2003年11月16日日曜日

ルカ24章44-49「罪の赦し」

第44号

〈召天者記念礼拝〉

 主イエスの言われる聖書とは旧約聖書のことで、モーセの律法、預言者の書、詩編のことです。旧約聖書は古くからイスラエルに伝わる神の啓示による伝承を主イエスが生まれる八百年から四百年前頃までにまとめたものです。主イエスは聖書の中でメシアすなわち御自身について書かれてあることは全て実現すると言われました。その中でも特に苦難と復活をあげておられます。弟子たちによって書かれた新約聖書もまたはじめから終わりまで主イエスについて、そして特に苦難と復活を証しするものです。

 主イエスの受けられた苦難はイスラエルの指導者のねたみによるものでした(マタイ二七:一八)。彼らはイスラエルの民の気持ちが自分たちから離れ、主イエスを神として受け入れ始めたのを知りました。何とかしてそれを妨ごうとし、結果的にローマ総督ポンテオ・ピラトに引渡し、ローマに反逆する政治犯として十字架で処刑するよう求めたのです。木にかけて殺されるものは呪われた者であって、そのような者が神の子であるはずはなかったからです(申二一:二三)。しかし、主イエスの苦難を見るときそれはねたみだけでなくわたしたち人間の普遍的な罪の故だったことが分かります。
 ユダヤ人指導者たちは主イエスが彼らの王となることによって自分たちの地位、名誉、財産を失うのを恐れました。また、イスラエルの民は神である主イエスが奇跡を行って自分たちの衣食住を満し、病気を癒すよう求めました。彼らは主イエスが自分たちの言うことを聞く限りにおいて王として敬い従うのですが、要求が満たされない時、主イエスを拒否するのです。その結果、彼らもまた指導者の扇動に乗って主イエスを十字架につけるように求め、「神の子なら、自分を救ってみろ。…十字架から降りて来い」と嘲弄しはじめたのです(マタイ二七:四〇)。主イエスの弟子たちはどうだったでしょうか。彼らは神の国の実現に自らの命を懸け、主イエスに従いました。しかし、それはあくまで自分たちの夢を実現してもらうためであり、それが適わないと知った時、あの人を知らないと否認したのです(ルカ二二:五七)。
 主イエスの苦難を見るとき、わたしたち人間はすべて、突き詰めてみると自分中心に生きているのを知らされます。主イエスが天の父の御心を知ってそれを御自身の意思とし、それに従うのを喜びとしたのと全く違います。わたしたちは神の支配を望まず、今の自分を変えたくないのです。自分が神であるためにはまことの神をも殺してしまうのです。
 そのような身勝手なわたしたちの罪を赦されたのが主イエスでした。主イエスは十字架でわたしたちの罪を贖われたからです。ギリシャ語で「贖う」とは市場で売られている奴隷をお金で買って自分のものにすることです。罪に売られ、罪の奴隷となっているわたしたちを主イエスはご自身の尊い血潮でもって買い取り、神のものとしたのです。十字架の出来事はわたしたちの罪が神の命と引き換えに清くされたということです。
 復活もまた主イエスにより実現されました。聖書は、死は人類の祖先であるアダムとエバが神の戒めを破ったことによりこの世に入ってきたと教えます。従って死は罪の結果で、罪がなければ死はなかったのです。しかし、神である主イエスには少しの罪もありませんでした。そのため、死が主イエスを支配することは出来なかったのです。それが復活の出来事です。しかし、人でもあられた主イエスは人の弱さを御存知で、わたしたちと同じように罪の誘惑に会われたのです。その主イエスがわたしたちの罪を贖われたが故に、わたしたちもまた復活することができるのです。

 主イエスの苦難と復活はわたしたちに永遠の命が確かであることを教えます。しかし聖書を知識として読んだだけでは救いにいたることは出来ません。救われるためには悔い改めが求められるのです。悔い改めとは自分中心に生きていたその罪を認め、これからは神中心に生きる決心、すなわち回心することです。そうすることによって初めて救いが自分のものとなるのです。そして悔い改めた時、わたしたちは主イエスが約束された聖霊を受けるのです。それは古い自分に死んで新しい自分に生まれ変わることです。そして、その人は神によって新しく創造された者であって、死んでも生きるのです(Ⅱコリ五:一七)。
 召天者記念礼拝は、既に御許に召されている方たちの信仰を想い起こし、自分の与えられている信仰を確かなものとし、再会する希望を新たにすることに意味があります。それはご自身の苦難と復活により、わたしたちを永遠の命に適うものとしてくださった主イエスに感謝する機会でもあります。