2007年12月16日日曜日

ルカ1章26-38節「あなたと共におられる」

第92号

 神は天使ガマリエルをガリラヤのナザレという町に住むマリアに遣わし、言われました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」のです。何か良いことをしていたのであれば、「ああ、そのことか」とこの言葉を素直に喜ぶことができたでしょう。あるいは、何かの目標に向かって一生懸命だったなら、そのことを認めてくれた、と思えたことでしょう。しかし、マリアには何故このような祝福を受けるのか分かりませんでした。ナザレという田舎町で育ったマリア、彼女には神からこのような言葉を受けるに値するものは何一つなかったのです(ルカ一:四八)。
 ガブリエルはマリアに「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子といわれる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることはない」と言われました。それは「マリアよ、喜びなさい。あなたが身ごもる子は聖書で約束されたメシアなのです」ということでした。
 ガブリエルの言葉は、もしマリアが既にヨセフと結婚していて、ヨセフとの間に出来る子がそうなのだというのであれば、素晴らしいものでした。しかし、これはマリアがヨセフと結婚する前に子が生まれるというものだったのです。今と違って、未婚の女性が身重になることは赦されない時代でした。本人の問題だけでなく、家族の恥であり、家長の責任でした。事実、マリアが身ごもったと聞いたヨセフは「縁をひそかに切ろうと決心した」のです(マタイ一:一九)。これはヨセフがマリアの子を自分の子と認めたうえで離縁しようとしたということでした。ヨセフがマリアのことを公にしたなら彼女は死罪を免れないでしょう。義人ヨセフはマリアがそのような目に遭うのを望まなかったのです。
 マリアはガブリエルに答えました。「どうして、そのようなことがありえましょう。わたしは男の人を知りませんのに」。信仰の原則は「神から与えられるために、自分の持っているものを先ず捨てる」ということです。ガブリエルの言葉が成就するためには、マリアがヨセフとの結婚の夢を捨てなければなりませんでした。それどころか自分の命すら捨てる覚悟が求められました。わたしたちはどうでしょうか。クリスチャンであっても「天使ガブリエルよ、とんでもないことです。わたしにはヨセフといういいなずけがいます。わたしではなく他の人にしてください」と言うのではないでしょうか。多くの人の場合、信仰は自分の利益が守られる範囲内、という前提に立っています。しかし、本当の信仰者の生き方は主イエスのためにどれだけ損をするかによって決まります。神のために何かを捨てるなら、神がそれを補ってくださって余りあるのです。マリアがヨセフとの結婚だけを考えていたら、主イエスにある本当の幸せを見つけることが出来たでしょうか。
 ガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、歳をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神には出来ないことは何一つない」と言われました。ヨセフはマリアと縁を切る決心をしました。しかし、ガブリエルがヨセフに夢で現れ「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言われました(マタイ一:二〇、二一)。
 身ごもったマリアが「わたしを信じて」と言ってもヨセフはその言葉を受け入れられなかったでしょう。マリアに「恵まれた方」と言われたお方は、彼女が毎日幸福に楽しく生きられると約束した訳ではありません。マリアは、神であり、自分の息子でもある主イエスの十字架を見なければなりませんでした(ルカ二:三五)。しかし、主イエスは死から復活されました。そして天に上げられ、彼女の心の中に霊として入って来られました。「主イエスはマリアと共におられる」のです。この約束は地上にいる間だけでなく、死んでからも永遠に続くのです。
 マリアはガブリエルに「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言いました。この言葉により、マリアが素晴らしい女性であるのが分かります。神がナザレのマリアにご自身の子を託されたという訳が分かります。
 主イエスはわたしたちにも「恵まれた人よ」と言われます。主イエスが共にいてくださる」からです。クリスマスにこの世に御子を送られた天の父に感謝します。