2012年12月16日日曜日

ヨハネ3章16節「あなたの愛する独り子」

第152号

《クリスマス礼拝》

 

創世記22章1-8節

 アブラハムにイサクが与えられたのは百歳の時で、それ以来独り子の成長を見続けて来ました。どれ程イサクを愛していたことでしょう。神はそのようなアブラハムを「試され」ました。神は命じられ…『あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしの命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としなさい』」と言われました。
 「試された」と書かれていることにより神はイサクの命を取るのではないことをわたしたちには知らされています。しかしアブラハムには隠されていたが故に、このことはあくまでアブラハムの信仰の忠誠を確かめるための教育的試練だったのです。にも拘らず、父が子の命を取るようにと求めるこの神の試みは余りにも理不尽であり、承服できないものがあります。アブラハムは妻サラに自分のしようとすることを告げることは出来なかったことでしょうし、また、普通は誰一人、アブラハムのように実行する人はいないのではないでしょうか。

  「神が、『アブラハムよ』と呼びかけ」ると、彼は「はい」と答えました。その声は確かに神の声なのかと疑問に思う余地はありません。それは父と子の関係であって、子は父の声をよく知っているのです。「モリア」の地がイサクを捧げる「神の命じられた場所」でした。わたしたちは勝手に祭壇を築き、礼拝することは出来ません。アブラハムは「次の朝早く」出立しました。神への応答を自分の意志で引き延ばすことは出来ません。三日の旅路の間、アブラハムは耐えがたい心の痛みと闘わなければなりませんでした。示された場所に近づくと、供の若者たちを待たせ二人だけになりました。イサクは薪を背負い、アブラハムは危険な刃物と火を持ち歩き始めました。長い沈黙の後、イサクは「お父さん…焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と尋ねました。祭儀について知っていたのです。父は「…きっと神が備えてくださる」と答えました。
 アブラハムはかつてカルデヤのウルを出るとき過去と決別しなければなりませんでした。神の言葉に従い故郷を離れ、肉親や友人と別れるのは辛いことでした。そして今、将来とも決別しなければなりませんでした。年老いた自分が死に、イサクが生きるならこれ程苦しまなかったでしょう。しかし、彼は神に黙々と従い、イサクもそのような父に自分の身を委ねたのです。
 「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き…息子を屠ろうとし」ました。「そのとき、主の御使いが『アブラハム、アブラハム」と呼びかけ』…あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と言われたのです。そして、そこには一匹の雄羊が木の茂みに角を取られていました。アブラハムはその羊をイサクに代えて焼き尽くす献げ物としました。アブラハムはその場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付け、人々もイエラエ(主の山に備えあり)と呼ぶようになりました。

アブラハムはハランの地を出る時に神から土地、子孫、祝福に関する約束を受けましたが、ここで再びそれが確かなものとされてベエル・シェバに戻りました。

 
 万物は神によって創られ、支配されています。わたしたちの心も同じです。エジプトの王ファラオはモーセに聞き従おうとはしませんでしたが、その心を頑なにしたのは神でした(出エジプト記四章二一節参照)。人々が主イエスを十字架に付けたのも神の御計画でした(使徒言行録四章二八節))。わたしたち人間は「神の中に生き、動き、存在する」(同一七章二八節)のであって、神に対応する自由な存在ではありません。神がこの世界を一元的に支配しておられるのです。従って、ここでアブラハムは神の「試み」に合格した見習うべき偉大な人物として称賛されているのでも、神が彼の祈りに応えられたという訳でもありません。アブラハムが主人公ではなく、神の主権が問題とされていて、神がすべてを準備され、約束を果たされるということなのです。
 神はアブラハムに焼き尽くす献げ物としてイサクに代わって雄羊を用意されましたが、同じようにわたしたちのために主イエスが備えられたのです。洗礼者ヨハネは、主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました(ヨハネ一章二九節)。御自身の愛する独り子を十字架に付けた天の父のお苦しみは、イサクを献げたアブラハムの心の痛みに重なるのです。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。わたしたちの身代わりの小羊の誕生こそクリスマスの出来事であって、主イエスによって神の国が到来し、永遠の命の確かなことを教えるのです。

 

2012年10月21日日曜日

出エジプト記3章7-10節「今、行きなさい」

第150号

 
 この章の一節から六節には、羊飼いモーセと神との出会いが書かれています。モーセはミディアンの地で姑エトロの羊を飼っていましたが、ホレブの山に来た時、柴が燃えているのに燃え尽きないのを見て不思議に思い「道をそれて」その柴のところにやって来ました。すると「主の御使い」が柴の中で燃える炎の中に現れ、「モーセよ、モーセよ」と語りかけました。
 羊飼いは普通、五〇頭から百頭を連れて移動します。この羊の群れを外敵から守り、緑の野辺に導かなければなりません。「道をそれて」とはしばらくこの羊から離れ、燃える炎に関心を移すということでした。しかし、それはモーセにとって、神が備えられた別の「道」を歩むその時が来たということでもありました。
 主はモーセに「履物を脱ぎなさい。ここは聖なる場所である」と言われました。古代のイスラエルでは履物はその人の主権を象徴するものでした(ルツ記四章八節参照)。神がモーセに求めたのは自分を神に差し出しなさいというもので、その神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でした。
 今日の聖書箇所、七節から一〇節では神の側に立って、何故、モーセに御自身を顕現されたのか、その理由が述べられています。それは、モーセをエジプトに遣わし、ご自分の民を約束の地に導き出すためでした。この使命を達成するためにこれまでのモーセの生涯があったのです。最初の四〇年はエジプトの王になるための宮廷での学び、次の四〇年は荒野で羊飼いとして愛と忍耐を学ぶ期間でした。そして主はモーセに「今、行きなさい」と言われました。ここからモーセの新しい、そして最後の四〇年が始まるのです。

