2010年9月19日日曜日

創世記21章1-8節「彼女は身ごもり」

第125号

 アブラハムは今からおおよそ四千年前の人で、出身はカルデヤのウルです。ハランに移り住みましたが、そこで神の言葉が臨みました。神はアブラハムに「子孫」と「土地」を与えること、そして諸国民の「祝福の源」になることを告げられました。アブラハムはその言葉を聞くと妻のサラ、甥のロトと共に行き先が分からないままに旅立ちました。
 アブラハムはカナンの地に着くと、そこが約束の地であると告げられました。主なる神はアブラハムに夜、テントの外に誘い、あなたの子孫は星のように多くなると言われました。アブラハムはその言葉を信じ、神はそれを義とされました。
 その地に飢饉が襲った時、アブラハムはエジプトに行きました。しかし、美しい妻の故に殺されるのを恐れ、妹だと言いました。そのためファラオはサラを自分の妻として宮廷に召し入れ、アブラハムにはたくさんの羊や牛の群れ、ロバ、ラクダ、男女の奴隷を与えました。
 アブラハムがしたことはサラへの裏切りであったばかりではなく、神の言葉に対する不信仰でした。自分の命を守ることを何よりも優先させたからです。しかしながらこの危機は神によって解決されました。ファラオと宮廷の人々が恐ろしい病気になり、神はファラオに現れ、サラをアブラハムの元に戻すように命じました。
 このような経験をしたにもかかわらず、アブラハムはゲラルに滞在中、同じ過ちを犯しました。その地の王、アビメレクはアブラハムがサラを妹と言うので自分の妻として宮廷に召し入れました。神はアビメレクがサラに近づくことのないようにされ、また、宮廷の全ての女は子を生むことができないようにされました。そして彼女をアブラハムの元に戻すように命じたのです。
 サラもまたアブラハムに「子孫」を与えると言われた主の約束を自分なりに解釈しました。既に七五歳を過ぎたサラは、エジプト人の女奴隷ハガルをアブラハムに与え、彼女によって子を得ようとしたのです。ハガルはアブラハムの子を身ごもると女主人を軽んじるようになりました。家庭内の秩序は乱れ、生まれて来た子、イシマエルもサラの喜びとはなりませんでした。アブラハムはイシマエルが約束の子と信じました(創世記一七:一八)。
 イシマエルが一三歳になったとき、主が再び現れ、来年の今頃サラに子が生まれると告げました。アブラハムは「百歳と九〇歳の妻に子が生まれるだろうか」と「ひそかに笑」い、サラも自分は年を取り、主人も年老いているのでそのような楽しみはないと「ひそかに笑」いました。しかし、神は彼らに男の子を与え、その子はイサク(笑い)と付けられました。
 神の言葉は必ず成就するというのがこの物語の主題です。人間の判断や、努力は必要ないのです。主が働かれるのを待つ、それがわたしたちの信仰なのです。

 アブラハムの信仰は神の声を聞いたことによって始まりました。しかしその歩みは、高みに登ったり、降りたりの起伏の激しいものでした。そのような自分中心の信仰が神中心に変えられたのは約束の子、イサクが与えられたことによってでした。わたしたちの信仰も初めは自分中心ですが、神によって変えられます。創世記ではアブラハム物語に多くの頁を割いていますが、神の言葉に全てを委ねることの大切さを教えるためなのでしょう。

 アブラハムへの約束はイサクの誕生で完結しませんでした。本当の「子孫」はそれから二千年経って、主イエスが生まれることによって成就したからです。このお方こそアブラハム、イサク、ダビデに約束された「子孫」です。
 「彼女は身ごもり、男の子を生んだ」それはマリアにも言われた言葉でした。マリアは結婚する前の十代の乙女で、子を生むことはないはずです。それにも拘らず神はその言葉を成就されたのです。二人には前もって「神に出来ないことは何一つない」と言われていました。アブラハムとサラはイサクを、ヨセフとマリアは主イエスを与えられて初めて不可能を可能とされる神の力を知ったのです。

 イサクや主イエスだけでなく主イエスを信じるわたしたちもまた「約束の子」なのです。わたしたちは天地創造の前に神によって知られ、選ばれていました。イエス・キリストによって「神の子」にしようと前もって定められていたのです(エフェソ一:四、五)。だからこそ、わたしたちもまた彼らと一緒に「約束の子」の誕生を喜ぶことができるのです。それは神が働かれたことを知ることであって、その事実がわたしたちの心の奥深い喜びとなるのです。
 サラとマリアに起こった事はわたしたちの知恵や力を越えたことであって、神の絶対的主権、絶対的恵みを教えるものです。