2002年1月20日日曜日

使徒24章1-27節「死者の復活のこと」

第22号

〈新年礼拝〉

新しい世界


エレアーデという人の書いた永遠回帰の神話」という本を読みますと、古代社会では、宇宙は永遠で物質や生命はその中で現れ消えていく、すなわち万物は成長と衰退を繰り返し、それはあたかも月が新月から満月に満ち欠けを繰り返すのと同じであると書かれています。そして一年をそれに当てはめると、正月は新しい世界の始まりとなります。日本ではごく最近まで、新しい年に古い年の借金の取りたてはありませんでした。落語では長屋の大家さんは何としても除夜の鐘がなる前に、たまっている家賃を取り立てなければなりませんでした。反対に店子の八つぁん、熊さんにとっては大晦日さえ過ぎれば借金は帳消しになったのです。新しい世界に古い世界の出来事を持ち込むなら、全てが台無しになってしまいます。そういえば、子供の頃、元旦の朝起きると、太陽も空気も家も全てが新しくなっているように感じたものでした。このような考え方は、今日でも陰暦を使う世界で共通して見られるようです。また、宇宙は永遠から永遠に続くと考えている世界では、この無限の宇宙と一体になるとき心の安らぎを覚えると言われています。子供のころ野原に寝そべって夜空の星を見ながら宇宙に漂った、何ともいえない懐かしい記憶が思い出されます。

神の支配
 聖書の宇宙観、世界観はそれとは違います。宇宙とその中にある全てのものは神によって創造されたと教えるからです。初めがあり終わりがあって歴史が生まれます。もし宇宙が永遠に続くなら全ての出来事は繰り返しに過ぎなくなります。神によって創られたものには創られた目的、すなわち神の意志があります。神の意志があるところには神の力が働いているはずです。そして実際にこの世で働いている神の力を二つの面に見ることが出来ます。一つはニュートンやアインシュタインの相対性理論に代表される、いわゆる数学的、物理的法則でそれら自然の法則によって神は宇宙を現在の状態に保っておられます。宇宙をその状態に保つ物質間の力は神の力によるもので、その力がなくなれば宇宙は一瞬にして崩壊してしまいます。もう一つは、聖書が証するもので、人間は神と結びつくことによって初めて生きるものとされるということです。人は神の力によって本当の意味で生かされるのです。
 神は最初の人間、アダムとエバを創られエデンの園に置かれ、園の中央にある木の実を食べてはならないという戒めを与えられました。その戒めによって神との間に結びつきが生まれたのです。また神はモーセを通してイスラエルの民に十戒を与えられ、その戒めを守ることによって生きるようにされました。さらに神は御自身の独り子、主イエスをこの世に送られ、その言葉を信じ、守る事によって全ての人を生きるようにされました。

死者の復活
 今日の聖書の箇所でパウロは、ユダヤ人議会でファリサイ派やサドカイ派の議員たちに対し、パウロらキリスト者は彼らと同じ先祖の神を礼拝していると言いました。そしてファリサイ派の人々と同じように旧約聖書全体をことごとく信じ、復活の希望を持っていると言いました。サドカイ派の人たちはモーセの五書しか信じず、復活を信じていなかったため、ユダヤ教の正統派とは言えませんでした。ユダヤ人たちは主イエスを信じる人たちを「ナザレ人の分派」と呼び、ユダヤ教の正統派とは認めていませんでした。「ナザレから何のよいものが出ようか」と言ったのです。しかし、パウロはキリスト者こそアブラハムの信仰を受継ぐユダヤ教の正統派であると言いました。主イエスこそ旧約聖書で予言するメシアだからです。
 神がエデンの園を創られたとき、そこには死はありませんでした。死がこの世に入り込んだのはアダムとエバが神の言葉、すなわち戒めに従わなかったためです。その罪の結果はアダムとエバの子孫である人類全体に及んだのです。しかし神である主イエスは、天の父の御言葉に従い少しの罪のない生涯を送られました。そして人でもあった主イエスは私たちと同じ罪の誘惑に会われました。その主イエスが私たちの罪の贖いのために十字架につかれたのです。しかし、罪の結果である死は主イエスを墓に閉じ込めて置くことは出来ませんでした。三日目に甦られれ、私たち信じるものの初穂となられたのです。
 パウロは、正しい者も正しくない者もやがて復活すると言います。復活し主イエスの前に立つのです。そして、主イエスを信じなかった者は裁かれるのです。その裁きとは主イエスの戒め、すなわちその言葉を信じてこの世を生きたかどうかが問われるということに尽きます。しかし、主イエスを信じている者には御国が約束どおり用意されるのです。これこそ本当の新しい世界なのです。

