2005年1月16日日曜日

ルカ11章5-13節「門をたたきなさい」

第58号

 〈埼玉(二区)新年合同礼拝〉

 主イエスは、どのように祈ったらよいのかとの弟子たちの求めに応じて、「主の祈り」を教えられました。そして引き続きたとえ話をされました。
 友人が真夜中に立ち寄りました。パレスチナでは、旅行者は熱い日中を避け、日が陰ってから旅をしました。何か起こるとすぐに真夜中になってしまいます。その家には突然着いた友人に食べさせるパンはありませんでした。人々は一日必要な分だけのパンを朝焼いたからです。それで別の友人の家までパンを借りに行ったのです。
 このたとえ話の前提となっているのは、「あの人のところには必ずパンがある」ということと「それが唯一の解決方法」だということです。わたしたち日本人の多くには慎み深い、淡白、潔い、気が弱い、無理強いは嫌い、遠慮がちといった言葉が当てはまります。ですから、その人のところにいく前から「今時分行ったのでは悪い」、「起きていればいいのだが」という気持があります。友人の家に着いても遠慮がちに声をかけます。しかも、中から「面倒をかけないで下さい。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけには行きません」という声がすれば、きっと驚いて、来なければよかった。立ち寄った友人には我慢してもらおう、とすぐにあきらめて帰ってしまうでしょう。しかし、この人は決してあきらめませんでした。与えられるまで戸をたたき続けたのです。

 主イエスは祈りは簡単にあきらめてはならないと言われるのです。「執拗に頼みなさい」、与えられるまで「門をたたきなさい」、そうすれば必要なものは何でも与えられると言われます。事実、生前、主イエスのところに来て断られた人はいませんでした。病気の人、体の不自由な人、その全てが癒されたのです。中には一見断られたように見える人もいます。例えばシリア・フェニキアの女の人は、娘が悪霊にひどく苦しめられていたため、主イエスのところに来て癒してほしいと頼みました。すると、主イエスは自分はイスラエルの民に遣わされているのだと答えられました。それに対しこの女は、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです、と答えました。主はこの女の信仰をほめ、癒されました(マタイ一五:二一~二八)。主イエスはこの女の願いを拒絶されたのではなく、謙虚な信仰を試されたのです。

 主イエスはわたしたちに何が第一に必要かを教えられています。それは聖霊です。その霊によってわたしたちの「死ぬはずの体をも生かしてくださる」からです(ロマ八:九~一一)。聖霊によってわたしたちの体は聖なる宮となり、神がわたしたちを支配するようになります。わたしたちは「神の国」の民となるのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」のです(マタイ六:三三)。
 パンはわたしたちの飢えを癒します。同じように聖霊はわたしたちの心の飢えを癒すのです。水のたとえと同じように永遠の命の糧となるのです(ヨハネ四:一三~一四)。
 ルカの福音書には「放蕩息子」のたとえが書かれています(一五:一一~三二)。父から財産を分けてもらった息子は遠い外国に行き、そこで放蕩の限りを尽くし財産をすべて使ってしまいます。そして飢饉が起こるのですがこの息子には食べるものがありません。そこで初めて父親を思い起こします。そこにはたくさんのパンがあるからです。帰ってきた息子を遠くから見つけた父親は飛んで行って食事だけでなく必要なものをすべて与えます。このたとえの前提もまた「あの人のところには必ずパンがある」ということと「それが唯一の解決方法」だということです。

 主イエスはわたしたちの心の扉をたたいておられます。わたしたちが扉を開けるなら入って来て一緒に食事をされるのです(黙三:二〇)。聖霊を与えることは天の父の御心なのです。わたしたちの周りには人生という旅の途中に立ち寄った多くの友人がいるのではないでしょうか。真夜中、それは光のない世界で、心の飢え渇きに苦しんでいることを示しています。わたしたちもまた「あの人のところには必ずパンがある」ということと「それが唯一の解決方法である」ことを知らされています。今は恵みの時、救いの時です。しかし、ノアの洪水の時のように、世界は暴虐に満ちています。主イエスの再臨の日は近いのです。終わりの日が来るまでにわたしたちは執拗に祈り続けることが求められています。教会が霊に満たされ、リバイバルが起こること、そして家族、友人、隣人のために祈ることです。祈り続けることをわたしたちのこの一年間の課題にしようではありませんか。