2011年10月16日日曜日

マタイ10章34-39節「わたしのために」

第138号
主イエスは「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」と言われました。しかし、主イエスはこの地上に平和をもたらすために来られたのではないのでしょうか。イザヤもまた主イエスについて預言し、このように言っています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」(イザヤ九章五節)。主イエス御自身も山上の説教で「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言っておられます(マタイ五章九節)。主イエスを信じるわたしたちまた、地上に平和をもたらす使命が委ねられているのではないでしょうか。
 主イエスはなぜこのように言われたのでしょうか。主イエスは御自身に従う者たちの中から、特に十二人の弟子を選ばれたとあります。彼らは主イエスに「呼び寄せ」られたのです。それは彼らを世に遣わされるためでした。主イエスは彼らに「汚れた霊に対する権能をお授け」になりましたが、それは「あらゆる病気や患いをいやすため」でした。主イエスは十二弟子たちが迫害されるのを御存知でした。「わたしのために、あなたがたはすべての人に憎まれる」と言われ、「人々を恐れてはならない…体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな、むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われました。この世の本当の主権者は人ではなく、天の父であり、主イエスご自身であることを教えられたのです。

  アフリカでは多くの人たちはイスラムを信じています。そのような中にあってわたしが今回訪ねたガーナ、ガンビア、セネガルの教会ではチャーチ・プランティングと呼ばれる宣教を行っていました。宣教者を二人一組にして村に派遣するのです。彼らはまず長老を訪ね、伝道する許可を得ます。長老は通常、外部の人が来て自分たちの村を活性化するのは良いことと考えます。宣教者たちは一軒、一軒、家を回りマン・オブ・ピース(man of peace)と呼ばれる人を探し出します。神は村に前もって福音に対して心を開く人を用意されているいます。その人を見つけたならその家で家庭集会を持ちます。するとその家に近所の人たちが集まって来るようになり教会が生まれます。
 このような宣教活動は順調に進むとは限りません。しばしばイスラム教徒の反対に会い、その教師たちの抵抗に会います。家で初めてキリストを受け入れた者は、自分の父、母、あるいは自分に最も親しかった者が敵となるのです。
 このようなことが起こるのはアフリカやイスラムの社会だけに限りません。日本や他の西欧諸国でも、またいつの時代にも言えることです。ジョージ・ミューラーは孤児院の父と言われますが、彼が神学生の時、宣教師になることを決心すると父は反対し、学費の仕送りを止めてしましました。父は息子が立派な聖職者になって高給を取り、立派な家に住んでもらいたかったのです。ゆくゆくは息子の家で老後を安楽に暮したいと思っていました。主イエスもまた三十歳になると、伝道の為に家を出ました。主イエスは父ヨセフが亡くなった後、母マリアと一緒に幼い弟や妹のために働いて来ました。母も弟たちもそれが当然と思い、それがいつまでも続くと思っていたのです。彼らは主イエスを家に連れ戻そうとカファルナウムまで追いかけて来ました(マタイ一二章四六~五〇節)。

 主イエスは「わたしよりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」と言われました。イスラエルでは神について教えるのは父母の役目でした。神の言葉を学んだ子は父母を敬ったのです。このような父母を愛するのは当然のことでした。また、子を愛さない親がいるでしょうか。わが子のためであれば自分の命すらいとわないと思うのが普通です。にも拘らず、このような混じりけのない愛すら絶対的に正しいと主張できないのがわたしたち人間でもあるのです。神の被造物であるわたしたちは創造者である神の主権を信じる以外に義はないのです。
 神の愛を信じることは自分や人の愛を信じることとは違います。「自分のいのちを得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と主イエスは言われました。アウグスティヌスの『告白』にも、「わたしは、死ぬことのないように、あなたのみ顔を仰ぎ見るために死のう」と言うのがあります。
 主イエスの言葉は御自身が選ばれた者たちに与えられたもので、十字架によって生涯を終えられた主イエスの生き方に倣うように促すものです。