2001年12月16日日曜日

ルカ1章5-38節「神にできないことは何一つない」

第21号

〈2001年クリスマス〉 

創世記十八章一節~十五節

アブラハムとサラへの約束
 主はアブラハムに現れ「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」(創世記十二章二節)と言われました。しかしあなたに子を与える、あなたの子孫は星のようになる、という約束はいつまで待っても実現しませんでした。年老いたアブラハムを見て、妻サラが考えたのはつかえめであるエジプトの女、ハガルによって子をもうけるということでした。ハガルは身ごもり、その子はイシマエルと名づけられました。その時、アブラハムは八十六歳でした。
 主の使いは再びアブラハムに現れ「わたしは彼女(サラ)を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸国民の王となる者たちが彼女から生まれる」と言われました。アブラハムは笑ってひそかに言いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(一七章十五~十七節)
 主の使いは再び現れました。神の言葉を聴いて顔を伏せひそかに笑うアブラハムとサラ。神の約束の言葉はむなしいと知ってハガルによって子供を得ていた彼ら。そのアブラハムとサラになお「主に不可能なことはあろうか」と語りかけられる神の姿があります。そしてこの神の言葉を聴いて恐れ、「私は笑いません」となお自分の信仰を取り繕おうとするサラの姿があります。ユダヤ人の先祖となったアブラハムとサラの生き方は私たちに神への信仰とは何かを教えます。
 アブラハムとサラの夫婦はついに主が約束されたように自分たちの子、イサクを得たのです。その時アブラハムは百歳でした。そして九十歳のサラは我が子を自分の胸に抱いたのです。サラは「神はわたしに笑いをお与えになった。聞くものは皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(二十一章六節)と言いました。その喜びはどれほどのものだったでしょうか。

ヨセフとマリアへの約束
 アブラハムからおおよそ二千年後、主の使いがガリラヤのナザレという町に住むおとめマリアに遣わされました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。」マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えます。それに対し天使は「神にできないことは何一つない」と言われました。その言葉は主の使いが年老いたアブラハムとサラに言われたことでもありました。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言って受け入れたのです。
 しかし、マリアの苦難はそのときから始まりました。不義を働いたと思ったヨセフは、マリアと離縁しようとしました。女一人で乳飲み子を抱えて生きていくのは困難な時代でした。しかし、天使はヨセフにマリアが聖霊によって身ごもったという事実を告げたのです。ヨセフとマリアの家庭は、子供たちに囲まれた愛のある和やかなものであったと思われますが、長くは続きませんでした。ヨセフが比較的若くして亡くなり、長男のイエスが父ヨセフの仕事を継ぎ、大工として家族を支えていました。しかし、そのイエスも三十歳頃には公の伝道生活に入り、三年後、十字架の死を遂げることになったからです。マリアはイエスの死を十字架の下で見ていました。どれほど大きな痛みであったでしょうか。しかし、その涙はぬぐわれることになります。
 マリアは三日後、復活の主イエスに出会います。それは生前、主イエスが約束されていたことでした。マリアは主イエスが神であって、神の言葉は確かなことを知ったのです。

私たちへの約束
 ヘブライ人への手紙に、神は私たちにもっとよい都を天に準備されているとあります。そしてアブラハムとサラはこの天の故郷を熱望していたと言います(十一章)。同じようにマリアも主イエスに、そして苦労を共にした愛する夫、ヨセフに御国で再び会うことが出来るのを知ったのです。
 同じことは私たちにも言えます。私たちは、死は永遠の別れであって、愛するものと二度と再び会えないと思っています。しかし、今も生きておられる主イエスと人格的な交わりを持つことによって、永遠の命の約束が確かなものであるのを知るのです。それは「神にできないことは何一つない」という神の絶対的主権を教えるものです。そしてそれは、永遠の命が確かなのを教えるために、神が人となってこの世に来られたクリスマスの出来事でもあるのです。

