第58号
〈埼玉(二区)新年合同礼拝〉
主イエスは、どのように祈ったらよいのかとの弟子たちの求めに応じて、「主の祈り」を教えられました。そして引き続きたとえ話をされました。友人が真夜中に立ち寄りました。パレスチナでは、旅行者は熱い日中を避け、日が陰ってから旅をしました。何か起こるとすぐに真夜中になってしまいます。その家には突然着いた友人に食べさせるパンはありませんでした。人々は一日必要な分だけのパンを朝焼いたからです。それで別の友人の家までパンを借りに行ったのです。
このたとえ話の前提となっているのは、「あの人のところには必ずパンがある」ということと「それが唯一の解決方法」だということです。わたしたち日本人の多くには慎み深い、淡白、潔い、気が弱い、無理強いは嫌い、遠慮がちといった言葉が当てはまります。ですから、その人のところにいく前から「今時分行ったのでは悪い」、「起きていればいいのだが」という気持があります。友人の家に着いても遠慮がちに声をかけます。しかも、中から「面倒をかけないで下さい。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけには行きません」という声がすれば、きっと驚いて、来なければよかった。立ち寄った友人には我慢してもらおう、とすぐにあきらめて帰ってしまうでしょう。しかし、この人は決してあきらめませんでした。与えられるまで戸をたたき続けたのです。
ルカの福音書には「放蕩息子」のたとえが書かれています(一五:一一~三二)。父から財産を分けてもらった息子は遠い外国に行き、そこで放蕩の限りを尽くし財産をすべて使ってしまいます。そして飢饉が起こるのですがこの息子には食べるものがありません。そこで初めて父親を思い起こします。そこにはたくさんのパンがあるからです。帰ってきた息子を遠くから見つけた父親は飛んで行って食事だけでなく必要なものをすべて与えます。このたとえの前提もまた「あの人のところには必ずパンがある」ということと「それが唯一の解決方法」だということです。