 七節には、神は「見」、「聞き」、「知った」とあります。世界中の神の多くは人とは別の世界に住み、人にこのような関心を示すことはありません。しかし、イスラエルの神は違います。神は「エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ声を聞き、その痛みを知った」のです。九節でも「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た」とあります。そして八節、「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し」、約束の地に「導き上る」と言われ、一〇節で「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と命令されました。

  神はイスラエルの民を「わたしの民」と呼び、エジプトの民らと区別しています。それは、神の選びによるもので、アブラハムの子イシマエルの民は「わが民」ではありません。「わたしの民」の受ける苦しみ、痛みは、神御自身の苦しみ、痛みでもあります。それは親子の関係と同じです。子の受ける苦しみ、痛みは親の苦しみ、痛みとなるからです。モーセはご自分の民と一緒に苦しんでいる神を知りました。
 中世の修道士アッシジのフランシスコはある時、涙を流し、その理由を友人に「主イエスのお苦しみを思うと泣けて、泣けて仕方がないのです」と言ったと伝えられます。インドの聖女マザーテレサ十字架の主イエスを見たと言います。そこで主イエスから「わたしは渇く」との言葉を聞き、愛に渇く貧しい人たちのために生涯を捧げる決心をしました。主イエスはわたしたちの苦しみ、痛みを御自身のものとされ、わたしたちを救われました。
 人は自分で自分を救うことは出来ませんし、他人を救うことも出来ません。「わたしの民」を救われるのは神御自身なのです。神はモーセにしたように、わたしたちにも日常の「道をそれて」神の備えたもう「道」に入って行くように求められます。神に「声をかけられ」、聖なる「場所」に導かれ、「履物を脱ぎ」、自分を神に差し出すのです。そのようにしてわたしたちは救われるのです。わたしたちの痛みを御存じの神はわたしたちを捨てられることはありません。

 モーセは「わが民」のために苦しみ、心を痛める神を知りました。そしてその神から「今、行きなさい」と命じられました。四〇年前、ファラオの宮廷を出てイスラエルの民のために立ち上がろうとした時、彼は若く力と自信に満ちていました。今は八〇歳、かつての面影はありません。しかし、人は弱くされて初めて神の器になるのです。
 神の人モーセは人の子イエスに重なります。主イエスも天の父のもとで豊かであったにもかかわらず、貧しくなられたからです。そして十字架の死に至るまで従順でした。それゆえ天の父から与えられた偉大な使命を果たすことが出来たのです。
 モーセは妻子をろばに乗せ、エジプトに降って行きました。わたしたちも「今、行きなさい」という使命を主イエスから与えられているのではないでしょうか。

2012年9月16日日曜日

使徒7章54-60節「この罪を彼らに負わせないで」

第149号

ユダヤ人たちは民衆、長老たち、律法学者たちを扇動し、ステファノを最高法院に連れて行きました。そして、「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようと」しない、「あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変える」と言っていた、と訴えました。大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねると、ステファノはイスラエルの歴史を回想し、預言者たちと律法に不忠実であった民の罪を指摘し始めました。そして「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか」、今や、その預言者が証したように、神である主イエスがこの世を救うために来られると「あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした」と彼ら自身の罪を糾弾しました。それを聞いた人々は激しく怒り、歯ぎしりをしました。
 ステファノは聖霊に満たされ天に顔を向けると「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言いました。すると、人々はその言葉が聞こえないように大声で叫び、手で耳をふさいでステファノ目がけて一斉に襲いかかりました。彼らにとってこのステファノの言葉は神に対する冒涜でしかなかったのです。イエスは人であるにも拘らず自分を神とした罪人だったからです。その冒涜のために彼らはイエスを木に掛けたのです。彼らはステファノを都の外に引きずり出し、石を投げつけました。ステファノは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、ひざまずいて「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫び眠りにつきました。

ユダヤ人たちは神を信じ、預言者を敬っていました。彼らにとってアブラハムは信仰の父であり、モーセはエジプトで四百年間奴隷であったイスラエルの民を導き出し、荒野で幕屋と律法を与えた偉大な指導者でした。ダビデは偉大な王であり、ユダヤの勢力を世界に広げた百戦錬磨の将軍でした。彼らにとって神を信じ、預言者を敬うということは自分もまた神と人の前に立派になり偉大になることを意味していました。そのために人々は神殿を築き、律法を厳守しました。同じことはわたしたちにも言えます。誰も多少なりとも神とこの世に貢献したいと思っているからです。良い行いと努力で神に喜ばれ、「忠実な良い僕だ。よくやった」と言われたいのです(マタイ二五章二三節)。
 ユダヤ人たちは、神が預言者に約束された、来るべきメシアもまた力と栄光に満ちた方で、モーセのように自分たちイスラエルの民をローマの頸木から解放してくださると信じていました。しかし、主イエスは彼らが期待していたようなメシアとは違いました。貧しく、権力もなく、生まれつきの偉大さもありませんでした(イザヤ書五三章)。
 主イエスが人は預言者を信じたり、律法や神殿の祭儀を守ることによって救われるのではなく、ご自身を神と信じることによってのみ救われると言われました。それらのものは陰にすぎず、真なるものが現われる時までのことだと言われるのです。この主イエスにユダヤ人たちは躓きました。

 イスラエルの人々が主イエスをメシアと信じることが出来なかったのは人間的な偉大さの中にメシアを見ようとしていたからです。それは、預言者を偉大な人と見ることにより、真の「偉大さ」は何かが見えなくなっていたからです。偉大な仕事をしたのはその人ではなく神がその人を通して働かれたからなのです。神が預言者に求められたのは、自分を無にすることでした。自分が低くならなければ神はその人を自分の器として用いることは出来ないからです。同じことはメシアである主イエスにも言えました。そしてわたしたちに低くなる、貧しくなるということはどういうことかを示されたのです。
 主イエスは天の父のために自分の家を捨て、家族を捨て、遂には自分の命さえ捨てられました。そして十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と言われました(ルカ二三章三四節)。ステファノも主イエスと同じ道を歩みました。そして石に打たれた時、同じことを祈りました。このステファノを主イエスは玉座から立ち上がって受け入れ、「忠実な良い僕だ。よくやった」と言われるのです。
 主イエスの十字架も、ステファノの殉教も、全ては神のご計画でした。神はその目的を実現させるためにはご自分の民への迫害さえ利用されるのです。神は創造者でわたしたちは被造物なのです。主イエスの十字架によって救いがこの世に到来し、ステファノの殉教によって福音はユダヤ人から異邦人に広がりました。わたしたちは「この罪を彼らに負わせないでください」と祈ったステファノに倣い、彼と同じように主イエスに従うことが求められているのです。

