2002年10月20日日曜日

ロマ書12章1-2節「なすべき礼拝」

第31号

<神学校日・伝道者献身奨励日>

 個人として神を信じない人はいても宗教をもたない民族はないと言われています。古代では多くの場合、礼拝において神に自己の所有物の一部を捧げる儀式的行為の形をとっていました。捧げものは農産物であれば「供え物」、生きものであれば「いけにえ」となります。日本でも、建築や土木工事をはじめる前に地鎮祭を行い、お酒や、米、果物、野菜などを供え、工事中の安全を神に祈願したりします。
 聖書の時代のユダヤでも祭壇に大麦、小麦といった穀物が収穫の感謝として供えられました。またいけにえとして羊、牛などの祭儀的に清い動物が捧げられました。いけにえはイスラエルの民をエジプトから救ってくれたことへの感謝、神との交わり、そして何よりも民の罪の贖い、すなわち祭壇に注がれた動物の血が自分たちの命の身代わりとして捧げられたことを意味しました(レビ一~四)。キリスト教は、神の子である主イエスがこの世に遣わされ、十字架で私たちの罪のいけにえとなられたことを教えます。しかし私たちの心は頑ななため、神の方で私たちに働きかけ心を開いてくださらない限り信じることはできません。つまり私たちが信じられるのもまた「神の憐れみによって」なのです。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」とパウロは言います(一一:三六)。

 キリスト教の礼拝は、ユダヤ教のいけにえの儀式に代わって主イエスへの感謝と救われた喜びの表明となりました。そして、自分の所有物の一部ではなく、自分自身を捧げるため神のみ前に出るのです。しかし、私たちは礼拝の対象である神をどのように信じているのでしょうか。キリスト者であっても、私たちを取り巻く厳しい現実に目を向ける時、疑いの念が起こるのではないでしょうか。戦争やテロ、差別や貧困、環境破壊などの世界のさまざまな問題を見、また自分自身が怪我や病気をしたり、他人から中傷や迫害を受けた時など、神がおられるとは思えなくなるのです。神がおられるなら何故このようなことが世界に、そして自分の身に起こるのかと思うからです。私たちは皆、自分の考えやこの世の常識、価値観に捉われて生きています。しかし、そのような私たちに主イエスはご自身の言葉に従って生きることを求められるのです。
 主イエスと弟子たちがマルタとマリアの家で食事をされたとき、マルタはその準備で大忙しでした。しかし気が付くと妹のマリアは主イエスの足元で話に聞き入っています。マルタは主イエスのところに行ってマリアに手伝うように言いました。すると主イエスはご自身の言葉を聞くことの方が大切であるとマルタに諭されたのです(ルカ一〇:三八~四一)。主イエスはマルタの常識的な判断に従ってマリアに手伝うようには言われませんでした。パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(一〇:一七)と言います。神の言葉である聖書は万物の創造者なる神と摂理を教えます。飛んでいる空の鳥すら落ちるには神の許しがあり、私たちの髪の毛すら全て数えられていると言うのです(マタイ一〇:二九、三〇)。神の言葉によってはじめて神がこの世を支配しているのであって、人間の考えや偶然、そして因果律がこの世を支配しているのではないのを知るようになるのです。この世に倣うのではなく、心を新たにし、神の言葉によって自分を変えていただくとき初めて、何が神の御心か、何が善いこと、神に喜ばれ、完全なことであるかをわきまえるようになるのです。それがなすべき、すなわち理にかなった礼拝なのです。

  神の言葉を聴いて歩むには毎日曜日の礼拝は欠かすことができません。教会の礼拝では神の言葉が語られ、御言葉の解き明しがなされています。そして語られた神の言葉への応答、すなわち讃美と献身が会衆によってなされるのです。ある人にとって教会の礼拝に出席することは犠牲を伴うことかもしれません。しかし、神を第一にしてその週を始めるなら、払った犠牲以上に神は報いてくださいます。
 公同の礼拝と共に個人でする毎日の礼拝も欠かすことはできません。聖書を読み、祈り、神の言葉を聴くのです。エジプトを出たイスラエルの民はそれぞれが毎日朝、マナを集めてその日一日の食料としなければなりませんでした(出エジプト一六)。毎日の食事と同じように私たちは毎日霊の食べ物が必要なのです。
 求道者の方にはこれからの生涯を教会の礼拝と個人の礼拝でキリストの言葉を聴きながら送ることを勧めます。それは主イエスの導きを信じ、生涯を主イエスに委ねることです。そうすることによって、自分の考えとこの世の常識に従って生きる生き方と比べてどれほどすばらしいかを証できるのです。