2002年8月18日日曜日

ロマ書8章26-30節「神を愛する者たち」

第29号

  エフェソの信徒への手紙14-7

  マナの会では「信徒の友」の特集を学んでいますが、七月は<「わたし」と出会う旅>でした。その中で「ジョハリの窓」というのがありました。これは心理学者ジョセフ・ラフトとハリー・インガムが考案したもので、人の心の中には四つの窓があるという考え方です。それは、一、自分も他人も知っている私、二、他人だけが知っている私、三、自分だけが知っている私、四、自分も他人も知らない私、です。確かに私たちは自分についてある程度知っているでしょう。明るい、暗い、神経質、短気、おしゃべりといったことです。また積極的な人もいれば消極的な人もいます。このようなことについては周りの人のほうがよりはっきりと見えるものです。しかし、このようなことではなく、他人と違う自分を見つめ、その自分に正直に生きたいという場合の自分とは一体何でしょうか。
  ギリシャの哲学者、ソクラテスは「汝自身を知れ」と言いましたが、人間は自分が分からないのではないでしょうか。どこから来てどこに行くのか、今何をしなければならないのか分からないのです。自分が分からなければ当然生きる目的も分かりません。とりあえず良い大学に入ろう、自分の性格に合った仕事や結婚相手を見つけてなるべく楽しく生きよう、ということになります。しかし、どのような生き方をしても自分が何者であるか分からず、生きる目的が分からないのは苦しいことです。

 私たちは人生経験や心理学、あるいは宗教、哲学によって自分を知ることは出来ません。そうではなく神を知ることによって初めて自分を知るのです。何故なら神は人をご自身にかたどり、ご自身に似せて造られたからです(創:二六)。そして人を造られた神だけがこの私を知っているのです。神は「私はあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた」(エレ:)、そして天地創造の前に、あなたを愛していたと言われます。
  この神があらかじめ定められた人たちを召し出すのです。「神を愛する者たち」は「御計画に従って召された者たち」に他なりません。神によって召し出される前、私たちは神を認めず、反抗し、避けていました。また神を自分の都合の良いように考えていました。しかしそのような私たちを神は捉えられ、神を愛する者に変えられたのです。私たちは神にのみ可能な絶対的な確実さで救われたのです。何故ならその決断は既に永遠の昔、天地が創造される前に下されていたからです。そのことが私に起こったことでした。そして、救いは死で終わるのではなく永遠に続くのです。
  ギター教室を開いている人についての話を聞いたことがあります。この人に娘が生まれました。幼い娘と父はギターでよく遊んでいました。しかしある時父親は娘に才能があるのを発見し、教え始めました。その時から娘にとってギターは楽しいだけでなく、辛い、厳しい学びとなりました。娘の父への信頼とギターへの愛は変わりませんでした。そして娘は成長し、目指していたギターリストとしての道を歩み始めました。父と娘は互いの愛に応えたのです。神は愛する者に神を愛する霊を与えられましたが、それは神と私たちが共に目的に向かって働くために他なりません。私たちはこの与えられた霊によって神の思いが何であるかを知り、神の深みまで極めるのです。神の思いも神の御霊以外には知るものはないからです(一コリ二:一一)。

 神が私たちに与えられる人生の目的とは何でしょうか。それは私たちを御子、主イエスの姿に似たものにしようとすることです。それは御子が多くの兄弟の中で長子となるためです。そしてそれは栄光を与えるため、すなわち私たちに永遠の命を与えるためです。この目的を達成するためには私たちは多くの苦しみ、挫折、絶望を経験しなければなりません。にも関わらず私たちには喜びと希望があります。これらの試練は全て神の愛によるものであって、万事が益となるように働くことを知っているからです。それだけでなく私たちに与えられた神の霊もまた、私たちのために取り成していてくださるのです。ウエストミンスター大教理問答の第一の問は、「人間のおもな、最高の目的は、何であるか」というのですが、その答は「神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」と記されています(ウエストミンスター信仰基準、日本基督改革派教会大会出版委員会編、信教出版社、一九九四年)。つまり神を愛することと言えます。
  この宇宙を造られた神以上に大切なお方はおりません。被造物を神と比べることは出来ないからです。そして神を愛する者は、神はその独り子をお与えになったほどに私たちを愛されているのを知っています。私たちはその神を愛するのです。