2012年8月19日日曜日

使徒7章17-29節「約束の実現する時」

第148号

 
 この個所はステファノの最高法院での弁明です。族長ヨセフからモーセに話を移し、歴史を通して働く神の支配を説いています。それはわたしたちへの神の救いのご計画です。
 ヨセフの父ヤコブは、家族七五人を連れてカナンの地からエジプトに移住しました。それから四〇〇年経ち、イスラエルの民は二百万から三百万に増えていました。その間、イスラエルの民は自由の身ではなくエジプト人の奴隷となっていたのです。
 アブラハムへの約束を実現する時が来たため、神はモーセをエジプトに遣わし、奴隷から解放しようとしました。しかし、民はモーセを受け入れませんでした。そのことをステファノは神が独り子、主イエスをこの世に遣わしたのに従わなかった民に重ねています(使徒七章五一、五二節)。民はいつも神に、そして預言者に従わないのです。わたしたちにも同じことが言えます。主イエスを受け入れないなら、モーセを受け入れなかった民と同じなのです

ヤコブの家族が住むようになった地はゴーシェンでした。そこはメソポタミヤにつながるカナンの地への通商路の入口にあり、敵が最初に侵入するエジプトの要所でした。エジプトを救った宰相ヨセフのことを知らない王が支配するようになると、増え続けるヘブル人が侵入して来る敵方に付き、自分たちを支配するようになるのではないかと恐れました。そのためピトムやラムセスの町造りに従事させ、重労働を課しました。それにも拘わらずイスラエル人が増え続けると、ファラオは助産婦に命じ、生まれて来る男の子を全て殺すように命じました。しかし彼女たちはファラオより神を恐れ、丈夫なイスラエルの妊婦は自分たちが着く前に生んでしまうと言い訳をしました。遂にファラオは全国民に命じ、男の赤子は皆ナイル川に放り込むように命じました。
 そのような時にモーセは生まれたのです。両親は三カ月間、隠しておきましたが、隠し通せなくなると籠を作りその中に入れてナイル河畔の葦の茂みに置きました。ファラオの娘がその場所に沐浴に来ることを知っていたのです。ファラオの娘は泣いている赤子を見つけ、かわいそうに思い自分の子として育てることにしました。モーセはファラオの家族の一人となり、将来の王にふさわしい教育を受けたのです。
 モーセは四○歳になると、このまま王家の一員として一生を送るか、奴隷となっている同胞を助けるために命を掛けるか思い悩むようになりました。ある日、エジプト人がヘブル人を打っている場に遭遇し、そのエジプト人を打ち殺しました。次の日、モーセはヘブル人同士が争っているのを見て仲裁に入ると、男は「だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか」とモーセを突き飛ばしました。それを聞いて彼はミディアンの地に逃げました。自分のしたことがファラオにも知られると思ったからです。そして、その地で結婚し二児の父となって義理の父の羊を飼う者になりました。

 ヘブライ書は、モーセは人としてイスラエルの民に忠実であったが、主イエスは御子として天の父に忠実であった、と言います(三章二節)。モーセ以来、イスラエルには彼以上の預言者は現われませんでした。モーセは顔と顔を合わせて神を見、その言葉を聞いて民に伝えたのです(申命記三四章一〇節以下)。
 モーセと主イエスとの間には幾つかの共通点があります。主イエスも生まれてすぐ命の危機に遭いました。ヘロデ大王が主イエスが生まれたベツレヘムとその近郊の二歳以下の男の子の殺害を命じたからです。赤子の主イエスは飼い葉桶に寝かされましたが、マリアとヨセフの目が注がれていました。モーセの両親の目もまた籠の中の幼子に注がれていました。神の目が無防備な赤子に注がれていたということです。モーセが民から排斥され遠いミディアンの地に逃げたように、主イエスも民に捨てられ十字架に付けられました。モーセは四〇年後、神によって再びエジプトに遣わされ、ご自身が何者であるかをイスラエルの民に示し、エジプトから彼らを解放しました。主イエスも三日目に復活し、御自身が神であることを弟子たちに示され、御自身を信じる者を救われました。
 神の民はエジプトにいたのでは神を礼拝できません。神を礼拝するためにそこから出て行かなければなりませんでした。わたしたちも同じで、この世だけに目を向けていたのでは神を礼拝できません。主イエスは罪の奴隷であったわたしたちをこの世から救われ、神の民とするのです。そして、モーセが四〇年後再びエジプトに戻って来たように、主イエスも再び戻って来られ、ご自身が神であることを全ての国民の目に明らかにされ、信じる者を御国の民とされるのです。

2012年7月15日日曜日

使徒4章1-22節「救われるべき名は」

第147号

 祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人たちは使徒ペトロの説教をいらだちながら聞いていました。無学な者が神殿で人々に教えていたからです。しかも自分たちが十字架に付けた主イエスが復活したというのです。しかし、五千人も信じたため放置できず、二人を捕らえ牢に入れました。
 翌朝、議会が開かれました。議員の多くはサドカイ派である大祭司一族でした。彼らは使徒たちを真中に立たせ、「何の権威によって…ああいうことをしたのか」と尋ねました。ペトロとヨハネが神殿の門のそばに置かれていた生まれつき足の不自由な男を癒し、それに驚いて集まって来た人たちに話をしたからです。「ペトロは聖霊に満たされて」弁明を始めました。この男が癒されたのは自分たちや男の信仰によるのではなく、主イエスの名によるのである。あなた方はこの方を十字架に付けて殺したが、三日目に甦り、天に昇り、父なる神の右に座し、今も生きて全てを支配している。そして詩篇一一八篇二二節を引用し、この主イエスによってイスラエルの「家」は建てられなければならないと答えました。

