2004年6月20日日曜日

ヤコブ2章14-26節「行いの伴わない信仰」

第51号

 ヤコブは「行いの伴わない信仰」は「役に立たない」、「その人を救うことは出来ない」、「それだけでは死んだもの」であると言います。それに対し、多くのキリスト者は、パウロが言うように人が救われるのは信仰であって行いによるのではないと考えます。宗教改革者ルターもまた同じ信仰義認の観点からヤコブ書を「わらの書簡」として退けました。このヤコブの主張は、そのように考える人たちにとって違和感を覚えるのではないでしょうか。
 確かに人は信仰によって救われるのであって、救いのための良い行いは何の役にも立ちません。わたしたちが救われるために必要なことはすべて主イエスがしてくださいました。わたしたちは主イエスを信じる信仰によって救われるのです。では、行いは信仰とは関係ないのでしょうか。否、救われたわたしたちには良い行いが求められています。それがヤコブの主張です。この書簡は、もう既に救われたキリスト者を対象にして書いて送っているのです。
 主イエスも救われた人の行いの大切なことを強調しています。例えば山上の説教ですが、その終わりは「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると倒れて、その倒れ方はひどかった。」と締め括っています(マタイ五~七章)。
 アブラハムもまた神を信じる人でした。神はそのアブラハムに、独り子イサクを焼き尽くす捧げものとして献げるように求めたのです。神はアブラハムの子孫から救い主が生まれることを約束していたわけですからイサクを捧げればその約束は果たせなくなるはずです。にも関わらずアブラハムはイサクを捧げました。アブラハムは死からの甦りを信じていたからです。(ヘブル一一:一七~一九)。神はその行いを見てアブラハムの信仰を義とされたのです。アブラハムの信仰はわたしたちの信仰でもあります。主イエスは十字架につけられ、そして三日目に甦られました。それによってわたしたちの罪が赦され、復活することを教えられました。わたしたちもまたアブラハムと同じように死からの甦りを信じるのです。

 ルカによる福音書一七章には、一〇人の重い皮膚病の人たちが主イエスのところに来て「わたしたちを憐れんでください」と叫んだことが書かれています。主イエスは彼らを哀れみ、祭司のところに行くように言われました。そしてその途中、彼らの病気は癒されました。その内の人は大声で神を讃美しながら戻って来て、主イエスの足元にひれ伏して感謝しました。主イエスはその人に対し「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。ところが他の九人は主イエスのところに戻りませんでした。彼らは病気は癒されましたが、その罪は赦されませんでした。病気が癒されるのと罪が癒されるのとでは比較することが出来ません。病気はこの世だけのことですが、罪が赦されてはじめて永遠の命に生きることが出来るようになるからです。わたしたちの罪は二千年前の主イエスの十字架により赦されています。しかし、主イエスのところに来て感謝する人はほとんどいないのです。感謝することこそ礼拝です。

 ローマ帝国時代、皇帝を神として礼拝することが求められました。このような社会にあって、教会に神を礼拝しに行くことは死の危険を冒すことでした。ローマには今でも隠れて地下で礼拝した跡、カタコンベが残っています。また、当時のキリスト者を表現して「無学、労働者、老婆…言葉で信仰を言い表せないものも多くいる…彼らは行為で表し、良いことを実行…。打たれても…、盗まれても…、求めるものに与え、隣人を自分自身のように愛している」と書かれたものが残っているそうです。多くのキリスト者が礼拝の自由を奪われ、迫害され殺されました。にも関わらず、キリスト者は非常な勢いで増加していったことは歴史が示しています。そしてついには、ローマ帝国はキリスト教を国教としました。
 わたしたちは自覚症状のない重い心の病気にかかっています。それは自己中心という病です。主イエスがわたしたちの罪のために十字架につけられ、それによってわたしたちに永遠の命を与えられました。しかし感謝せず、礼拝に出て何の得があるのかと考えるのです。また、忙しい、家族が良く思わない、環境が整えられたらと様々な理由をつけて主イエスのところに来ようとはしません。しかし、感謝のない生活は喜びや目的のない空しいものです。感謝があれば神に喜ばれる生き方をしようとします。感謝のない信仰は行いのない信仰となってしまいます。礼拝は決してキリスト者の義務ではなく、救われた者が主イエスにひれ伏す感謝の表現なのです。