第135号
ペトロは物音に驚いて集まって来た人たちを前に、他の十一人の使徒たちと共に立って話し始めました。ペトロの説教はヨエル書からの引用で始まります。そこには「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」とあります。聖霊が使徒たちに与えられることは、主イエスが生前に約束されていたことでした。それが成就したことにより、「終わりの時」が始まったのです。この終わりの時は、主イエスの再臨の日までで、その日は「主の日、大いなる恐るべき日」です。しかし、救い主である主イエスを知っているペトロやわたしたちにとっては、「主の偉大な輝かしい日」です。その日はこの世の裁きの日であり、救いの日です。「太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる」のですが、「主の名を呼ぶ者は皆、救われる」のです。
旧約聖書では神の名は「ヤハウェ」でした。しかしユダヤ人は余りにも恐れ多いその名を口にすることはありませんでした。その代わりに「主」(アドナイ)と呼びました。しかし、ペテロにとって、この神の名は「主イエス」となりました。「主イエス」こそ「ヤハウェ」であることを知ったからです。主イエスの名を呼ぶ者は皆、救われるのです。
ペトロは続いてダビデの言葉を引用しました。ダビデは預言者なので自分の子孫が王座に就くのを知っていました。ペトロはダビデの言葉を「わたし(主イエス)は、いつも目の前に主(天の父)を見ていた。…あなた(天の父)は、わたし(主イエス)の魂を陰府に捨てておかない」と理解しました。ダビデは死に、墓が彼らのところにありましたが、主イエスは死んで復活され、その墓は空でした。メシアは死ぬことはないのです。
固い心を砕かれた人々は使徒たちに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と言い、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めました。そのペトロの言葉に従って三千人が洗礼を受けました。
わたしたちは自分の判断、善悪の基準に従って生きています。このような生き方からの決別が求められています。同様に、物質的な豊かさ、快適な生活、便利さの中にわたしたちの求める幸せはありません。本当の幸せは神によって与えられる霊的な幸せなのです。神中心の生活に代わらなければなりません。主イエスを神の子と信じ、全てを捨ててその前に膝まづくことです。そのように決心するすべての人に聖霊が授けられるのです。