第132号
ファラオとヤコブとの会見は短い時間ながら印象的な場面となっています。ファラオはエジプトの王でしたが、ヤコブは一介の族長にすぎませんでした。普通であればこのような会見は実現しなかったことでしょう。全てはヨセフの力によるものでした。ファラオはヨセフに惜しみない好意を示しています。「エジプトの国のことはお前に任せてある」と言い、「最も良い土地に父上と兄弟たちを住まわせるがよい。ゴシエンの地に住まわせるのもよかろう。もし一族の中に有能な者がいるなら、私の家畜の監督をさせるがよい」とまで言っています。ファラオはヨセフの父にも親しみを見せます。祖父アブラハムの生涯は一七五歳、父イサクは一八〇歳でした。神はアブラハムに三つの約束をしました。子孫と土地を与えること、全ての人の祝福の源になるということでした。族長たちはその約束に生きたのです。
ヤコブも同じでした。彼は若い時、兄エサウから長子の権と父の祝福を奪い、父の財産を自分のものとしました。しかし、それによって兄の怒りを買い、ハランの地に逃れなければなりませんでした。父の家を出た時、持っていたのは杖一本だけでした。ハランでは伯父ラバンのもとに身を寄せ、そこで結婚し、二〇年の歳月を送りました。その間、ヤコブは狡猾な方法を用いてラバンの家畜の多くを自分のものとしました。ラバンはヤコブを欺きましたがそれ以上にヤコブもまた伯父を欺いたのです。しかし、郷里のカナンに戻る時、兄に財産や家族だけでなく、自分の命すら差し出しました。エサウはそれらを受け取りませんでした。長い別離の年月が兄を変え、弟に対する怒りは収まっていたのです。
ヤコブは四人の妻を持ちましたが、ラケルだけを愛しました。しかしその妻をベニヤミンが生まれる時に失いました。また息子たちの内、ラケルが生んだヨセフだけを偏愛しましたが、その息子を失いました。兄たちが、父が弟ヨセフだけを溺愛するのを妬んだためでした。
ヤコブは富と愛に執着して生きて来ました。しかし、結局その全てを失ったのです。神の約束がこの世で成就すると信じていたが故に、ヤコブ自身が告白するように「わたしの生涯の年月」は短かったのです。ヤコブほど苦しみ、悲しんだ人は多くないのではないでしょうか。
ヨセフがいなくなってから二〇年の歳月が流れ、ヤコブは息子たちからヨセフが生きていることを告げられました。それを信じた時、彼の魂は生き返りました。心の目が開かれたのです。ヨセフを生かし、エジプトに遣わし、宰相としたのは神御自身だったのです。飢饉に苦しんでいたヤコブの一族をエジプトに導き、そこで大いなる民とし、カナンの地に再び戻される、それが神の御計画でした(創世記四七章三、四節)。神はそのためにヤコブの欠点や息子たちの罪をも用いられたのです。それらの一つ一つが細い一本の綱で結ばれて事が運ばれていきました。ペヌエルやヤボクの渡しでヤコブに顕現された神は真実なお方でした。族長たちは神からの約束を受け、信じて待ち続けるのですが、すぐに実現しないことが分かるにつれ悲しみ苦しむようになるのです。しかし、成就されるのは神ご自身です。そして、この世ではなく永遠の命に生きることが大切であることを知るようになるのです。