サドカイ派の人たちは、人は復活することはないと教えていました。しかし、彼らは主イエスの名によって癒された男を前に反論することが出来ませんでした。彼らに出来たのは二度と主イエスの名によって語ってはならないと脅かすことだけでした。しかし「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」と言われ、ますます立場を悪くしました。それでも更に脅かし、釈放するしかありませんでした。これは使徒たちが受けた最初の迫害でしたが、主イエスも同じように裁判を受けられ、十字架に付けられたのです。

  大祭司たちの持つ本来の役割は、神殿で民の罪の赦しのために祭儀を行うことでした。しかし、この務めはイスラエルの長い歴史の中で、民を支配する権威に変わり、そのため、他のいかなる権威も認めることが出来なくなっていたのです。議員たちは自分たちが殺した主イエスが神であると信じることは出来ませんでした。この世の権威は人を殺し、神の権威は人を生かします。神の他、誰が生まれつき足の不自由な男を癒し、歩けるように出来るでしょうか。
 実はペトロも主イエスを神とは信じていませんでした。主イエスが十字架に付けられるため議会で裁かれていた時、「そんな人は知らない」と三度も否みました。三度目は何と呪いの言葉さえ口にしながら誓って言ったのです(マタイ二六章七四節)。
 ペトロだけでなく全ての人は主イエスが神であると認めることは出来ません。それがわたしたちの持って生まれた原罪なのです。人間の罪はわたしたちの造り主である神を神として礼拝できないことにあります。
 主イエスを神と信じることが出来るように変えられるのは、生ける主イエスとの出会いによります。使徒たちは復活の主イエスに出会い、五旬祭の日に聖霊を受け、新しい人になりました。わたしたちも同じです。自分の努力や信仰ではなく、神の側からの働き掛けがなければ決して変わることはなく、信じることは出来ません。
 わたしたちが信じられるのは復活の主イエスに出会ったからで、このことなくして主イエスが「しるし」を行ったことを信じることは出来ません。「しるし」は主イエスがどのようなお方であるかをわたしたちに教えるのであって、奇跡だけでは主イエスが神であることに結び付くことはありません。ペトロの説教で人々が信じたのはあくまで聖霊の働きによるもので、主イエスの臨在をはっきりと感じ、その男が癒されたのはこの方によると知らされたからです。その時、自分たちが主イエスを十字架に付けたその罪に気が付き回心したのです。
 繰り返しますが、主イエスがご自身をわたしたちに啓示されない限りわたしたちは信じることが出来ません。主イエスがなされたしるしを見て主イエスを神と信じるわけではありません。

 神を信じるということは、わたしたちへの主イエスの主権を信じるということに尽きます。主イエスは生前、生まれつき目が見えない人の目を見えるようにされ、死者を復活させ、ガリラヤ湖の荒れる波風も一言で鎮められました。これらの奇跡は御自身が神であることをわたしたちに教える「しるし」でした。そしてその最後の「しるし」は御自身の復活でした。
 今の時代、ペトロのしたような奇跡を見ることは出来ません。わたしたちに与えられている聖霊と聖書の御言葉こそが「しるし」だからです。わたしたちに与えられている「救われるべき名は」主イエスだけで、その名によって聖霊を受けるのです。聖霊こそがわたしたちの信仰と救いになくてはならない神からの賜物なのです。

2012年6月17日日曜日

使徒2章14-21節「終わりの時に」

第146号

 ペトロは他の十一人の使徒たちと共に立ち上がり、集まって来た人たちを前に話し始めました。ペトロの五旬節説教です。「ユダヤの方々…今は朝の九時ですから、この人たちは、あなた方が考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」。人々は異言を語っている使徒たちを見て酒に酔っていると思ったのです。敬虔なユダヤ人は朝の祈りの前には何も食べません。ペトロはこのように皆を驚かしているのは霊によるもので、このことは神が預言者ヨエルを通して言われていたことだと言いました(ヨエル書三章一節~五節参照)。神は「終わりの時」に人々に御自身の霊を注がれるのです。すると彼らは予言をし、幻と夢を見ます。それから「主の日」が来るのです。それは主イエスの再臨の日で、救いの日であり裁きの日でもあります。太陽は暗く、月は血のように赤くなり、地には徴が現われます。その時、「主の名を呼び求める者は皆、救われ」ます。しかし、呼び求めない者は皆、滅ぼされるのです。

  五旬祭に約束の聖霊が使徒たちに注がれ、この世は「終わりの時」に突入しました。神は聖霊による「新しい民」を起こされたのです(Ⅱコリント五章一七節)。ユダヤ人を恐れていた使徒たちは変えられました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」のです(使徒一章八節)。今、わたしたちはこの「終わりの時」を生きているのですが、この「終わりの時」は主イエスの再臨の時まで続きます。この「主の日」こそが、全ての出来事の目標であり目的なのです。その時に生きている者も、死んだ者も主イエスの名を呼ぶことが出来るかどうかが問われます。それは主イエスについて知っているというのではなく、主イエスを知っているかどうかであって、主イエスの霊を受けているどうかです。主イエスの再臨の日にわたしたちの「滅び」と「救い」が決まるのです。
 使徒たちは主イエスと出会い、この方によってイスラエルは神の国になると信じました。しかし、主イエスは十字架に付けられてしまいました。三日目に主イエスが墓より甦ると使徒たちは再び神の国の理想を取り戻しました。その彼らに主イエスは「神の国」がどのようなものであるかを教えられ、四十日後に天に昇られました。その時、天使は使徒たちに「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と約束されました。その時、この世に主イエスが王として支配される神の国が生まれるのです。但し、その時については「あなた方の知るところではない」と言われました。しかし、あなたがたに「まもなく」聖霊が与えられると言われ、それまでエルサレムを離れてはならないと命じられました。

