第70号
主イエスは洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパスによって殺されたと聞くと、舟に乗ってそこを去り、人里離れたところに退かれました。それを知ると群衆は湖岸を回って後を追いました。その数は男だけで五千人、女と子供を加えるなら少なくとも一万人はいたと思われます。彼らは異邦人であるローマに税金を課せられ、生活は苦しく、貧しかったことでしょう。主イエスは彼らを憐れみ、御言葉を語り、多くの病人を癒されました。
夕暮れになると、弟子たちは主イエスに、群衆を解散させ、めいめいが村へ食べ物を買いに行くように言いました。しかし、主イエスは「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われ、五つのパンと二匹の魚で彼らの胃の腑を満たしました。主イエスのところに集まって来た人々にも、これと同じことが言えます。彼らは主イエスにパンを求め、病人が癒されることを求めました。そして、ローマからの独立を求め、この世に神の国を建設しようとしました。人々は主イエスを自分たちの王にしようとしました(ヨハネ六:一五)。それは彼らの必要を満たす存在になるということで、その限りにおいて彼らは主イエスを王として敬うということです。かつてイスラエルの民がエジプトを恋い慕ったように、人々の思いもこの世のことだけでした。イスラエルの民が「約束の地」に目を向けることがなかったように、彼らもまた主イエスの説かれた「永遠の御国」に目が開かれることはありませんでした。主イエスはこのような彼らの思いをご存知で、一人、山に退かれたのです。主イエスがこの世に来られたのは、この世のパンを与えるためではなく、永遠に生きることのできる命のパンを与えるためでした。それは物質的な糧ではなく心の糧です。これこそわたしたちの心の深層にある飢え渇きを満たす「聖霊」です(ヨハネ四:一~四二)。多くの人たちは、このような主イエスに失望して去って行きました(同、五:三九~四〇)。十字架を前に、主イエスのもとに最後まで残ったのは僅かな人々に過ぎませんでした。「招かれる人は多いが選ばれる人は少ない」のです(マタイ二二:一四)。