2014年9月21日日曜日

ヨハネ12章24〜26節「一粒の麦」

 172号
 主イエスが十字架につけられたのは過越祭の前日でした。祭りの前に数人のギリシャ人が主イエスを訊ねて来たのですが、それを知った主イエスは、弟子たちに、「人の子(御自身)が栄光を受ける時が来た」と言われました。「栄光」とは神であることを現すことで、それは十字架の出来事でした。
 主イエスは神が人となってこの世に来られたお方でしたが、母マリアや弟子たちを含めて誰一人としてそのことは理解出来ませんでした。わたしたち人間は、自分の力で主イエスを神と認めることは出来ないのです。信じる為には神からの力が働かなければなりません。
 洗礼者ヨハネはわたしの後から来るお方はわたしより偉大である、「わたしは水で洗礼を授けに来た」が、そのお方は「聖霊によって洗礼を授ける」と言いました。ガリラヤのナザレから出て来た主イエスは、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けましたが、ヨハネは、主イエスの上に聖霊が降るのを見て、初めて「このお方は神の子である」と証ししたのです。

 旧約聖書では「神の義」が強調されています。「義」とは「正しい」ことです。神はイスラエルの民に十戒(律法)を与えられ、それによって神の民にふさわしく歩むように求められました、しかし、「義」は「裁き」でもあります。与えられた神の基準に沿って生きることが出来なかった民はアッシリアとバビロニアによって滅ぼされたのです。
 そのような民に神は救い主が与えられると約束されていました。そのお方こそ主イエスで、新約聖書はその約束が成就したことを教えます。主イエスは御自身の命(十字架)でわたしたちの罪の身代わりとなられました。わたしたちはその贖いを信じることによりもはや罪に定められることはないのです。そこに神の愛があります。
 主イエスは御自身の死は人々に大きな益をもたらすと言われました。その益とはわたしたちの罪の赦しだけでなく、「弁護者」を与えられることでもありました(ヨハネ一四章参照)。そこで、主イエスは「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われました(一六節)。「弁護者」とはギリシャ語で「パラクレィト」、ラテン語で「アドボケイト」です。「慰め主」、「助け主」、「忠告者」、「カウンセラー」で、「この方は、真理の霊」なのです(一七節)。墓から三日目に復活された主イエスは弟子たちに四〇日間、復活の御自身を示されましたが、エルサレムを離れないで約束の聖霊が与えられるのを待ちなさいと言われました。その約束は主イエスが天に上げられた一〇日後のペンテコステで成就したのです。聖霊が与えられるということはわたしたちのうちに神が人格として留まることで、神と一体となることです。それによって新しい創造物とされるのです。
 八月一一日から一八日までインドネシアの西カリマンタンに行って来ました。一七日の日曜礼拝はプニティ・アタナシウス教会で守りましたが、この教会は一人の日本人宣教師の死によって生まれたのです。その方は、安東栄子師で、彼女は長い祈りと準備の末、この地に遣わされました。しかし、二年後、教えていた神学校の卒業式の翌日、自動車事故で亡くなりました。その彼女の意志をついだ神学校の卒業生たちの働きによって教会が生まれました。しかし、その教会は地元の人たちの焼き討ちに遭いました。イスラムの人たちが多く住む極めて伝道の困難な地域で、その人たちにとって教会は自分たちの信仰に敵対するものでしかなかったのです。その反省に立って新しい教会が建てられました。主イエスは「神の言」であって、神御自身であることは強調しません。イサクに信仰が継承されたことを強調するのではなく、兄であるイシマエルと同じアブラハムの子であることを強調するのです。一緒に生活し、彼らと労苦を分かち合い信頼関係を築くのです。そうすることによって初めて彼らは福音に耳を傾け、教会を受け入れることが出来るようになるのです。

 旧約の神は「敵に報復し、仇に向って怒りを抱かれる」お方でした(ナホム書一章二節)。しかし、神はその怒りをわたしたちにではなく、その罪の全てを御子である主イエスに負わせたのです。主イエスは十字架の上で、父よ、彼らは間違っています、彼らを裁いて下さい、とは言われませんでした。自分を十字架につけた人たちに向って「父よ、彼らをお赦し下さい」と言われたのです。御自身の死で彼らの身代わりとなられたのです。
 ギリシャ人が主イエスのところに来たのは、異邦人の救いの時が来たことを教える為でした。ユダヤ人たちは彼ら異邦人が救われるまで、尚しばらく律法の世界に留まらなければなりません。しかし、異邦人たちはもはや正しい行いではなく主イエスの救いを信じ信仰によって救われるのです。

 罪とは正しい行いで神の前に自分を義としようとすることです。わたしたちは聖霊を受けて初めてそのような罪を悔い改め、救われるのです。わたしの為に死んで下さったお方が一緒におられるのを知るようになるからです。誰も自分と神の二人の主人に兼ね仕えることは出来ません。自分に死に、神の為に生きようとすることは「一粒の麦」となることです。