  使徒たちが主イエスの十字架の意味を知ったのは聖霊を受けてからでした。主イエスを十字架に付けたのは、ユダヤ人や指導者たち、またローマ総督、ポンティオ・ピラトだけでなく、「わたしはこの人を知らない」と言ったペトロや使徒たちでもあったのです。主イエスが神御自身であるなど誰が知り得たのでしょうか。それはわたしたちも同じです。主イエスはそのような人の罪を十字架の上で赦されたのです。そして、それを信じる者に神は聖霊を授け、神の民とされるのです。もはやアブラハムの子孫が神の民ではなく、主イエスを信じる信仰によって生まれた者がイスラエルの民となるのです。
 わたしたちは自分の力で福音を宣べ伝えることはできません。宣教の業は聖霊である神御自身がなされるのです。世界に福音が宣べ伝えられ、それから主イエスの再臨があり、この世に神の国が生まれるのです。すべては神御自身の計画と働きによるものであって、人類の進化や社会の改革、政治的活動によってもたらされるものではありません。そうではなく、逆に「主の日」を前に人々の愛は冷え、多くの場所で地震があり、戦争が起こるのです。それらは主イエスが再臨され神の国が生まれるための「生みの苦しみ」の始まりです。
 正しいお方は神の子である主イエスだけなのです。わたしたちに出来ることはそのお方を信じることだけですが、それすらも神の恵みによるのです。それが「救い」で全て「キリストのみ、恩恵のみ、信仰のみなのです。
 聖書はキリストである救い主を証します。旧約の主はキュリオスで、新約のキリストと同じです。それを知ることが聖書を読み解く鍵で、旧約の中にキリストが隠されているのです。聖書はわたしたちに「すでに起きたこと」、「今起きていること」、「これから起こること」を告げることによって今が、「終わりの時」であることを教えます。

2012年5月20日日曜日

使徒1章3-5節「聖霊による洗礼」

第145号

 
 主イエスは復活され「御自分が生きていることを、数々の証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話されました」。主イエスの言われる「神の国」とはどのような国だったのでしょうか。その国を弟子たちはどのように理解していたのでしょうか。
 主イエスは弟子たちと食事をされ、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と言われました。主イエスは十字架に付けられる前の夜にも弟子たちと食事をされ、同じ約束をされています(ヨハネ一四章~一六章参照)。
 神の国と聖霊とは密接な関係があります。神の国とはその霊が支配する国のことだからです。旧約では預言者、王、祭司はその職務に着く時、油を注がれました。油は見えない聖霊を証するもので、実際、預言者は神から聖霊を受け、神の言葉を民に語りました。世界でイスラエルだけが神の国と呼ばれましたが、同時に神に逆らう国でもありました。預言者を迫害し、殺してきたのがその歴史でした。神は最後に御自身の独り子を遣わしましたが、人々は十字架に付けました。
 弟子たちは主イエスこそメシアであると信じていましたが、その死によってイスラエルを神の国にする夢は砕かれました。しかし、主イエスが三日目に復活されたことによって、弟子たちに「神の国」の夢が蘇ったのです。

 わたしの母は秋田におりますが、九十二歳の誕生日に電話で話しました。二年前の大病からすっかり元気になり「何時もあなたたちのために祈っている」と言っていました。それを聞いて初めて母が危篤から奇跡的に回復した訳が分かりました。親はいつも子のことを気にかけているのです。
 アブラハムはイサクを愛しました。エジプトの仕え女ハガルとの間にもイシマエルがいましたが、イサクとは比較になりませんでした。ヤコブには十二人の子がいましたが、ヨセフを特別に可愛がりました。年取って生まれた子であり、愛するラケルの子だったからです。母マリアは主イエスをどれ程愛していたか分かりません。
 親と子は血で繋がっているので、その愛には深いものがあります。それに対し、神とわたしたちとは神の霊で繋がっているのです。「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与え」、御自身の子としてくださいました。(第一ヨハネ四章十三節)。神は愛する子たちに国を用意されましたが「だれでも水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない」のです(ヨハネ三章五節)。
 弟子たちはイスラエルが「神の国」になると信じていました。具体的には、ローマの頸木から解放され、主イエスが王となり、自分たちもまた主イエスを助けてこの国を支配するということでした。しかし、主イエスはその国に代わって、弟子たちに神の霊を授けることによって神の民をこの世に生まれさせようとしました。そして神は弟子たちを通して様々な国籍、民族から御自身の子たちを招集されようとしました。その人たちはこの世では土地を持たない民であってアブラハムの子孫という血による民族の枠を超えた、新しい民となるものでした。

明治の偉大なキリスト教思想家である内村鑑三は、自らの信仰を顧みて、自分は明治十一年(一八七八年)にキリスト教に回心し、明治十九年(一八八六年)にキリストの十字架において罪の贖いを認め、遂には大正七年(一九一八年)にはキリストの再臨を確信したと言っています。
 神とわたしたちとが親子となるという新しい関係に入ることによって、わたしたちもまた内村鑑三と同じこの信仰の道を辿ることになります。神の霊を受けるまでわたしたちは自己中心で、人生の目的は自分の希望を叶えることでした。しかし、聖霊を受けることによって自分の罪が十字架の故に赦されていること、主イエスは今も生きていること、永遠の命の確かなことを信じることが出来るようになるのです。これらのことは自分の頭では理解できないことでした(第一コリント一二章三節参照)。わたしたちは少しずつですが神中心となり、神の御心の実現こそがわたしたちの生きる目的に変えられるのです。神はそのようなわたしたちを通して世界宣教を遂行され、福音が世界に述べ伝えられた後に主イエスが再臨され、神の国が目に見える形で実現されるのです。わたしたちは今、主イエスの昇天と再臨の「間の時」を生きているのです。
 主イエスの再臨の時こそこの世の完成の時であって、この世のものが全て新しくされます。神の霊を与えられたわたしたちはその時に復活しますが、それは永遠に耐える「新しい体」を伴ったものとなるのです(第一コリント一五章四六節)。

