2014年4月20日日曜日

マルコ14章32〜42節「この杯を取りのけてください」

第168号

 十字架につけられる前晩、主イエスはエルサレムにある家の二階で弟子たちと過越を守られました。食事中、主は弟子たちの足を洗われました。その後、ゲッセマネの園に行かれました。そこからマタイとヤコブとヨハネを伴われ、さらに祈るため彼らからも離れ、一人になられました。
三年前、主イエスはヨルダン川で預言者ヨハネから洗礼を受けた後、荒野で四○日四〇夜サタンの誘惑を受けられました。最初の誘惑は石をパンに変えたらどうかと言うものでした。当時の世界には満足に食べることも出来ず、餓死する人が多かったのです。そのような人たちを顧みず伝道することに迷いがあったのでしょう。第二の誘惑は、主イエス御自身が神であることをはっきりと人々に示すことでした。最後の誘惑はこの世の栄華を自分のものにするということでした。主はこれらの誘惑を退けられました。公生涯に入られると、多くの人たちが主のもとに集まって来ました。しかし、フィリポ・カイザリアを訪ねた時を境に、主イエスは弟子たちに御自身がこの世に来た使命を語られるようになりました。それは苦難を受け十字架につけられ、三日目に復活するということでした。しかし、弟子たちは一人としてそのことを理解出来ませんでした。そして、ついに「その時」が来たのです。

「油の圧搾(機)」を意味する「ゲッセマネ」はオリーブ山のエルサレム側の麓にある園で、今でも樹齢数百年のオリーブの巨木が老い茂っています。主イエスの祈りは「アッバ」で始まりました。アラム語で「お父さん」の意味です。アラム語はアッシリアからイスラエルの地にかけて広く使われていた言語で、ヘブル語はその方言です。新約聖書は全てギリシャ語で書かれていますが、主イエスはアラム語を話されたのです。主は最初に「あなたは何でもおできになります」と言われ、次に「この杯をわたしから取りのけてください」と祈り、最後は「しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と締めくくっています。この祈りを一つの言葉として読むなら、どのようなことでも従うという天の父への従順を表しています。しかし、このように三つに分けて読むならば、主イエスは先ず「この杯をわたしから取りのけてください」と祈ったことになります。その祈りに天の父は答えられなかったのです。それ故、主は天の父の御心に従ったのです。
主イエスの時代より二千年前、信仰の父、アブラハムは神からイサクを焼き尽くす捧げものにしなさいと言われました。イサクは神の約束が百歳になって成就した一人子です。何故、成長した今、その子を捧げなければならないのでしょうか。このことはわたしたちに「受難」とは何かを教えます。「受難」は理性的に納得が出来るとか、肉体的、精神的に耐えられるというものではないということです。
主イエスは神の子であり、少しの罪も犯されませんでした。神が聖であり、義なるお方であるなら、無実な者を罪人として十字架につけることなど出来ないはずです。もし死が命の消滅であって、自らの存在が無に帰することであったとしたら、その空しさに耐えることは出来ません。まして、罪の裁きが伴うのであるなら、なお耐えられないものとなります。罪が自分のものだけであっても耐えられませんが、全人類の罪を御自身で負うのであれば、その裁きはどれほど大きなものであるかは想像を絶するものがあります。
主イエスは世の初めから天の父と共におられました。死は罪の裁きであって、父との断絶であるなら、その苦しみ、悲しみ、恐れはどれほどのものであったかはわたしたちには理解することは出来ません。同時に、その断絶は神とだけではなく弟子たちとの間のことでもありました。この地上で三年間、主イエスと弟子たちとは歩みを共にしました。しかし、彼らは主を理解することは出来ませんでした。主は誰からも理解されず、ただお一人で受難を受けられ、十字架に付けられたのです。

死はわたしたちにとってある意味で自然なことです。誰でも死ななければならないからです。ギリシャ哲学では人間は霊魂と肉体から成ると教えます。肉体は死んでも霊魂は生き続けるのです。もしそうであるなら、死はこの世との断絶ではなく連続となり、死の不安は取り去られます。死を恐れなかったギリシャの哲学者ソクラテスの最後は有名です。それに引き換え主イエスの死はあまりにも苦しく、悲しく、恐ろしいことでした。
その違いは、キリスト教は人間を霊魂と肉体の二つに分けて考えることはしないことにあります。死は人が犯した罪の結果この世に入って来たものであって、死は決して自然なものではありません。神は生ける者の神なのです。死からの解放こそ、主イエスがこの世に遣わされて来たその理由です。このお方が十字架でわたしたちの罪の身代わりとなられたのです。わたしたちの罪を主イエスが全て負われ、それによってわたしたちは生きる者とされたのです(一コリント六章二〇節)。死はもはやわたしたちを支配することはないのです(ヨハネ一六章三三節)。
天の父は十字架の前夜、ゲッセマネの園で「この杯を取りのけてください」と祈られた主を三日目に墓から復活させ、わたしたちの復活の初穂とされたのです。