2006年10月15日日曜日

マタイ26章57~68節「お前はメシアなのか」

第78号

主イエスは大祭司カヤファのところに連れて来られ、そこからサンヘドリンとよばれる最高法院に引き出されました。既に律法学者や長老からなる議員たちは集まっていました。最高法院は大祭司を議長とする七一人の構成でしたが、裁判は二三人の定員数だったと言われます。
 ユダヤ人指導者たちは以前から主イエスを殺そうとしていました(一二:一四)。多くの人たちがファリサイ派の人たちや律法学者たちの教えから離れ、主イエスに従うようになったためです。民の心をつかんでいる主イエスへのねたみと、自分たちの教えがないがしろにされた怒り、民の指導者としての地位を失う恐れ、それによる社会的、政治的混乱とローマ軍の介入を危惧したからです(マタイ二七:一八、ヨハネ一一:四五~五四)。彼らはユダの裏切りによって「真夜中」、「武装した群衆」により主イエスを連行しましたが、昼間は群衆を恐れ捕まえることはできませんでした(二六:五、一四~一六、ルカ一九:四七~四八)。夜、主イエスが弟子たちと集まりローマに陰謀を企てていたとの疑惑の演出をも、もくろんでもいたのでしょう。裁判は最初から死刑判決を目的としたものでした。

 裁判が始まると、証人たちの証言はいずれも不完全なものであることが分りました。最後に一番有力な起訴事由が提出されましたが、それは主イエスが「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」というものでした。主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われましたが、自分が壊すと言ったのではなく、また、「イエスの言われる神殿とは、御自分の身体のことだった」のです(ヨハネ二:一九~二二)。この最後の二人の証言も証拠とはなりませんでした。
 死刑宣言を下すのが難しい状況の中で、大祭司は主イエスに「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」と言い「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は生ける神の子、メシアか」と尋ねました。
 主イエスは「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と言われました。
 主イエスが黙り続けていたなら、彼らは死刑を宣告できなかったでしょう。主イエスもこのように答えることによって死刑が宣告されるのを知っていました。何故、答えられたのでしょうか。それはこの問いの持つ本質的な事柄を無視することができなかったからです。
 主イエスは、かつてフィリポ・カイザリアからの帰途、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねたことがありました。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。すると主イエスは「…あなたはペトロ、わたしはこの岩(ペトロの告白)の上にわたしの教会を建てる。…」と言われました(一六:一三~二〇)。
 主イエスが「わたしは神の子、メシアである」と宣言されるなら、わたしたちはその御前にひざまずき、礼拝しなければなりません。しかし、大祭司も法廷にいた人たちも誰一人として主イエスが生ける神の子、メシアとは信じていませんでした。大祭司は「服を引き裂きながら…(この男は)『神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか』」と言い、人々もまた「『死刑にすべきだ』と答えた」のです。
 主イエスの答えは、わたしたちに主イエスが神の子、メシアであるかどうか信仰の表明を促がすものでした。無視することも、中立の立場を取ることもできません。もし、主イエスが神の子、メシアであることを否定するなら、今度は再臨の主イエスに裁かれることになるのです。

 主イエスはご自身が神の子、メシアであることを示すため、力を顕示されることはありませんでした(二六:五三)。無力な者となって人に裁かれる道を選ばれました。それが人々の罪を贖う唯一の道であることを知っておられたからです。人々は「イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ち」ました。
 「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げて」しまいました(二六:五六)。一番弟子のペトロですら主イエスから「遠く離れて」安全な場所で事の成り行きを見守っていたのです。
 自分の力で主イエスに従うことはできません。しかし、御自分のために力を用いなかった主イエスに神の力を見い出す時、わたしたちは救われます。自分の罪を認め、悔い改め、聖霊を与えられることによってはじめて主イエスに似た者に変えられていくのですが、すべては主イエスの導きの内にあるのです。