2012年4月15日日曜日

マルコ16章1-8節「あの方はここにはおられない」

第144号

《イースター礼拝》

 主イエスが十字架に付けられたのは朝九時で、息を引き取られたのは午後三時でした。安息日が終わると、マグダラのマリアら三人の婦人たちは香油を用意しました。そして週の初めの日の朝早く、彼女たちは主イエスの遺体に香油を塗るため墓に向かいましたが、墓は大きな石で塞がれ、脇には番兵もいるはずでした。
 ところが彼らが墓に着くと石は取り除かれていました。そして墓の中には一人の若者が座っていました。聖書はその若者を天的な存在として描いています。天使は驚く婦人たちに声をかけられ、主イエスは復活してここにはおられないこと、そしてガリラヤで会えると弟子たちとペトロに告げなさいと言いました。婦人たちはこれらの出来事に震え上がり、正気を失いました。
 弟子たちにとって、主イエスが十字架に付けられたことは大きな挫折でした。「あの方こそ、イスラエルを解放してくださる」と信じていたからです(ルカ二四章二一節)。メシアである主イエスがローマ帝国からイスラエルを救い、自分たちも主イエスと共にその王国を支配するはずでした。そのためには自分の命をも捨てる覚悟でした。しかしエルサレムに入城された主イエスは神の国のために戦おうとはされず、無抵抗のまま十字架に付けられてしまいました。そして墓に入れられ三日が経ちました。それは弟子たちの望みにピリオドが打たれ、完全に過去のものとなったということでした。

主イエスは弟子たちにフィリポ・カイザリア以来、御自身の苦難と十字架、そして三日目の復活を繰り返し教えて来ました(マタイ一六章二一節)。それにも拘らず、弟子たちの内、誰一人それを心に留めてはいませんでした。彼らにとってメシアが死ぬなどということは考えられなかったのです。
 ゲッセマネでは弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げました。イスラエルを神の国にしようとする彼らにとって、選択肢は戦うか逃げるかのどちらかでした。それでもペトロは捕らえられた主イエスの後について大祭司の庭に入り、裁判の成り行きを見守ったのです。ところが、あなたもこの人の仲間だったと言われ、わたしはこの人を知らないと三度も否んでしまいました。主イエスはペトロの方を振り向いて見つめられました。ペトロは外に出て激しく泣きました。
 ペトロは主イエスに従う前、ガリラヤの漁師でした。主イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました(マタイ四章一九節)。その言葉を聞いて仕事を捨てて主イエスに従いました。しかし、その結果はペトロの裏切りで終わりとなりました。主イエスは死に、悔い改める機会は失われたのです。
 主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われました(ルカ二三章三四節)。「彼ら」とは、自分を十字架に付けた者であって、弟子たちとペトロ、そしてわたしたちも全て含まれるのです。わたしたちは赦されるために、死んで主イエスの前で裁かれる日を待たなければならないはずでした。それまで自分の冒した罪を悔いながら生きるのです。しかし、空になった墓は、そうではないことを教えました。天使は弟子たちとペトロを復活した主イエスの下に再び招かれたからです。

  主イエスが復活されたのは、十字架の上で「彼らの罪をお赦しください」と叫ばれたその祈りが確かに天の父によって聞き届けられ、主イエス御自身がわたしたちの内にあって共に生きるためでした。復活された主イエスはペトロの裏切りを少しも咎められませんでした。御自分を愛するかと三度、尋ねられただけでした。同じことは、他の弟子たち、そしてわたしたちにも言えるのです。主イエスはわたしたちと共に罪の苦しみ、悲しみを分かち合う存在となられたのです。もはや、わたしたちの罪の責任を問うことはされないのです。わたしたちは自由な身となったのです。
 空の墓はわたしたち自身が罪から救われるために努力する必要はないこと、そしてそれに代わって神がわたしたちの救いのために歴史に介入されたことを教えます。空の墓は無を意味し、神はそこからわたしたちと共に生きる主イエスを復活されました。創世記に「初めに、神は天地を創造された」とありますが(一章一節)、ここで言う「創造」は無からの創造で、主イエスの復活があって初めてわたしたちはそのことが信じられるのです。
 弟子たちの考えた神の国はこの世のことでした。しかし、主イエスの神の国は永遠の命のことです。その御国に入るには、わたしたちが主イエスに香油を塗るといった敬虔な行いとは関係なく、神がわたしたちのためになされたことによります。それは神からの一方的な恵みとして与えられるのです。

2012年3月18日日曜日

フィリピ書2章25-30節「主に結ばれて」

第143号

 
 東日本大震災から一年が経ちました。その日、東京神学大学の卒業式に参列していましたが、突然の激しい揺れに驚き、天上の梁が落ちてくるのではないかと思いました。一〇日後、アメリカから来日したパートナーズ インターナショナルの、ボッブ・サーベッジ氏と仙台、石巻を訪ねました。彼の所属する組織に多くの寄付金が送られて来たからでした。そこでわたしたちが見たのは海岸から内陸に広がる瓦礫の原でした。
 日本で多くの外国人が動画を作り、インターネットで世界に配信しています。今回の災害でも自らの体験を語り、また義援金を送るように呼びかけています。海外からも様々な人たちが祈りや激励の言葉を送って来ています。そこには規律を守り、助け合っている被災者たちに感動し、学びたいと言う声が沢山ありました。今日、人々は国や人種という枠を超えて強く「結ばれて」いることを実感しました。

