第95号
過越祭は、今日の暦で三月下旬から四月の中旬にあたるユダヤ暦のニサン月の一五日から二二日までの一週間でした。種なしパンの祭りとも呼ばれました。一四日の午後、神殿で屠られた羊を各家庭で焼き、その晩食べました。ユダヤでは日没と共に新しい日がはじまったので、日付が一五日に変わりました。
主イエスはこの食事を弟子たちと一緒にとられましたが、共観福音書と違ってヨハネによる福音書ではその祭りの「前のこと」となっています。主イエスは、「食事の席から立ち上がって上着を脱」いで、弟子たちの足を洗いはじめました。洗足についてはヨハネによる福音書だけに記載されています。そして「弟子たちの足を洗ってしまうと上着を着て、再び席に着」かれました。主イエスの洗足は「上着」で括弧として囲っています。「上着」、「衣」は聖書では特別な意味があります。アダムとエバは罪を犯した後、「裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うもの」にしましたが、神はその葉に代え「皮の衣を作って着せられ」ました(創世記二、三章)。ヨセフ物語では、ヤコブはヨセフに「裾の長い晴れ着を作」りましたが、兄たちはこの「晴れ着をはぎ取り」、「雄山羊を殺してその血に着物を浸し」、それを「父のもとへ送り届け」ました(三七章)。福音書には、ガリラヤ湖で漁をしていたシモン・ペトロは、復活された主イエスのところに行こうと「上着をまとって湖に飛び込んだ」とあります(ヨハネ二一:七)。ガラテヤ書には「あなたがたは皆、キリストを着ている」とあり(三:二七)、黙示録には「あなたがたは裸の者であることが分かっていない」、「裸の恥をさらさないように」、「勝利を得る者は…白い衣を着せられる」などと書かれています(三:五、一七、一八)。
食事も聖書では霊的な交わりの意味でしばしば用いられます。このようなことからわたしたちは、主イエスは天で父と完全な充足にあったこと、そこから立ち上がり、神の栄光、権威、力を棄てて人となってこの世に来られたこと、その目的は、わたしたちの足を洗うためであったことが分かります。
しかし、主イエスはペトロに「わたしがしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。主イエスの洗足は、もし「人に仕える」ことを教えるだけなら、一人の弟子の足を洗い、「皆もこのようにしなさい」と言えばそれで十分でした。