2003年8月17日日曜日

ヨハネ8章39-47節「わたしは真理を語る」

第41号

 

マタイによる福音書20章1-16節

  主イエスは「わたしは真理を語る」と三回繰り返しています(四〇、四五、四六節)。繰り返すのは大切だからに他なりませんが、同時にわたしたちがその言葉を理解するのが難しいからでもあります。わたしたちは主イエスの言葉を何度も繰り返し聞くことによってそれが真理の言葉であることが少しずつ分かるようになります。
  マタイによる福音書二〇章では、主イエスはぶどう園のたとえ話を用いてわたしたちに何かを教えようとしています。ぶどう園の主人は朝六時に出かけて行き、労働者を一デナリオンの約束で雇いました。そして、昼、午後三時、五時にも出かけて行き労働者を雇いました。一日の労働の終わりに、主人は後から雇った順に賃金を支払いました。なんと一時間働いた者も十二時間働いた者も、同じ一デナリオンを支払ったのです。朝から働いていた労働者たちが、一日、暑さの中で苛酷な労働をしたのに他の者と同じ扱いをするのかと不平を言うと、主人は約束どおりのことをしたまでで間違ったことをしていない、自分のものを自分のしたいようにしてどこが悪いのか、と言ったのです。
  労働者の不満はもっともなように思えます。普通はこのようなことの起こらないように、時間給や出来高払いなどなるべく公正なやり方を取ります。主イエスは「わたしは真理を語る」と言われましたが、そうであるならこのたとえをわたしたちはどのように理解したらよいのでしょうか。

  わたしたちの住む資本主義社会は貧富の差があって成り立ち、しかもその格差は広がっていきます。もし、社会に貧富の差がなければ、貧しい人は自分の大切な時間や身体を富んでいる人のために使いお金を得るということはしないでしょう。お金を持っている人はそれによりますます利益をあげています。富は自分の影響力を他人へ行使するための力となり、それは持てる者に地位、名誉をもたらします。人々はより多くの富を得ようと弱肉強食の厳しい競争社会を形成します。アメリカ、イギリス、日本などいわゆるG-8と呼ばれる先進国はその代表です。
 格差が生まれるのは何も西欧諸国だけでなく、発展途上国や共産国、そして独裁国家と呼ばれる国々でも同じです。権力を握った者はそれを既得権とし、言論、情報、市場を自分たちの都合の良いように操作し、地位、名誉、財産を守ろうとするからです。その結果、社会は腐敗していきます。
 この貧富の差は国内だけでなく南北間にもあり、格差は拡大する一方です。発展途上国の人たちは自分たちが着ることも履くことも出来ない高価な服や靴を作って先進国に輸出しています。ピューリタンたちが建国したアメリカは今、新たな帝国となり世界の富を独占しようとしています。世界中で迫害されてきたイスラエルの人たちは戦後自分たちの国を建設しましたが、武力で周りの貧しいパレスチナ人やアラブ諸国と戦い、国土と民と富を守ることに必死です。

 三年前、教団の宣教師でアラハバード農科大学農村開発教育学部学部長として働かれている牧野一穂先生をお訪ねする機会がありました。先生は一九六四年にインドに渡られましたが、その当時、日本はまだインドの人々に知られておらずネパールよりもっと遠くから来た人とみなされたそうです。文字通り「最も低い者となってインドの人たちに奉仕する」がモットーだったそうです。その牧野先生はインドに来てはじめてぶどう園のたとえ話の意味が分かったと言われました。それは一二時間働いた人が、一時間しか働かなかった人と一緒に喜ぶことの出来る社会だと言うのです。それがこのたとえの解き明かしです。わたしたちはすぐ他人と比較して自分の立場を考え、権利を主張します。しかし、そのような態度からは他人と一緒に喜ぶ気持ちは生まれて来ません。このぶどう園のたとえ話は神の国の教えなのです。神の国の住人には神の国にふさわしい生き方があるからです。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と主イエスは言われます(マタイ、一四節)。それは後から来た人が自分と同じになる、あるいは先に行くのを喜ぶことの出来る生き方です。その生き方を主イエスは教えているのです。「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神のことばを聴く」(四六、四七節)。そして更に主イエスは言われます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(三一、三二節)。確かにこの世に神の国の民はいるのです。そして、主イエスの言葉を実践しています。