 フィリピの集会はパウロが獄にいると聞いてエパフロディトを送りました。その目的は贈り物を届けることとパウロの世話をすることでした。当時の獄の状況は厳しく、食事も質量共に貧弱でした。ただ、今日ほどには外部と隔離されていませんでした。しかし、エパフロディトはパウロの世話をすることができませんでした。重い病気にかかったからです。そのことはフィリピの人たちにも伝わり、彼らはエパフロディトの身を案じました。しかし、せっかく遣わしたのにと遺憾に思う人もいたようです。
 パウロはやっとのことで病気が回復したエパフロディトをフィリピに帰すことにしました。当時の福音宣教者の中には自らの働きの報酬として金銭や奉仕を当然の権利として受ける人たちも多くいたのです。パウロはそのような人たちとは一線を画していました。自分の利益のために福音を述べ伝えていると見做されたくなかったのです。パウロは彼をフィリピに返すのが良いと判断したのです。
 パウロはエパフロディトを「わたしの兄弟、協力者、戦友」と呼んでいます。兄弟とは主イエスを信じる者同士です。協力者はフィリピの人たちのように宣教者を物心ともに支える人たちです。戦友とはキリストから与えられた任務を果たすために死ぬような目に遭った人を指します。わたしたちは出来たら戦友と呼ばれる当事者ではなく、傍観者のままでいたいのではないでしょうか。しかし、傍観者のままでいるならその心はいつか冷たくなり、遂には錆びついて動かなくなります。戦友になることによって初めてパウロの喜びや苦しみのいくらかが共有でき、燃え尽きることができるのです。パウロはフィリピの人たちにエパフロディトのような人を「敬いなさい」と言います。何故なら「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭った」からです。

  日本の古い文化は、命より大切なものがあること、そして人の「和」と「共生」を大切なこととして教えて来ました。例えば武士は自分に誇りを持ち、仕える主人のためには命さえ惜しみませんでした。しかし、このことは戦時中の覇権主義と軍国主義に利用され、天皇のため、お国のために死ぬのが美徳とされ、多くの人の命が奪われました。戦後、民主主義の導入により人の命は何よりも大切なものと考えるようになりました。しかし、この教えもまた近代の競争原理の導入と共に自己中心的な生き方に変質し、社会に大きなひずみが生まれました。
 今回の災害でわたしたちが気がついたことは、自分の命をかけて他の人の命を救った多くの人たちがいたこと、また、人々はこのような試練な中で助けあい、分かちあい、励ましあったことでした。日本の古い文化が今も生きていてそれが社会を支えていることを知らされ、わたしたちの心を打ったのです。それは世界の人々にとっても同じでした。
 新渡戸稲造は著書「武士道」で「私は、封建制と武士道がわからなくては、現代日本の道徳思想は封印された書物と同じだと気づいた」(ちくま新書、一四頁)と記し、日本の古い文化を旧約の律法とし、この上に新約聖書が読まれなければならない、と書いています。わたしたちキリスト者にとっては、自分の命より大切なもの、それが神であり隣人で、それによってわたしたちの和と共生があるのではないでしょうか。
 帰路についたエパフロディトの懐にはパウロからの書簡が託されていました。獄にいたパウロの愛は変わらずにフィリピの人たちに注がれていました。神はエパフロディトを憐れんで下さいました。主イエスは彼に「パウロにしたことはわたしにしたことである」と言われたのではないでしょうか。パウロとエパフロディトとはお互いの命を捧げることによって「主に結ばれて」いたのです。

2012年2月19日日曜日

フィリピ書2章1-11節「イエス・キリストは主である」

第142号

 
 フィリピの教会の人たちは、パウロの身を案じ、ローマの獄での生活を心配していました。そのためにエパフロディトをパウロのもとに遣わしました。パウロには多くの敵がいました。ユダヤ人指導者であるファリサイ派の人たち、律法学者、大祭司たちは彼の命を狙っていました。十字架につけられた主イエスは死から復活したとパウロが宣べ伝えていたからです。教会内にも彼の敵はいました。その人たちは「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられ」、また「自分の利益を求めて、獄中のわたし(パウロ)を一層苦しめようと言う不純な動機からキリストを告げ知らせて」いたのです。
 しかしパウロにとって本当の敵は、内なる敵でした。パウロはフィリピの人たちに「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています」と言っています。それはキリストを宣べ伝える福音のための戦いで、それに「ふさわしい生活を送りなさい」と勧めていることでもありました。大切なのは自分のことではなくキリストなのです。パウロは自分の投獄が「かえって福音の前進に役立」ったこと、そして自分がどのような目に会ったとしても「キリストが公然とあがめられるようにと切に願」っていると言います。

フィリピの人たちにとってパウロの投獄は理不尽なことであったに違いありません。なぜ、このような目に遭わなければならないのかと問い、一日も早く自由の身になるように望んでいたことでしょう。しかし、神にはその祈りは通じませんでした。わたしたちは簡単に神のなさることに善悪の判断をつけることは出来ません。
 あらゆる生きものの中で人間だけが善悪を判断します。しかし、その判断はあくまで経験と知識によるものであって、その判断が正しく出来るとは言えません。たとえ神を信じていてもそのことは言えます。モーセの十戒の五つ目の戒めは「人を殺してはならない」ですが、同時に神はモーセにカナンの地の民を滅ぼすよう、特にアマレク人に対しては殲滅するように命じています(出エジプト記一七章、申命記七章参照)。その相反する戒めをわたしたちはどのように理解し実践したらよいのでしょうか。今日においてもイスラエルはパレスチナの人たちと戦っています。しかし、それに反対して平和的な解決を求め、共存の道を探る人たちもいるのです。そのどちらも自分たちが正しいと信じているのです。
 ユダヤ人指導者たちは主イエスを十字架につけました。主イエスは御自身を神としましたが、彼らにとってそれは神への冒涜であって、死罪に当たりました。弟子たちも主イエスを一人残して逃げました。剣で戦うか、逃げるかのどちらかしか選択の余地はなかったのです。弟子たちは主イエスをメシアと告白しましたが、神御自身であるとは知りませんでした。わたしたちもまた家畜小屋で生まれ、十字架で死んだお方が神であるとは信じられません。神は主イエスを死から復活させることによって神の子であることを示されましたが、全ての人にそのことが啓示された訳ではありません。