2001年10月21日日曜日

使徒15章1-35節「重荷を負わせない」

第19号

創世記17章1節~14節

  9月11日に起ったアメリカ同時多発テロの衝撃は、多くの人にこれからの世界が今までと違ったものになっていくのではないかという不安を抱かせました。その後に続いたアフガニスタンへの報復攻撃により、それが現実になっていくのを実感させられます。今回の多発テロは理由がどのようなものであれ、決して許せるものではありません。しかし、その背後には南北問題(貧富の格差)やアメリカの一極支配(政治、経済、軍事、文化、価値観など)や、アメリカがこの地域や中東でして来た事、特にイスラム諸国からイスラエルの後ろ盾となっていると批判を受けているパレスチナ問題などがあります。
  私たちキリスト者もこの世界の現実に目を背けて生きる事は出来ません。世界で起っている事をどのように考え、受け止めて生きるかは私たちの信仰の問題でもあります。そして、今日の箇所はこのような世界をどのように捉えたらよいのか、その示唆をも与えます。

 15章のはじめには、アンティオキア教会からパウロやバルナバをはじめ数名の者がエルサレム教会に集まって来た事が書かれています。ファリサイ派からキリスト者になった人たちが「異邦人も割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救われない」と主張したからです。彼らは主イエスの救いを否定したのではありません。ただ、それだけでなく割礼と律法も救われるために必要であると言ったのです。(以後、救いには行いも必要とする考えを「行為義認」と呼ぶ)これに対してパウロたちは、神である主イエスが血を流して私たちの罪を贖ってくださったので、それを信じる信仰だけで充分であると主張したのです。(以後、「信仰義認」と呼ぶ)
  私たちは誰でも自分には価値があり、それを人に認めてもらいたいという思いがあります。同じように信仰者にも、神が求めているよい行い(律法)をする事によって神に認めてもらいたいという強い思い、即ち行為義認の考えがあります。しかし、人は律法に熱心になればなるほど、それに反して行動する人たちを裁くようになり、遂にはそのような人たちを殺す事すら正当化するようになります。事実、律法の遵守者であるファリサイ派の人々は、主イエスが安息日を守っていない、また、そのような者が自らを神と称していることなどを理由にして十字架につけました。パウロもまたファリサイ人であった時、キリスト者を迫害し、ステファノの殺害に賛成しました。
  アメリカと戦う人たちは、自分たちは正しいと信じ、その為には罪のない人が巻き添えになっても仕方がないと考えるのでしょう。この考えはアメリカの報復戦争にも見られます。テロの撲滅こそ今回犠牲となった人たちに報い、そして二度と悲惨な犠牲者を出させない道であるとその正当性を主張します。しかし、それにより新たな難民が生まれ、罪のない多くの市民も死ぬ事になるでしょう。その結果、民衆の怒りは広がり、新たなテロが起るのではないかと案じられます。遂にはアメリカ(及び同盟国)とイスラム国家との終わりのない戦いに発展する危険すらあります。正しいと思ってした行為の中にも自分たちの支配や権威を正当化させようとする思い、即ち罪が入っている事があります。いずれにせよテロ行為の大義名分としている様々な問題をそのままにして、武力による解決は難しいと思われます。
  困難ではあってもテロ犯罪者だけが捉えられ、合法的な裁判にかけられる道を選ばなければならなかったのではないでしょうか。そしてテロを生む土壌が解決されなければなりません。豊かな国に住む人たちは、自分たちの利益の追求だけでなくその富や技術を他の国の人たちに分かち合う必要があります。一部の先進国だけが豊かな生活をして、他の国は貧しいままでいいはずはありません。私たち人類は、人種や民族、住んでいる国家が違っても同じ兄弟姉妹だからです(創二章二節)。

