2010年6月20日日曜日

ヨハネの手紙一4章1-6節「神を知る人」

第122号

 神が人となってこの世に来られた、そのお方が主イエスです。そして、このことを信じることができるのはわたしたちに聖霊が与えられているからです。聖霊を受けることなしには主イエスを神の子と信じることはできません(Ⅱコリント一二:三)。洗礼者ヨハネは主イエスが御自分の方に来られるのを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました(ヨハネ一:二九)。ヨハネは「この方を知らなかった」のです。「しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」と言っています(ヨハネ一:三三,三四)。わたしたちは自分の思いや意志で主イエスを神の子と信じることはできません。ですから「キリストに結ばれる人はだれでも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」ので、「これらはすべて、神から出」たことなのです(Ⅱコリント五:一七)。
 主イエスを神の子と信じることができるなら、わたしたちは「神に属する者」です。わたしたちは主イエスによって創造された新しい世界を述べ伝えることができます。「神を知る人」たちは、わたしたちの言葉に耳を傾けます。「神に属していない者」は、わたしたちに耳を傾けません。彼らは古い世界に住んでいる人たちであって、わたしたちの言葉を理解することができないからです。偽善者たちは古い世界に属し、この世のことを話します。そのため彼らは偽善者の声に耳を傾けるのです。

 「古い世界」では神と人は対応する存在です。哲学者デカルトは「われ思う、ゆえに我あり」と言いましたが、この言葉は神とわたしたちとの関係をよく表しています。わたしたちは自分自身を神から独立したものと考え、創造者に自らの存在の意味を問いかけます。自分の人生は自分のものであって、神の前にどのように生きるのかは自分の責任だからです。わたしたちは自分が神の前にどのようなものであるかが問われます。主イエスこそ倣うべきお方です。誰も清くなければ神を見ることはできません。また、どれだけ神を愛し、人を愛したかが問われます。神はわたしたちが正しく生きるなら喜ばれ、そうでないなら悲しまれます。このお方により、裁きの時、この世でしてきたことに応じて裁かれます。救われるためには、神の求める基準に到達していなければなりません。そのため霊的向上が日々求められます。しかし、こうして自分を見つめた結果、わたしのような者は到底、救いにはあずかれない、ふさわしくないと自ら判断し、神から離れることすらあるのです。
 「新しい世界」では神と人とが対応する存在ではありません。神は創造者であり、わたしたちは被造物です。わたしたちの存在はあくまで神あってのもので、聖霊を受けることなくしてその意味を持ち得ないのです。神は「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる」のです(ロマ四:一七)。わたしたちは「神の中に生き、動き存在」しています(使徒一七:二八)。神はわたしたちの「髪の毛まで一本残らず数えられている」のです(マタイ一〇:三〇)。

「神はモーセに、『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思うものを慈しむ』と言っておられます。従ってこれは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。…このように、神は御自身が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」(ロマ九:一五~一六)。主イエスはわたしたちがたとえどのような罪人であっても救うことのできるお方です。主イエスはわたしたち罪人を救うために、天から下って来てくださったからです。

 主イエスは十字架に渡される前夜、弟子たちと食事を共にされました。食事の席で主イエスは立ち上がり上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいを取り、桶に水を入れて弟子たちの足を洗い始められました。主イエスの行為は、神はこれほどまでにわたしたちを愛してくださっていることを教えるものです。同時に、このことは神がわたしたちの罪を清めてくださることを教えます。主イエスがわたしたちの足を洗わなければわたしたちと何の関係もなくなってしまいます(ヨハネ一三:八)。ユダは主イエスを銀三〇枚で敵に売り、ペトロも又、裁判の時、わたしはこの人を知らないと言いました。主イエスはこのような弟子たちの足を洗われたのです。
 この神を知ることによってわたしたちは救われます。大切なのは自分ではなく主イエスを見つめることです。そして、全てを捨ててそのお方の懐に飛び込むことです。そうすることによってわたしたちは「神を知る人」となるのです。