされます。その時、初めて弟は正気に戻り、父のもとに帰る決心をします。これが回心であり、悔改めです。信仰には決断と行動が求められます。家にたどり着くと、思いがけず父は息子が帰って来るのを待っています。まだ遠く離れていたのに息子を認め、憐れに思い走り寄ります。そして自分のものを再び息子に与えるのです。
 父親は放蕩息子を罰することなく無条件に赦しました。私たちの常識では、弟は息子と呼ばれる資格のないことをしたのですから、父親としてはその点をはっきりさせ、必要な罰を与えなければいけないはずです。従ってこのような父親に反発する兄の気持ちは良く分かります。
 このたとえ話を解く鍵は、主イエスが語られた話として理解しなければならないということです。主イエスはご自身の十字架でこの放蕩息子を赦されるのです。この放蕩息子の罪は主イエス御自身が十字架で負われたからこそ成り立つ話です。ですから父のところに戻って来さえすれば放蕩息子に限らずどのような罪人であっても赦されるのです。
 この話は主イエスに罪を赦されることによって初めて理解出来ます。残念ながら罪を赦された体験を持っていない人は兄の立場しか理解できないでしょう。兄は父がしたことが分からず、反発して家を出るかもしれません。しかし、赦された弟は二度と父の家を出ることはないでしょう。

福音を恥としない
 救われた者、あるいは放蕩息子にとって父の赦しは福音です。自分には何の義もないのに、罪が赦され永遠の命を受けることが出来るからです。放蕩息子と自分を重ね合わせることの出来る人は福音を恥とするはずはありません。どのような状況にあっても大胆に御言葉を宣べ伝えるのです。