2011年1月16日日曜日

黙示録21章9-21節「都は神の栄光に輝いていた」

第129号

 ヨハネは二度に亘って「聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見た」と言っています。一度目は地上の平地で見ていたと思われますが、二度目は高い山から見たのです。この光景は主がモーセをピスガの頂に導き、カナンの地を全て見渡されるようにされた出来事と重なります。そこで主はモーセにこのように言われています。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」(申命記三四:四)。
 今日でも、オリブ山から見るエルサレムの全景は美しいものです。町のほぼ中央に岩のドームがあります。ドームは金伯で覆われ、周りの家々はこの地で産出される少し赤みをおびた石で造られています。夕日を浴びると町全体が黄金色に輝くのです。
 ヨハネが見た聖なる都エルサレムの大きさは正方形で、人間の物差しで一辺が一万二千スタディオンでした。十二はユダヤでは完全数で、その千倍です。一スタディオンは一八五メートルなので二千二百キロメートルになります。エルサレムからバビロンまで約八百キロ、ローマまでは千五百キロです。日本ですと北は北海道から南は沖縄まで、そして西は中国の北京までとなります。平面だけでなく高さも同じだけあるのです。新しい都エルサレムはわたしたちが考えるよりずつと大きいのです。そしてこの都の大通りは、透き通ったガラスのような純金でした。
 この聖なる都エルサレムが天から下って来るのを見た時、ヨハネは玉座から語りかける大きな声を聞きました。「見よ、神の幕屋が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録二一:三、四)。
 幕屋はモーセがシナイ山で示されたものの型です。幕屋の内側は金で覆われ、ローソクがその明かりでした。至聖所の大きさは一辺が一〇アンマの正方形でした。一アンマは〇.四五メートルですから、四.五メートルとなります。至聖所には契約の箱があり、その上にはケルビムが置かれていました。ケルビムは神の臨在の象徴でした。
 この至聖所の一辺の長さを約五〇万倍したのが聖なる都エルサレムで、主イエスがこの都を照らす明かりです。

 天使はヨハネに「ここに来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう」と言って聖なる都エルサレムが天から下って来るのを見せました。小羊とは主イエスのことで、花嫁は聖なる都エルサレムのことです。加藤常昭先生は著書「ヨハネの黙示録」でこの都は「明らかに将来のキリスト教会の姿です」と言っています(日本キリスト教団出版局、一一三頁)。礼拝という観点から見るならこの都は確かに「教会」だと思うのです。この教会は神の栄光に輝いていました。この世にある時、教会はこのように輝いていませんでした。それは生前の主イエスと同じです。主イエスが神の栄光で輝いていたのなら人々は十字架につけるようなことはしなかったでしょう。主イエスが神の子であることは隠されていたのです。同じように教会もその栄光はこの世では人々の前に隠されています。しかし、聖なる都エルサレムとして現れる時、その隠されていた栄光はこのように輝き出るのではないでしょうか。同じことはわたしたちにも言えます。わたしたちも死んで滅んだ後、聖なる都エルサレムの住民にふさわしい栄光の姿となって復活するのです。
 この聖なる都エルサレムを囲む城壁の高さは一四四ぺキスで、完全数十二の十二倍です。ぺキスはアンマと同じ〇、四五メートルですから、六五メートルです。非常に高い城壁ですが、この都の大きさと比べると線にすぎなくなります。

  ヨハネが見た聖なる都は神の栄光に輝いていました。その輝きは主イエスの輝きです。主イエスは十字架につけられる前、このように祈られました。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせて下さい。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」。
 主イエスの国はこの世には属していません。「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったであろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」と言われています(ヨハネ一八:三六)。
 わたしたちを罪から清めこの聖なる都エルサレムの住民にすることこそ、天の父が御子イエスをこの世に遣わされたことです。わたしたちは主イエスと共にこの新しい天と新しい地に永遠に住むことになるのです。