 エルサレム使徒会議では行為義認ではなく、パウロたちの主張する信仰義認が公式に認められました。これによってキリスト教はユダヤ教から分かれました。救いは神の恵みによるのです。主イエスは私たちに代わって律法を全うされて死なれ、甦られ、天に昇り、約束の聖霊を父なる神から受け、私たちに注がれました。この聖霊こそダビデの壊れた幕屋を立て直すものです。私たちの内に住まわれる事によってエルサレム神殿ではない新しい神殿、即ち教会が形成されたからです。
  教会は罪人であったにも関らず主イエスの十字架による一方的な愛によって救われた者の群です。その私たちには、不正に対してテロや武力で報復する権利はないと思います。そして、罪人であった私たちに示された神の愛を人と社会に実践する以外、主イエスから何の重荷も負わせられていないと信じます。

2001年9月16日日曜日

コリント一15章12-28節「初穂なるキリスト」

第18号

 〈逝去者記念礼拝〉

詩編90編1節-17節    

 8月28日(火)、一人の姉妹が天に召されました。また、昨年の10月と12月にも葬儀がありました。
 詩編九十編には全ての人は死ぬと書かれています。古今東西、永遠に生き続ける人はいません。しかし、私たちは普段、死についてはあまり考えません。特に若い時は、自分の人生は永遠に続くように思っています。大病するとか、事故にでも会わない限り、死は自分とは関係がないのです。しかし、年を取るに従って人は死を考えざるを得なくなります。


 若い時、私たちには力があり、将来への希望がありました。この間、NHKテレビで青春歌謡特集をしていました。番組は明日、将来、希望、力、頑張ろうといった言葉で溢れていました。
 若い時、一人暮らしをした事があります。大変でしたが楽しい経験でもありました。そして、その後の三年半のアメリカ生活は本当に素晴らしいものでした。しかし、四十代の後半になって仕事の都合で宇都宮に単身赴任した時は、大変で辛いだけでした。日曜日、NHKの大河ドラマが終ると、さあ、これから戻らなくてはと胃が痛くなったものです。ある冬の夜、仕事からアパートに帰って暗い部屋に灯りをつけようとして急に父親を思い出しました。父も同じような苦労をしていたのかと身近に感じたのです。亡くなった父も仙台に単身赴任したことがあったからです。
 父に続き、二歳違いの弟が亡くなり、母や妹たちは秋田に行き、そして一人息子もまた巣立って、今、牧師館に夫婦二人だけの生活です。先ほどの詩編に、瞬く間に時は過ぎ、人生は飛び去り、ため息のように消えうせるとあります。五十代の半ばを過ぎて、私もまたこの言葉の持つ意味が少しずつ理解出来るようになって来ました。
 人生がこの世だけのものであるなら、私たちの人生にはどのような意味があるのでしょうか。パウロは「もし、使者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」と言います(三十二節)。しかし、旧約の人たちは救い主を待ち望む信仰によって救われていたのです。「主よ、帰って来て下さい。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕(しもべ)らを力づけてください」とあります。彼らはシメオンやアンナと同じように、主イエスを御国で直ちに認め、その足もとに駆け寄ってひざまずき、救い主を讃美するのです(ルカ、二章参照)。
 旧約聖書が救い主を待ち望む信仰を人々に与えるなら、新約聖書はこの救い主が私たちに与えられた事を教えます。コリント一、十五章十二節~二十八節には何と十六回もキリスト(油注がれた者、救い主の意、ヘブル語はメシア)という言葉が繰返されています。キリストは復活されたのです。そしてこのキリストの復活こそ、キリスト教の最も大切な事実であって、このことなくしてキリスト教は生まれませんでした。