 主イエスは低くされ、貧しい者、弱い者、病にある者の友となられました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の姿で現れ、へりくだって、死に足るまで、それも十字架の死に至るまで従順」になられました。このことによって無限の神の高さを示されたのです。
 主イエスが御自身を低くされたので天の父は「キリストを高くあげ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。
 主イエスのこの世での生涯を知ってわたしたちもまた低くされます。それはアッシリア、バビロニア、ローマに敗れたイスラエルの捕囚の民と同じにされることであって、神の御前に膝まづき、この世において寄留の民とされることです。
 パウロもかつてキリスト者を迫害していました。ステファノが石打たれる時、そこで人々の上着の番をしたのです。しかし、復活の主イエスに出会った時彼は変えられ、迫害される側に立たされました。主イエスは生きておられると宣べ伝えることによって、人々から鞭や石で打たれ、投獄されました。しかしそれによって福音が前進するのを見たのです。この苦難と喜び、それが主にある戦いでした。目に見える敵との戦いではありませんでした。そしてそれはわたしたちの戦いでもあります。イエス・キリストはわたしたちの主であって、その主のために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。

 

2012年1月15日日曜日

フィリピ書1章1-2節「恵みと平和が」

第141号

 この書簡の著者はパウロに間違いないと言われています。一節にパウロの名が記され、初期の教会指導者や神学者もパウロが著者であることを認めています。文体、言葉遣いもパウロ独特の素朴さ、繊細な感情、率直な感情がほとばしり出ています。書かれた時期は六十一年の後半で、場所はローマの獄だと言われます。パウロの獄中書簡にはこの他にエフェソ、コロサイ、ピレモンがあります。
 パウロがテモテ、シラス、ルカを伴いフィリピを訪れたのは第二次宣教旅行の時でした(使徒言行録一六章参照)。アジア州、ビティニア州に行くことを聖霊によって禁じられたため彼らはトロアスに行きました。すると夜、一人のマケドニア人が幻で現れ、パウロに「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と懇願しました。パウロたちは、それは神の召しであると確信し、ネアポリスを経てフィリピに行きました。そこでリディアという婦人に出会いました。彼女は福音を信じ、家族と一緒に洗礼を受けたのです。フィリポの集会はこのようにして生まれました。パウロがカイザリアからローマに送られたのはそれから十年後でした。フィリピの集会はパウロのところにエパフロディトを遣わしました。彼がフィリポに帰る時この書簡が託されたのです。この書簡はパウロの書簡中最も個人的なものだと言われ、また、「喜びの書簡」とも言われます。「喜び」、「喜ぶ」という言葉が十回以上出て来ます。その喜びとは「神が人となってこの世に来られた」ということに尽きるのです。

 一節、二節はパウロのエフェソの人たちへの挨拶です。パウロの他の書簡には自分はイエス・キリストの「使徒」であることが書かれていますが、ここにはありません。彼らにそのことを言う必要はなかったのでしょう。「使徒」とは生前の主イエスに従い、復活の主イエスに会った人たちのことです。主イエスは復活から四〇日後に彼らの見ている前で天に上げられました。「使徒」という名には、この主イエスを証する特別な役目とそれに伴う権威がありました。パウロは自分をその一人としています(Ⅰコリント一五章八節)。パウロは自分は「キリスト・イエスの僕である」と言います。「僕」に当たるギリシャ語(デュロイ)は「奴隷」です。このことはパウロは自分ではなく、主イエスの意志だけに従っていることを意味します。主イエスがパウロの全ての責任を負って下さるのです。パウロはフィリピの人たちを「聖なる者たち」と呼んでいますが、それはあくまで「キリスト・イエスに結ばれている」ことによるものであって、いわゆる立派な人という意味での「聖人」ではありません。主イエスは十字架でわたしたちの罪を贖ってくださり、それによってわたしたちは神の前に罪なきものとされました。それはあくまで神との契約に基づくもので、わたしたちが神の言葉を信じて「洗礼」を受けることによって成立するものです。従って、人の資質の有無によるものではなく、神の意志に基づくものです。フィリピの集会には「監督」と「奉仕者」がいました。「監督」と「長老」とは同意語で、教会の指導者のことです。「奉仕者」とは「執事」のことで、財政、物資、また様々な奉仕で教会に仕えた人たちです(使徒一章参照)。パウロはフィリピの人たちの「恵み」と「平安」を祈りますが、「恵み」とは回心時における恵み、契約によって「主イエスに結ばれている」ということでもありますが、それ以上に毎日の生活で必要な時に受ける「恵み」のことです。「平安」とは主イエスの十字架による和解ということだけでなく、日々の生活における祈りと感謝を通して得られる神の「平和」です。

  「主イエスに結ばれている」、それは主イエスの霊によって結ばれているということに他なりません。テモテとパウロは主イエスと人々への愛と奉仕で結ばれていました。彼らには青年と壮年という年の違いがありました。それは熱意と経験、衝動と知識、ほのかな希望と静かで豊かな確信の違いでもありました。パウロにとってテモテは自分の子以上の存在でした(Ⅰテモテ一章二節、一八節)。パウロとフィリピの集会もまた「主イエスに結ばれて」いました。フィリピの教会はパウロのために祈り、様々な援助をしました。貧しいエルサレムの教会を助けるために、彼らは自分たちが出来る以上のことをしたのです。そうすることにより彼らはパウロの宣教に関わっていたのです。パウロもそのような彼らを覚え、絶えず祈りました。
 わたしたちもまた「キリストに結ばれている」のです。洗礼を受け、聖餐にあずかり、契約の民とされているからです。「聖なる者たち」で、「神によって選び分かたれた聖でない人々(罪人)」です。契約により、同じ天にある故郷を約束されているのです。そこにわたしたちの過去でない、将来でもない今の「恵みと平和」があるのです。