2014年3月16日日曜日

マルコ1章12〜15節「神の国は近づいた」

第167号

去る三月十一日に東日本大震災から三年目を迎えました。地震が起こったのは丁度、神学校で卒業式に出席している時でした。それから十日後に仙台と石巻に行きましたが、そこで目にした光景は忘れることは出来ません。このような災害を前にして、わたしたちは「どうして」と問わざるを得ません。この世に何故このような災害や苦難があるのでしょうか。そのことも心に留めながら今日の御言葉に耳を傾けたいと思います。
 初めに「それから」とありますが、それは前に書かれている九節から十一節までを受けています。そこには主イエスがガリラヤのナザレを出て、ヨルダン川で預言者ヨハネから洗礼を受けられ、水から上がると天から「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声があったことが書かれています。主イエスは罪のないお方であるにも拘らず、「悔い改めの洗礼」を受けられ、わたしたちと同じ罪人の一人となられました。そして、天の父ご自身に我が子であると宣言されました。このようにして主イエスは公生涯の始めに、人であり神であることを明らかにされたのです。そして、そのことがそれからの歩みが十字架に至る道であることを教えています。
 主イエスは、「霊」によって荒れ野に導き出されました。「霊」とは「聖霊」であり「主の霊」、「神の霊」です。荒れ野でサタンから受けた誘惑は、石をパンに変えたらどうか、高い塔から飛び降りて神を試みてはどうか、サタンに跪くなら世の栄華を全てあげようと言うものでした。この誘惑は最初の人であるアダムとエバへのサタンの誘惑に対応するものです。彼らは誘惑に負けましたが、神である主イエスは打ち勝ち、サタンを退けられました。
 その後、主イエスは伝道の生涯に入られました。その宣教活動の中心はガリラヤでした。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と人々に宣べ伝えたのです。

 「神の国」の「国」にあたるギリシャ語は「バシレイア」で、その意は「王国」であり「支配」です。従って「神の王国」、「神の支配」です。ヨハネは「悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ました。人々はそれまでの罪を悔い改め、洗礼を受けることによってその罪が赦され、それ以後は罪を犯さず正しく生きることが求められました。それに対し、「福音」は、それまでの罪を悔い改め、主イエスを信じることによって救われると教えます。救いは自分の義しさによってではなく、主イエスの義しさがわたしたちを救うのです。
 旧約聖書の律法は、それを守って正しく生きる人を神は祝福し、守らない人を裁かれるものでした。祝福とはこの世的なもので、地位、名誉、財産であり、子孫の繁栄、健康等でした。「裁き」とはそれらのものが取り去られることでした。しかし、旧約聖書はこのような因果応報の律法を教えるだけのものではありません。例えばヨブ記では、人間の正しさによらない、神の主権を教えます。神はヨブを祝福され十人の子、数えきれない沢山の家畜、広大な土地、地位、名誉、健康などを与えられました。ヨブは無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きて来た東方一の富豪でした。しかし、神はヨブに与えたそれら全てのものを取り去られました。人々はヨブに神の裁きが下ったと思い離れていきました。最愛の妻でさえ「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったのです(ヨブ二章九節)。そのようなヨブを慰めるために三人の友人がやって来ました。彼らがヨブに求めたのは自分の罪を認め、悔い改めることでした。しかし、ヨブには何故神がそうされたかが分かりませんでした。それがヨブの苦しみで、ヤコブと同じように神と奮闘したのです。

 神から与えられる苦難を、自分の罪の故と考えることは結局、自分の正しい行いによって救われると信じる自己義認の信仰です。わたしたちは自分を神と対応させ、自分の義を主張することは出来ません。そうではなく、神の義に従うことが求められているのです。それは与えるのも取られるのも神であることを認めることに他なりません。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」とある通りです(ヨブ一章二一節)。主イエスご自身、天において全てのものを持っておられました。しかし、それらを捨ててこの世に来られました。そして神と人から捨てられ、嘲笑され、唾をかけられ、鞭打たれて十字架につけられました。その十字架の上で「父よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。ヨブもまた持っている全てのものを失い、その苦悩の中で生ける神を知り、「わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」と言いました(ヨブ四二章六節)。しかし、神はそのヨブに以前より多くのものを与えられました。主イエスもまた三日目に復活され、永遠の命に至る「御自身の王国」をもたらしました。
 東日本大震災は被災者に多くの苦難をもたらしました。しかし、この災害は、神によってわたしたちに新しい力といのちをもたらすのです。ヨブのようにその意味を神に問い続けることによって、主イエスは答えて下さるからです。そして教会も共に祈り闘う時、本当の意味でイスラエル(「神と奮闘する」の意。創世記三二章二九節参照)となるのではないでしょうか。