2013年2月17日日曜日

マタイ14章22-36節「主よ、助けてください」

第154号
「五千人への給食」の後、主イエスは弟子たちを舟に乗せて向こう岸に行かせ、群衆を解散させました。そして独り祈るために山に登られました。夕方になり、夜が明けるまでその祈りは続きました。その間、弟子たちは海で逆風と荒波に苦しんでいました。彼らの多くはその海(ガリラヤ湖)の漁師でしたが、舟が沈むと思い、死の恐怖に怯えていたのです。
 夜明け頃、主イエスが湖面を歩いて彼らのところにやって来ました。それを見た弟子たちは「幽霊」だと大声をあげると、主イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。ペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、…そちらに行かせてください」と答えると、主イエスは「来なさい」と言われました。ペトロは舟から降り、水の上を歩き始めました。しかし、すぐ風と波を見て怖くなり、沈みかけ「主よ、助けてください」と叫びました。主イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。二人が舟に乗りこむと同時に風は止み、波はおさまりました。弟子たちは主イエスにひざまずき、礼拝しました。

 「海」はわたしたちの「人生」を意味します。誰もが波風のない平和な毎日を望んでいます。そのための「世の原則」は気の合った人とだけ一緒に働き、生活するということです。そうすれば、いやなことは何も起こらないからです。相手を愛すれば、それに見合う愛が必ずその人から帰って来ます。自分もその人も良い人となるのです。しかし現実の生活でそのようなことはありません。必ず、自分と合わない人が現われ、あの人さえいなければいいのにと思ったりします。自分が苦手意識を持つなら、その人もあなたに対して同じように思うでしょう。そのようにして、良い人であったはずの自分が本当は人を愛せない、醜い自分であることに気付かされます。事故や怪我や病気ではなく、愛の欠乏こそがそこでの自分の居場所をなくさせることになります。そして生きることが苦しくなるのです。
 「舟」は「教会」を指すと言われます。教会もまた気の合った仲間だけが集まっていれば、楽しいところとなるのではないでしょうか。しかし、現実の教会は違います。色々な人が集まって来るからです。すると様々な考え方の違いが表面化し、逆風が起こり、荒波が立ちます。主イエスを見失い、暗闇の中で苦しむことになります。
 人間的な手立てがなく、もはや助かる見込みがないと思われる時に主イエスが近づいて来てくださるのです。わたしたちは主イエスに「わたしである」と言われて初めてそのお方に気が付きます。主イエスは「わたしの所に来なさい」と言われますが、わたしたちの目はどうしてもこの世と人とを見てしまいます。その結果、二心となって再び海に沈もうとするのです。そのような場合の「信仰の原則」は「主よ、助けてください」との心からの叫びです。主「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ」て下さるからです。

 ペトロは舟に乗っていた弟子たちとわたしたち全ての代表です。ペトロが湖面を歩くことが出来たのは「自分の信仰」ではなく、「主イエスの信仰」の故でした。それは主イエスが天の父にわたしたちのためにして下さったことに目を止めるということです。このように主イエスに眼を注ぐことによって湖面を歩くという奇跡すら行えるのです。従って、そこから目を離せば沈む他はありません。それは旧約聖書に出て来るモーセの「杖」と同じで、その「杖」は「モーセの信仰」ではなく「主イエスの信仰」なのではないでしょうか。
 ペトロの湖上歩行は、わたしたちに主イエスの力に信頼することの大切さを教えます。教会は主イエスの全能を認め、このお方を神と告白しなければなりません。主イエスを通して示された神の力は主イエスの死からの復活においてわたしたちに示されています。主イエスの復活を信じることがわたしたちの信仰の出発点であって、それが無から有を生み出した創造の神を信じること、そしてまた、主イエスの湖上歩行を信じることにも繋がるのです。
 弟子たちが暗闇の中で波風に怯えていたとき、主イエスは山で祈っておられました。それは今、天でわたしたちのために祈られている主イエスに重なります。この世の波風はわたしたしたちを海に沈めようとします。しかし、助けは主イエスから来るのです。そして、それによって主イエスを全能の神として礼拝することが出来るようされるのです。