 弟は四十七歳で亡くなる三年前に直腸ガンと診断され、肺から脳、そして骨に転移しました。そのような中で、「兄さん、この苦しみも永遠の命に比べれば無に等しい」と言ったのが思い出されます。まだ小学生の二人の娘を残して死ななければならなかったのはどれほど無念な事だったでしょう。弟は八月に天に召されました。私はそれまでの祈りと御言葉に従い、道が開かれるままに十月に仕事を辞め、翌年の四月神学校に入りました。
 キリスト者はこの世だけの事を大切にし、神と人を愛するだけのいわゆる良い人ではありません。弟がそのような人であるなら、残される子供の事を考え、神は何故、今、私の命を取られるのか、私が何をしたのか、と神を恨んだ事でしょう。しかし、弟は後に残していく娘たちと再び会えるのを信じていたのです。そして苦しみのなかにあっても聖霊が必要な助けを与えて下さっていたのがよく分かります。その顔は安らかで、確かに神はおられるのを確信させられました。私も高校生の息子の将来の事だけを考えるなら、せめて大学を出るまでと職場の机にしがみついていたでしょう。その息子も無事に大学を卒業することができました。弟の連れ合いはその後、牧師と再婚し、娘たちは今、大学生と高校生です。私たちが神を第一にして生きるなら神は私たちに良い生涯を備えて下さいます。それは決して安易で快適な生活を約束するものではありません。しかし、神の国があるのを知るようになるのです。主イエスが支配される国です。
 この主イエスが最後の敵として滅ぼされるのが死です。私たちは愛する者と再び会う事が出来ます。そして、その確かな初穂として、主イエスは甦られたのです。

2001年7月15日日曜日

使徒11章1~18節「あなたと家族を救う言葉」

第16号

  創世記16章9節~14節    

 カイサリアではペトロの働きによってローマ人の百人隊長コルネリウスと彼の親類、そして親しい友人たちが神の言葉を受け入れました(十章)。しかし、そのことを耳にしたエルサレム教会の信徒たちは、ペトロがカイサリアから戻って来ると、非難し始めました。彼らが問題にしていたのは、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」ということでした。

 神はユダヤ人の祖先であるアブラハムとその子孫に土地を与える約束をしましたが、身体を傷つける割礼はその契約のしるしでした(創世記十七章九節~十四節)。その割礼によりユダヤ人たちは神の契約は自分たちだけに与えられていると信じたのです。また、食事規定は神がモーセをとおしてイスラエルの民に与えられたもので、生き物を清い物と汚れた物に分け、清い物だけを食べなければならないとするものです(レビ記十一章)。清い物を食べている自分たちユダヤ人だけが聖別され、聖なる神に受け入れられると考えたのです。
 ユダヤ人の割礼と食物規定は、厳格に守れば守るほど、それらを守っていない他の人たちを自分たちとは違う異邦人とみなし、彼らとの交わりや結婚を困難にしてしまいます。事実、それがユダヤ人の歴史でした。そしてこの事が、ユダヤ人が小さな民族ではあってもアブラハムの時代から今日まで存続した理由でした。
 割礼を受けていない者と一緒に食事をしたペトロを認めるなら、自分たちもまた異邦人を受け入れなければならなくなります。そうなるとユダヤ人と異邦人の区別はなくなり、神に選ばれた民としての、自らの存在の根拠を失ってしまうのです。

 このような非難に対してペトロはどのように弁明したのでしょうか。彼は事の次第を順序正しく説明したのです。
 まず、ヤッファの革なめし職人シモンの家にいた時、昼、祈るため屋上に上がりました。するとそこで幻を見ました。天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされて、地上に下りて来たのです。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がしたのです。その事が三度あり、その入れ物は天に引きあげられました。その幻の意味について考えている時、カイサリアのコルネリウスのところから三人の使いが到着しました。これらの事が神から出たことを確信し、彼らを家に入れ、翌日、カイサリアに六人の信徒たちと出発したのです。カイサリアに着くとコルネリウスから天使が彼に告げた御告げを知らされました。それは、「ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる」と言うものでした。それを聞いて、集まっている人たちに主イエスについて話し始めると、直ちに彼らの上に聖霊が降ったのです。
 割礼を受けていない者たちに聖霊が降ったこの出来事は、ペトロに生前、主イエスが言われた「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける」を思い出させました。
 ペトロを非難していたエルサレム教会の信徒たちは彼の説明に納得し、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えて下さったのだ」と言って神を讃美したのです。

