2008年1月20日日曜日

コリント二5章16-21節「新しく創造された者」

第93号
  年頭のテレビや新聞では環境問題が多く取り上げられていました。課題は、地球の温暖化を防ぐために、どのようにして二酸化炭素の排出量を抑えたらよいのかということです。中国は二〇〇七年には、アメリカを抜いて世界最大の二酸化炭素排出国となるようです。中国とインドが二〇三〇年までには増加する排出量の五十六%を占めるといわれています。両国は「地球温暖化は先進国が招いている問題であって、われわれが二酸化炭素排出量の規制を受けることも、これによって発展が制約されることもない」という立場です。中国の一人当たりの排出量は先進国の約三分の一です。インドに至っては十一分の一の量に過ぎません。インドでは一日一ドル以下で暮らす貧困層は三億人、電気のない生活をしている人は六億人といわれます。中国の貧困層は一億三千万人だそうです。先進国は、自分たちと同じような生活水準を目指しているこれらの発展途上国の経済成長を抑えることはできません。
 温暖化や大気汚染といった環境破壊のため、わたしたち人間が地球に生存できなくなる日が遠からず来るといわれています。しかも少しずつ来るというのではなく、突然、その限界に達し、後戻りできなくなるといわれています。

 聖書もまた、この世の終わりの日が来ることを告げます。それは環境破壊によるものではなく、主イエスの再臨によってです。神は「その日」を定めておられます。わたしたちにとって「神との和解」がなされているかどうかが問われる日です。「神との和解」がなされている人にとっては救いの日となり、そうでない人にとっては裁きの日となるからです。
 わたしたち人間は生まれつき神に敵対して歩んでいます。その思考、判断、行動、いずれも自己中心で自分を神としているからです。それ故、自分以外の神を信じることは出来ません。自分以外の神に従うことは、自己を否定することに他なりません。真実の神に従うなら、今までの生活や贅沢な暮らしと決別し、最も大切と思っているものですら捧げることが求められるかも知れないからです。
 主イエスに従った十二弟子たちもまた、自分中心の罪から逃れることは出来ませんでした。主イエスと共に「神の国」を支配することを夢見ていたからです。そのため自分たちの思いがかなわぬと知るや、主イエスを見捨ててしまいました。わたしたちもまた同じように、主イエスに自分を捧げるのではなく、主イエスを自分に仕えさせようとします。
 このようなわたしたちが本当の意味で救われたのは、聖霊によって神である主イエスの力を認め、その前にへりくだるということが起こったからに他なりません。神との和解は、自らを神としていたその罪を認め、主イエスに全てを委ねて従う決心をした時にもたらされます。

 今日、江戸時代の生活が見直されています。経済成長率がゼロの時代でした。生活必需品のほとんどは生涯、いや二代、三代に渡って使っていました。また農作物などの生産も自然のサイクルを最大限利用していました。庶民の間にも寺小屋教育は広まり、多くの人が読み書きそろばんが出来るようになりました。平和な時が続き文化も発展しました。
 もちろん問題も多くあったことでしょう。しかし、環境問題に直面するわたしたちの参考になる生き方がそこにはありました。しかし、そうであっても、その時代に戻ることは不可能です。そうするには、わたしたちは今享受してる便利な生活や、自分の持っているものを捨てることが求められるからです。
 「神との和解」は、わたしたちに神の霊と共に新しい命をもたらしました。それはわたしたちがこの世ではなく、永遠の命に生きるようにされるということでもあります。その結果、この世で持っている最も大切なものですら人に分け与えることが出来るようになるのです。マザーテレサはインドの貧しい人のために自分の生涯を捧げました。内村鑑三は戦争に突き進むかつての日本にあって命をかけて非戦論を唱えました。
 自己中心であるわたしたちには、神のため、また人のために自分を犠牲にする力が生まれつき備わっているというのではありません。「神との和解」によって私たちの内に与えられた聖霊によって変えられ、「新しく創造された者」となるのです。
 「新しく創造された者」には、「神との和解」の務めをなす使命が与えられます。人を恐れず福音を語るなら、必ず実を結ぶのです。環境問題などによって、人類の生存の危機が叫ばれているこの時代は、神の国の福音を一人でも多くの人に語ることの出来る良い機会をわたしたちに提供しているのではないでしょうか。