第119号
最高法院は大祭司を議長とし、祭司長、長老、律法学者たちから成る七〇名の議員によって構成されていました。ローマの植民地であったユダヤの立法府と裁判所としての機能を持っていましたが、彼らの権威はそれだけでなくエルサレム神殿と律法を擁護していることにありました。神殿はユダヤ人の誇りであり、各地に散っている民を一つにするものでした。そこは神が宿る聖なる場所であり、祭儀により民の罪を赦すところでした。律法もまたユダヤ人にとって守らなければならない大切な戒めで、それによって神の国にふさわしい聖なる民とされたのです。その教えは十戒やその細則を守ることだけでなく、汚れたものや罪人に触れてはならないということも含まれていました。特に食事に関する規定は厳しく、食前の手洗いの励行や祭儀的に汚れた動物を口にすることは禁じられていました。彼らの権威は神殿祭儀を執り行い、律法を実際の生活に当てはめて教えることにありました。
それに対する主イエスの権威は御自身にありました。それは神が人となってこの世に来られたからでした。主イエスがなされた数々の「しるし」はそれを証しするものでした。主イエスは人々の罪を赦され、人々が御自身を礼拝するのを受けられました。また、天から遣わされたことを弟子たちに教え、天からの声もまた「これはわたしの愛する子」とそのことを証しました。
指導者たちだけでなく、民にとってもそれは同じでした。主イエスによって救われるより、神殿と律法によって救われる方がより確かなことだったからです。
弟子たちは主イエスを見捨てて逃げました。彼らはこの世の権威の前に無力でした。しかし、ペトロだけは遠く離れて主イエスに従いました。自分の身を安全圏に置いていたのです。ところが突然、身に危険が迫った時、この人を知らないと三度も否んでしまいました。
このようなわたしたちは、弟子たちと同じようにペンテコステの出来事を経験することによって初めて変えられるのです。わたしたちの内に注がれた聖霊によって、初めて目が開かれ、耳が聞こえるようになるのです。主イエス御自身の義と聖がわたしたちのものとされるのを知るようになるのです。わたしたちは救いの根拠を自分の内に見つけることはできません。律法による良い行いではなく、主イエスの言葉を信じることが唯一の救いとなるからです。
主イエスはメシアである。救いはそれを信じる全ての人に及びます。主イエスを裁いた大祭司、長老、律法学者たち、そして主イエスに唾を吐いたり、平手で打った者たちにまでもです。しかし、そのためには心からの悔い改めが必要なのは言うまでもありません。
わたしたちはこのレントの期間、このように全ての人のために苦しまれた主イエスを覚えて過ごしたいと思います。