2003年3月16日日曜日

ヨハネ1章43-51節「来て、見なさい」

第36号

創世記28章10-16

  人生は時に一つの出会いによってその後の生き方がまったく変わってしまうことがあります。フィリポもナタナエルもそうでした。
 「私に従いなさい」と、主イエスはフィリポに声をかけられました。この出会いをとおして、フィリポはそのお方が聖書に書かれているメシアであることを知ったのです。彼はすぐさまナタナエルに会い、自分はメシアに出会った、それは「ナザレ人で、ヨセフの子イエスだ」と告げました。しかしナタナエルの反応は否定的でした。ダビデの子孫であるメシアはベツレヘム出身でなければならず、ガリラヤから出るはずがなかったからです。そのナタナエルにフィリポは「来て、見なさい」自分で確かめなさいと主イエスのところに連れて来たのです。

 主イエスはナタナエルに言われました。「見なさい、まことのイスラエル人だ、偽りがない」。ナタナエルは驚きました。そしてどうして自分のことを知っているのかと問うたのです。主イエスは、彼がフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見たと言いました。そのことはナタナエル以外の人には知りえないことでした。ナタナエルは驚いて「ラビ、あなたは神の子です、あなたはイスラエルの王です」と主イエスを告白したのです。そのナタナエルに対し、主イエスは、わたしがあなたを知っていたので信じるのか、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と言われ、更に「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われました。
 ナタナエルはいちじくの木の下で何をしていたのでしょうか。当時のイスラエルでは、ラビはいちじくの木の下で弟子たちに教えることがありました。ナタナエルはそこで学んでいた一人だったのかもしれません。あるいは一人で聖書を読んでいたのかも知れません。その聖書の箇所は創世記二八章と思われます。ヤコブの夢の箇所です。

 ヤコブはその名のとおり欺く者、人を押しのける者でした。父イサクをだまし兄エサウに与えられるべき祝福を自分のものにしてしまいました。怒ったエサウはヤコブを殺そうとしました。ヤコブは母の郷里ハランの地に逃れましたが、その途中、ベテルで石を枕に寝ていたとき夢を見たのです。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」のです。そして主が傍らに立ってヤコブに約束されました。それは土地と子孫、そして祝福に関するもので、父祖アブラハム、父イサクに与えられた約束と同じでした。それに加え主はヤコブに「私はあなたと共にいる」と言われたのです。
 ヤコブはベテルで神と出会い、それが彼の信仰の原点となりました。ヤコブの生涯は苦労の連続でしたが、この出来事を忘れず、神に感謝したのです。二〇年後、ヤコブはハランからカナンの地に戻る途中のペヌエルで再び神と会い、名前をヤコブからイスラエルに変えるように言われました。ヤコブはもはや神の民(イスラエル)であって偽る者ではないのです。

 旧約聖書の時代、ほんのわずかな人に神はご自身を啓示されました。ヤコブが見た夢のように、天と地を結ぶ階段によってその人たちが神を知ることを許されたのです。しかし、主イエスが人となってこの世に来られることによって、天は開かれました。主イエスを見ることは神を見ることです。主イエスを知ることは神を知ることです。
 主は荒野を旅するヤコブを見つけ声をかけられました。同じように、主イエスはフィリポとナタナエルを見つけ声をかけられました。ヤコブがイスラエルの一二部族の父となったようにフィリポとナタナエルもまた一二弟子に加えられイスラエルの民、すなわち教会の頭となったのです。それは「見なさい、まことのイスラエル人だ、偽りがない」と言われたことでもありました。そして、今日、主イエスはわたしたちを見つけ弟子とされるのです。
 主イエスとの出会いとは何でしょうか。それは主イエスの方から、前もって知っている者に声をかけられ、ご自身に従う者とされるということです。主イエスが出会いにおいて主導権を持っておられるのです。そのようにして選ばれた者にご自身を知らされ「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と言われるのです。
 わたしたちは、フィリポのように「来て、見なさい」と言って家族を、友人を主イエスのところにに連れて来なければなりません。そうするなら主イエスご自身が声をかけられその人を弟子とされます。そしてその人たちもまたわたしたちと同じように主イエスを知り、神の栄光を見てほめたたえるようになるのです。

