2009年6月21日日曜日

ヘブライ書10章19-39節「真心から神に近づこう」

第110号

  
 最近読んだ本に、わたしたちは主イエスを受け入れた時から清い者とされ、罪と縁を切った生活が始まると書かれていました。さらに、ある牧師は説教で、わたしが嘘をついたり、乱暴な言葉を使ったり、両親を敬わなかったりしたのを見た人には百万円を払いましょう、とまで言ったことを紹介していました。主イエスの救いに預かった者は、それまでの罪から神の支配下に置かれることによって、もはや意識的な罪を犯すことはなくなり、聖霊の恵みによって「聖化」の道を歩み始めるとのことでした。
 それと対照的な記事が、別の小冊子に書かれていました。それは現行讃美歌二五六番についてでした。作詞者である葛葉国子さんは、戦後、胸を病み床に伏せっていました。毎日飲む薬の紙に詩を書いていましたが、その一つをオルガニストの大中寅二さんが作曲したのです。死を前にして自らの罪深さを知らされ、そのような自分と共にいて苦しまれる主イエスに感謝したものです。
 聖書には姦淫の女であったと言われるマグダラのマリアが主イエスに出会って救われたことが書かれてあります。ある教会ではこの罪の女が主イエスによって「聖人」とされ、聖霊の働きにより神に喜ばれるように変えられていく恵みが強調されています。別の教会ではマリアは主イエスに救われることにより自分の犯してきた罪がどのようなものであったかを知らされ、今なお罪深い自分が生かされていることへの感謝が強調されています。
 この信仰の違いは福音と律法の関係をどのように理解するかによって生じます。福音と律法が結びついているのであるなら、わたしたちは神の恵みに応答する「責任」あるいは「義務」を持つことになります。福音は律法すなわち良い行いに結び付き、その実を結ぶことが神に喜ばれることになります。この場合、信仰は極めて倫理的な面が強調されることになります。しかし、福音と律法を切り離すなら、わたしたちの救いはあくまで主イエスの十字架と復活によるものとなります。従って、救われた後も自らの心と行いの「聖化」を求めることは自由意志の働きに他ならず、主イエスのなされた救いに人間的な価値を付加しようとするものでしかなく、その結果は罪に帰することになります。

 信仰者には、主イエスによって罪が赦され、新しい自分とされたことに感謝しながら「聖化」の道を歩む者と、今なお罪人でありながらそのような自分を義人としてくださっている恵みに感謝しながら歩んでいる者がいるようです。わたしたちの信仰は、果たしてどちらなのでしょうか。主イエスはそのどちらに「忠実な良い僕だ、よくやった」と言われるのでしょうか(マタイ二五:二三)。
 主イエスは、神を愛し、人を愛しなさい、この言葉に律法全体が基づいている、と言われ(マタイ二二:三七~四〇)、「あなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました(マタイ五:四八)。これらの言葉は、心と行いが清くなり少しでも神に近い存在となって神の前に立つことを求めているのでしょうか。
 パウロはそのように考えるわたしたちに、だれ一人神の前で義とされないこと、律法によっては、罪の自覚しか生じないこと、それゆえ、律法と関係なく、神の義が示されたことを教えます(ロマ書三:二〇~二一)。そして、あなたがたは霊によって始めたのに、今になって肉によって仕上げようとするのですかと問うのです(ガラテヤ書三:三)。

  主イエスは「新しい生きた道」となられました。モーセの跡を継ぐ者として、律法の基準に従ってわたしたちがどれほど霊的な高みに到達し、良い行いができるようになったのかを裁かれるお方ではありません。わたしたちのために為すべきすべてをしてくださった救いの創造者であって、当事者である神ご自身なのです。それによって、律法は「古い死んだ道」となったのです。
 主イエスはご自身の栄光とこの世を捨てられました。そうすることにより、「来たるべき世界」をご自分の国とされたのです。「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出して下さい」とあります。わたしたちは主イエスの約束に生きるものです。その約束とは主イエスの再臨と新しい世界の住民とされることです。そのために、あなた方は「あざけられ、苦しめられ、見せ物にされたこともあり」、「捕えられた人たちと苦しみを共にし」、「財産を奪われても喜んで耐え忍んだのです」。
 「真心から神に近づこう」とは、この主イエスに目を注ぐということに他なりません。それは自分やこの世のために生きるのではなく、天の父の約束に生きるということなのです。