2007年9月16日日曜日

フィリピ書2章12-18節「自分の救い」

第89号
 
 パウロはフィリピの人たちに「わたしの愛する人たち、…従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧めます。このことは「救われていないあなた方が救われるように」ということでも、「救われているあなた方が、その救いから漏れることのないように」ということでもありません。「あなたがたの救いは確かなこと」だからです。
 わたしたちは、救われるためには自分の努力や決心が大切と考えがちです。教会に行き、聖書を読み、祈ることで、また、自分は正直で、素直で、謙遜だからとか、何らかの「取り柄」があったからと考えるのです。
 確かに、わたしたちは喉が渇けば水を飲むこともできますし、人生がいやになれば窓から飛び降りることだってできます。しかし、救いはそのようなことではありません。
 わたしたちは罪という「泥沼」の中に生きているのです。右足を上げようとすれば左足が沈み、左足を挙げようとすれば右足が沈みます。その中で立ったり座ったり、手、足を動かしたりしているのです。それは自由ではありません。泥沼から出ることができないからです。わたしたちは神によってのみ泥沼から救われ、しかも岸に上がってはじめて自由になったことを知るのです。罪からの救いは人間の意志や努力ではできません。主イエスに出会って、初めて、自分が救われたのは神の選びと恵みであったことに気がつきます。救いは、神がその全ての主権を握っているのです。

 モーセに率いられて出エジプトを出たイスラエルの民は人種や民族の異なる雑多な人たちでした。彼らは紅海を渡って荒野に出て行くことにより、イスラエル、すなわち神の民、律法の民、契約の民となりました。荒野で彼らはすぐに喉の渇きを覚えました。そして、飢えを覚えました。そこには何の楽しみもありませんでした。家族の団欒すらなかったのです。神は彼らを水と、マナで養いましたが、民は神とモーセに絶えず不平を言い、つぶやきました。そのため、最初の世代はカレブとヨシュアを除いて全て荒野で滅ぼされました。荒野で生まれて育った新しい世代が、ヨルダン川を渡って乳と蜜の流れる約束の地に入ることが許されました。
 出エジプト記に書かれていることは、キリスト者の生活に重なります。わたしたちはこの世から出てきて洗礼を受け、教会の民となりました。キリスト者の歩みを始めたわたしたちが最初に経験するのは「霊的な渇き」です。この「心の空白感」を肉欲、仕事、地位、名誉、財産などで癒そうとしてもできません。それができるのは主イエスだけです。主イエスは「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。…その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました(ヨハネ四:一四)。
 この世で自分がキリスト者であることを告白するなら、仕事に支障をきたしたり、生活していく上で困難なことが起こるかもしれません。わたしたちは時が良くても悪くても主イエスを証しなければなりません。その結果として受ける損失をあらかじめ覚悟しておかなければなりません。主イエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われました(ヨハネ六:五三、五四)。主イエスはわたしたちを、天からの食べ物、マナで養われるのです。
 キリストに従うことにより自分の好きな生き方ができなくなるかもしれません。たとえそうであっても、それに代わる霊的な喜びが与えられます。棄てるものより得るものの方がはるかに大きいのです。
 わたしたちは初めから主イエスに従順に生きることはできません。主イエスに反抗する古い自分に死んで、新しい自分に変わらなければなりません。野生の馬は乗り手を落とそうと暴れますが、調教されることによって従順な馬に生まれ変わります。主イエスに従うことにより、神の国の民にふさわしくされるのです。

  「自分の救いを達成するように努めなさい」とは、「従順さを追い求めなさい」ということです。「従順」とは自分の持っているものを全て棄てて、主イエスに従うことです。主イエスは神であるにも関わらず持っている栄光と権威を棄てて人となられました。神が人と結ばれ、元に戻ることはできません。そのようにしてまで人を救われようとされたのです。この主イエスと一緒に生きるとき、それに伴う苦難はあっても喜びがあります。
 「救いの達成」は、他の人の救いと密接な関連があります。主イエスに従順に生きることによって、多くの人を救いに導くことができるようになるからです。わたしたちの救いは決して個人的な出来事ではありません。