第152号
《クリスマス礼拝》
創世記22章1-8節
アブラハムにイサクが与えられたのは百歳の時で、それ以来独り子の成長を見続けて来ました。どれ程イサクを愛していたことでしょう。神はそのようなアブラハムを「試され」ました。神は命じられ…『あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしの命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としなさい』」と言われました。「試された」と書かれていることにより神はイサクの命を取るのではないことをわたしたちには知らされています。しかしアブラハムには隠されていたが故に、このことはあくまでアブラハムの信仰の忠誠を確かめるための教育的試練だったのです。にも拘らず、父が子の命を取るようにと求めるこの神の試みは余りにも理不尽であり、承服できないものがあります。アブラハムは妻サラに自分のしようとすることを告げることは出来なかったことでしょうし、また、普通は誰一人、アブラハムのように実行する人はいないのではないでしょうか。
「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き…息子を屠ろうとし」ました。「そのとき、主の御使いが『アブラハム、アブラハム」と呼びかけ』…あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と言われたのです。そして、そこには一匹の雄羊が木の茂みに角を取られていました。アブラハムはその羊をイサクに代えて焼き尽くす献げ物としました。アブラハムはその場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付け、人々もイエラエ(主の山に備えあり)と呼ぶようになりました。
アブラハムはハランの地を出る時に神から土地、子孫、祝福に関する約束を受けましたが、ここで再びそれが確かなものとされてベエル・シェバに戻りました。
神はアブラハムに焼き尽くす献げ物としてイサクに代わって雄羊を用意されましたが、同じようにわたしたちのために主イエスが備えられたのです。洗礼者ヨハネは、主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました(ヨハネ一章二九節)。御自身の愛する独り子を十字架に付けた天の父のお苦しみは、イサクを献げたアブラハムの心の痛みに重なるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。わたしたちの身代わりの小羊の誕生こそクリスマスの出来事であって、主イエスによって神の国が到来し、永遠の命の確かなことを教えるのです。