2004年9月19日日曜日

コリント一7章1-40節「定められた時」

第54号


 
 石川栄一先生(北本教会牧師、日本聖書神学校教授)の「旧約聖書における『エース』の理解」(学報、第一一四号)には次のようなことが書かれています。ユダヤ人哲学者A.J.ヘッシェルはユダヤ教を定義して、「歴史の宗教、時間の宗教」とし、また、旧約聖書は、「歴史の中で、ある特定の時を選んで、神が出来事を起こしてきたその記録書」である。
 「時」にはクロノスとカイロスがあります。クロノスは時の流れであり、カイロスは出来事としての時です。ユダヤ人にとっての「時」はカイロスであって、それは生まれた時、結婚の時、子供が生まれた時、そしてまた、神との出会いの時、救いの時、選ばれた時です。「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」のです(コヘレト三:一)。わたしたちにもこのような時があります。これは全て神に定められた時であって偶然ではありません。
 

 ノアの時代にも発達した文明がありました。しかし、人々は自己中心となり、地は暴虐に満ちていました。神はこのような人を創られたのを後悔し、滅ぼそうとしました。しかし、主は義人ノアを他の人と一緒に滅ぼすことはできませんでした。ノアは主の前に恵みを得たのです。主はノアに洪水で地を滅ぼすと告げ、救われるために箱舟を作ることを命じました。ノアは主の言葉を信じ、箱舟を作りはじめました。船は長さが一三七メートル、幅二三メートル、そして高さが一四メートルという巨大なものでした。しかもノアはその船をアララト山のふもとに作ったのです。人々はノアのしていることが信じられませんでした。しかし、全てが出来上がり、動物たちとノアが箱舟に入ったとき、主は戸を閉められ、洪水が襲ったのです。水は山の頂上をも覆い、全ては水の中に没しました。古い世界は洪水によって滅び去りました。そして、新しい世界がノアとその家族八人によってはじまったのです。  今日の社会にもノアの時代と共通した面を見ることができます。文明が発達したにも関わらず暴虐が地に満ちています。南北間の経済格差、宗教対立、人種間の争い、そして女性、子供、いや幼児でさえ問わないテロによる殺戮、主はこれらのことをこのままで放置されることはないでしょう。この世を滅ぼされる「定められた時」があるのです。それは主イエスの再臨の時に他なりません。そして、主イエスはその後に来る新しい世界に生きることを赦される聖なる者たちを選ばれているのです。聖なる者とは主イエスの清い生涯と十字架の血による贖いを信じる者です。その人たちに主は定められた時が来るのを前もって知らせておられます。「定められた時」は主イエスを信じる者にとって救いの時ですが、信じない者にとっては裁きの時となるのです。

 主イエスが公生涯をはじめられる前、洗礼者ヨハネが現れ「時は満ち、神の国は近づいた」と宣べました(マル一:一五)。主イエスは、そのヨハネから洗礼を受けられ、福音を人々に宣べ伝えましたが、この世での神の国の実現を促す弟子たちの問いに「わたしの時はまだ来ていない」と言われました(ヨハ七:六)。そしてエルサレムの人たちがご自身を信じないのを悲しみ、わたしの時を知らない、と涙を流されました(ルカ一九:四四)。そして、公生涯の終わり、すなわち十字架につけられる前夜、ゲッセマネの園で主イエスは「時が来た」と言われました(マル一四:四一)。その「定められた時」とは、十字架上で流された血によってわたしたちの罪が贖われた救いの時に他なりません。しかし、死んで天に昇られた主イエスは、再びこの世に来れれることを約束されています。その時もまた「お定めになった時…」(使一:七)なのです。主は突如として箱舟の戸を閉められたように「人の子は思いがけない時に来る」のです(マタ二四:四四)。そしてその間、わたしたちもノアのように箱舟の建設を求められています。それが教会であって、建物や組織ではなく主イエスを信じる信徒の群れという意味です。教会こそ、来るべき神の裁きから救われるために逃げ込むことができる箱舟です。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と書かれている通りです(Ⅱコリ六:二)。
 ノアの時のようにこの世界の終わりは、新しい世界の到来でもあります。主イエスは、わたしたちが永遠に生きることのできる新しい天と地を用意されていることを教えます。従って、定められた時を見るということは永遠を見ることにつながります。それは今がどんな時であるかを知ることでもあります(ロマ書1311)。この世とこの世の有様は過ぎ去ります。ノアのときのように飲み食いし、嫁ぎ娶り、忙しく仕事をしている時に突如として滅びが襲うのです。わたしたちは永遠に続くその「定められた時」に目を留めて生きることが求められているのです。