2011年6月19日日曜日

使徒2章1-13節「一同は聖霊に満たされて」

第134号

 
 主イエスは過越祭の時に十字架につけられ、三日目に死から甦られました。復活した主イエスは四〇日に亘って弟子たちに御自身を示され、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と言われ、彼らの見ている前で天に上げられました(使徒一章四、五節)。
 五旬祭の日が来て、弟子たちはエルサレムにある家の二階に集まり鍵を閉めていました。彼らはユダヤ人を恐れていたのです。すると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が現れ、一人ひとりの上に留まりました。一行は聖霊に満たされ、「霊」が語らせるままに、様々な国の言葉で話しだしました。五旬祭には世界各国からユダヤ人たちがエルサレムに来ていました。彼らはこの出来事に驚いて集まって来ました。そして弟子たちが自分たちの故郷の言葉で神の御業を語っているのを不思議に思ったのです。しかしある者たちは「新しい酒に酔っているのだ」と言いました。
 過越祭はイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトの地を出たのを記念して行うようになりました。エジプトで奴隷だったユダヤ人にとって過越祭は民族の誕生を祝う日でした。荒野に出て行ったイスラエルの民は五〇日後にシナイ山で神から律法を与えられました。それを記念するのが五旬祭で、律法によって生きる信仰の民、イスラエルの誕生を祝う日です。
 キリスト教徒にとって、過越祭は主イエスの甦りを祝う復活祭(イースター)になり、五旬祭は教会の誕生を祝う聖霊降誕日(ペンテコステ)となりました。

 主イエスとニコデモの対話に見られるように誰でも霊によって新しく生まれなければ神の国に入ることは出来ません(ヨハネ三章参照)。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって」と書いてあるとおりです(Ⅰコリント五章一七節)。
 聖霊だけがわたしたちに命を与えます。神は土でアダムを形づくり、「命の息を吹き入れられ」ました(創世記二章七節)。同じように主イエスもまた弟子たちに御自身の息を吹きかけられ「聖霊を受けなさい」と言われました(ヨハネ二〇章二二節)。それによって初めてわたしたちは命を得ることが出来るのです。主イエスと同じように復活し、御国に入ることが許されるのです。
 教会の誕生は主イエスの誕生と比べられます。主イエスの母マリアはまだ結婚する前に天使ガブリエルから、聖霊によって男の子が生まれる、と告げられました(ルカ一章三五節参照)。弟子たちも主イエスに、あなたがたは間もなく聖霊を受ける、と言われました(使徒一章五節参照)。いずれも神の約束の成就であって、わたしたちの努力や信仰の結果ではなく、神御自身が働かれたのです。

 聖霊を与えられる前の弟子たちのように、わたしたちもまた、心の扉に鍵をかけ、自分の殻に閉じこもっているのではないでしょうか。わたしたちは自我という生まれつき頑固で固い石の心を持っています。自分で自分の石の心を砕くことが出来ません。
 そのような中にあって弟子たちは、主イエスの約束されたものが与えられるようにと、皆「心を合わせて熱心に祈って」いました(使徒一章一四節)。そして、聖霊を与えられることによって初めて彼らは変えられたのです。同じことがわたしたちにも言えます。教会が本来の教会となるためには先ず、聖霊に満たされるよう祈ることから始めなければならないのではないでしょうか。
 聖霊によらなければだれも「イエスは主である」とは言えません(Ⅰコリント一二章三節)。聖霊が与えられて、初めて主イエスがどのようなお方であるかを知るようになります。そして、御言葉がそのまま素直に心に入って来るようになります。神の国の民の一員にされるからです。それまで外国語で書かれているようであった聖書が自分の国の言葉として書かれているのを知るようになるのです。同じように、御言葉を聞く人たちも自分の国の言葉として理解するようになります。そこにはもはや人種や民族の違いはありません。
 「一同は聖霊に満たされて」、初めて教会に人が集まって来ました。同じことがわたしたちにも言えるのではないでしょうか。教会の使命は御言葉を述べ伝えることにあります。それは「あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい」という、今年の教会標語でもあります。