2011年7月17日日曜日

使徒2章37-42節「悔い改めなさい」

第135号

 
 ペンテコステの日に聖霊が使徒たちに降りました。聖霊によって聖書の真理が明らかにされ、聖書は全て主イエスを証ししていることが知らされました。そして何よりも主イエスが彼らの内に留まられ、彼らを通して働かれるようになったのです。それまでユダヤ人を恐れて部屋に閉じこもっていた使徒らは大胆に福音を述べ伝え始めました。
 ペトロは物音に驚いて集まって来た人たちを前に、他の十一人の使徒たちと共に立って話し始めました。ペトロの説教はヨエル書からの引用で始まります。そこには「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」とあります。聖霊が使徒たちに与えられることは、主イエスが生前に約束されていたことでした。それが成就したことにより、「終わりの時」が始まったのです。この終わりの時は、主イエスの再臨の日までで、その日は「主の日、大いなる恐るべき日」です。しかし、救い主である主イエスを知っているペトロやわたしたちにとっては、「主の偉大な輝かしい日」です。その日はこの世の裁きの日であり、救いの日です。「太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる」のですが、「主の名を呼ぶ者は皆、救われる」のです。
 旧約聖書では神の名は「ヤハウェ」でした。しかしユダヤ人は余りにも恐れ多いその名を口にすることはありませんでした。その代わりに「主」(アドナイ)と呼びました。しかし、ペテロにとって、この神の名は「主イエス」となりました。「主イエス」こそ「ヤハウェ」であることを知ったからです。主イエスの名を呼ぶ者は皆、救われるのです。
 ペトロは続いてダビデの言葉を引用しました。ダビデは預言者なので自分の子孫が王座に就くのを知っていました。ペトロはダビデの言葉を「わたし(主イエス)は、いつも目の前に主(天の父)を見ていた。…あなた(天の父)は、わたし(主イエス)の魂を陰府に捨てておかない」と理解しました。ダビデは死に、墓が彼らのところにありましたが、主イエスは死んで復活され、その墓は空でした。メシアは死ぬことはないのです。

 ペトロはヨエルとダビデの言葉を引用した後、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と言いました。この言葉に集まって来ていた人々は心を打たれました。
 人々は主イエスを罪ありとして裁きました。それは主イエスが安息日を守らず、自分を神の子としていたからです。彼らは主イエスを十字架につけましたが、神の子が木にかけられて死ぬことなどありえませんでした(申命記二一章二三節)。しかし、主イエスは復活されたのです。それは神がこのお方を無実とされたことに他なりません。罪のない者を死に閉じ込めておくことは出来ないからです。主イエスの復活は人々の罪を白日の下にさらしました。わたしたちの罪は主イエスを神の子と認められないことにあります。生前の主を神と認められないことは使徒たちも、主イエスに従った女たちも皆、同じでした。彼らは主イエスを神から遣わされた人として理解していたのです。罪とは、わたしたちの犯す一つ一つの行為を指すのではなく、主イエスを神と認められないことにあるのです。聖霊だけがこのようなわたしたちの罪を明らかにされるのです。
 固い心を砕かれた人々は使徒たちに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と言い、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めました。そのペトロの言葉に従って三千人が洗礼を受けました。

 旧約聖書の時代、油を注がれ、神から聖霊を受けることが出来たのは、王、預言者、祭司だけでした。しかし、今や「悔い改めて」主イエスのところに来る者は、誰でも聖霊を受けることが出来るようになりました。老若男女、地位、名誉、財産のあるなしは関係ありません。また、ユダヤ人と異邦人の区別もなくなりました。
 「主の名を呼び求める者は皆、救われるのです」。今こそ恵みの時、救いの時です。しかし、聖霊を受けない限り主を救い主と告白出来ません。生まれたままのわたしたちは主イエスを神の子と認めることは出来ないからです。
 わたしたちは自分の判断、善悪の基準に従って生きています。このような生き方からの決別が求められています。同様に、物質的な豊かさ快適な生活、便利さの中にわたしたちの求める幸せはありません。本当の幸せは神によって与えられる霊的な幸せなのです。神中心の生活に代わらなければなりません。主イエスを神の子と信じ、全てを捨ててその前に膝まづくことです。そのように決心するすべての人に聖霊が授けられるのです。