第63号
山上の説教の「幸福への八つの態度」はいずれも同じ形の文です。すなわち前文は「…は、幸いである」と現在形で、後文は未来形となっています。最初は「心の貧しい人」です。貧しいとは地位も名誉も財産もない人です。社会で踏みつけられ、見放され、頼ることの出来るのは神だけという人です。二つ目は「悲しむ人」です。地位、名誉、財産を失うのは悲しいことです。親しい友人、親族、配偶者を失うとき、そして、自分の死を前にして悲しむのです。三つ目は「柔和な人」です。それは問題を神に委ねることの出来る人です。ですから、うろたえたり、あせったり、怒鳴ったりしません。語源的には「貧しい」と同じですが、人や神に対しもっと積極的に対応しています。神に対して謙虚で、人に対しては堂々としているのです。四つ目は「義に飢え乾く人」です。「義」とは神との平和です。それは主イエスの十字架の贖いによるものです。「義」とは社会的な正義を求めるということでもあります。「義を行う人」という意味ではありません。五つ目は「憐れみ深い人」です。他の人の心の中に入ってものを見、考え、感じることの出来る人です。他者との間に対立、嫉妬、脅威がないということでもあります。わたしたちの他者への憐れみは神に憐れみを要求する権利とはなりません。神の憐れみを受ける立場であるが故に人にも憐れみ深くなるのです。六つ目は「心の清い人」です。自己中心でない、二心なく純粋に神の栄光を求める人です。七つ目は「平和を実現する人」です。平和はヘブル語で「シャローム」です。それは争いがないことを意味することはもちろん、それ以上の意味を持っています。体と心が満足している状態です。旧約聖書のソロモンの時代、外にも内にも敵がなく、災いがありませんでした。それが平和と繁栄を招いたのです(列王記上五章)。最後は「義のために迫害される人」です。上記の実行のために戦い、迫害される人です。そして上記文すべてに該当する「幸い」とは「神に祝福される」ということです。「幸い」が神の贈り物として与えられるのです。