ヨハネ1章1-5節「初めに言があった」

第35号


 

創世記一章一節~三節

 多くの人はマリアが主イエスを生んだことによって初めて子なる神が存在するようになったと考えています。クリスマスの出来事があまりにも印象的であるからかもしれません。それですと、主イエスの誕生以前は父なる神しか存在しなかったことになります。ヨハネの福音書を読みますとそうではないことが分かります。主イエスはどのようなお方だったのでしょうか。


一.子なる神(キリスト)は永遠の初めから神と共におられた
 言(ギリシャ語でロゴス)が子なる神、キリストであることは一四節から分かります。初めとは天地創造のときです。言(キリスト)が人となってこの世に来られたのです。パウロも「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(コロサイ一:一五)と言っています。子なる神(キリスト)は父なる神と共に初めからあって本質的に神と等しいもの、神なのです。神から生まれたのであって、被造物ではない子は父と一つの神でありながら区別されるお方でもあります。

二.万物は父、子、聖霊なる神によって創造された
 神が「光あれ」と言われると、その「言」(キリスト)によって光がありました。パウロもまた「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(コロサイ一:一六~一七)と言います。そして聖霊もまた創造の働きに関わっていました。神は霊であり(ヨハネ四:二四)、また「神の霊が水の面を動いていた」のです。ウエストミンスター信仰基準も第四章「創造について」で「父・子・聖霊なる神は、…初めに、世界とその中にあるすべてのものを…無から作ることをよしとされた」と書いています(ウエストミンスター信仰基準、新教出版社)。

三.万物を創造されたその目的は人間の創造にあった
 このことは神は創造の六日目に人を創られ七日目に休息に入られたこと、そして神は人を「我々にかたどり、我々に似せて」創られたことから分かります。三位一体の神が万物を創造されたのであれば、ここで神がご自身を我々と呼んでも不思議ではありません。佐藤敏夫先生(元東京神学大学学長)も「神内部で父と子が向かい合っているのであり、同時に聖霊において父と子の愛の交わりがある。愛とは人格的に向き合っている両者が一つになるということであり、聖霊は向き合っている両者の愛の交わりを媒介するものである。この父と子の聖霊における交わりに似せて人間が創造されたのである。これが人間が神の像に似せて創造されたということである」(「キリスト教神学概論」新教出版社、一三八頁)と書いています。

四.わたしたちは父なる神を見ることはできない
 神は完全に義なるお方で、それ故、完全に聖なるお方でもあります。罪の結果は死であるため(ロマ六:二三)、罪びとであるわたしたち人間は神の前に立つことはできません。事実、旧約聖書では神の前に立つことは死を意味しました。しかし、神は完全な愛なるお方でもあります。熊沢義宣先生(元東京神学大学学長)は「神が本質において、父・子・聖霊の三位一体の神である、ということは、神がみずからのうちに交わりをもつ存在であるということ、すなわち、神の本質が交わりであるということに対する告白であると考えられる。この神がみずからのほかに存在物を創造したのは…被造物をともにその本質である交わりにあずからしめようとする恩恵の意志のゆえである」(創造「キリスト教組織神学辞典」教文館)と書いています。神が人を創られたのは人を愛されわたしたちと交わりを持つためでした。しかしわたしたちの罪が神の前を避けさせ、神を見ることをできなくしてしまいました。

五.神を知る唯一の道
 神の子である主イエスは人となって父なる神を示されました。主イエスの十字架は神が完全に義なるお方、すなわちわたしたちの罪をそのままにして赦されることのないお方であることを教え、神が完全に愛なるお方、すなわちご自身の御子によってわたしたちの罪を贖われたことを教えます。

  父と子は聖霊によって交わりを持ち、わたしたちもまた主イエスと聖霊によって交わりを持つことができます。そしてわたしたちは子なる神を通して父なる神と聖霊によって交わりを持つことができるのです。父なる神は「言」(キリスト)において人と出会うのです。アダムとエバ、アブラハム、そして多くの預言者に「言」(キリスト)で語られました。父と子と聖霊は区別されても切り離すことはできません。