 コルネリウスが遣わした三人の到着が一時間早かったらどうでしょう。ペトロの泊まっていた家の主人シモンは、異邦人である彼らの訪問を丁重に、しかしはっきりと断ったことでしょう。到着が一時間遅れてもやはり同じ事になったでしょう。ペトロに「ためらわないで一緒に行きなさい」と言われた主イエスが、このすべての出来事を支配しておられたのです。そして、その神は聖霊を与えられるのにユダヤ人と異邦人の区別をされなかったのです。エルサレムの教会の人たちは、ペトロと六人の同行者の証によって異邦人が主イエスを受け入れ救われたのを知ったのです。

 私たちは正しい人、清い人、立派な人でないと救われないと考えます。しかし、神は人を分け隔てせず、どのような人も受け入れられるのです。私たちに必要なのは罪を告白し、主イエスに従う決心をすることです。そうするなら聖霊が与えられます。これが救いで、主イエスの福音です。それが「あなたと家族を救う言葉」なのです。
 聖霊を与えられ救われた者は、割礼は心の割礼、すなわち聖霊を受けることであることを知ります。聖霊を受けて初めてどのような人であっても神の家族の一員になり、そして、今度は主イエスと共に食卓にあずかることを赦されているのを知るのです。

2001年6月17日日曜日

ヨハネ3章1-15節「わたしはあなたと一緒に住む」

月報 第15号

ペンテコステ礼拝

 ヨハネによる福音書14章14~31節

 ペンテコステの出来事は主イエスが以前から弟子たちに約束されていたことでした。しかし、弟子たちは聖霊を受けて初めてそれが何であるかを知ったのです。それは今日の私たちにとっても同じです。多くの人は聖霊の存在を知りませんし、それがどれほど素晴らしいのか分かりません。そのため受けようとも、受けたいとも思わないのです。

 一般的に人は身体と魂から成っていると考えられていますが、聖書ではそれに加えて霊があるとされています(参考・第一テサロニケ五章二十三節。また聖書ではそれらを分けることが出来るとするより「からだ」として一つであると考えます)。
 若い時は、あの人は美しい、ハンサムだ、背が高い、声がいいと身体的なことにこだわりますが年を取るにつれ大切なのは内面であることに気づかされます。そして心の大きさや美しさ、温かさに引かれるようになります。私たちの心は、何気ない言葉や態度によって愛や喜びに満たされたり、傷ついたり痛んだりするからです。
 聖書は私たちの魂の根底に霊の宿るべき場があると教えます。しかし、生まれつきの人には霊がそこに宿っていない、いや正確に言うなら、かつてはありましたが、失われてしまっているのです。そのため人の心には空白感があります。その心は拠り所を失い、自分自身が何であるか、またどこから来てどこに行くのか、何のためにここにいて、何をしたらよいのか分かりません。そしてその空白感を埋めようと、人は永遠や真実の愛、そして神との交わりを求めるのです。ニコデモはユダヤ人の宗教的指導者でしたが霊については無知でした。このニコデモに主イエスは、人は本当の意味で生きるようになるために霊を受け、新しく生まれなければならないと言われました。
 主イエスは、この霊は「弁護者」であり、また「真理の霊」であると言われます。主イエスは私たちに代わってこの世で潔い生涯を送り、私たちの罪を十字架で贖って下さいました。そして私たちが死んで神の裁きの前に立つとき、御自身を信じる私たちの無罪を弁護して下さるのです。従って主イエスがこの弁護者に他なりません。又、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。主イエスが真理なのです。主イエスは死んで天に昇られ、神の右に座られ、そして父より約束の霊を受けて弟子たちに注がれました。このようにして主イエスは「命を与える霊」(第一コリント書、十五章四十五節)となり、「私はあなたと一緒に住む」ことがおできになるのです。この主イエスが私たちの内に住まわれるとき、私たちの心に真理を証し、また生前、主イエスが語られた真理の弁護者となられるのです。その時、私たちは新しく生まれ変わり、堅固な岩に錨を下ろすことが出来るのです。そしてこの主イエスは私たちの平和、平安、喜びの源となるのです。
 以前、ジョニー・エリックソン・タダという人の書いた本を読んだことがあります。彼女は十七歳の夏、ダイビング事故で首の骨を折り、首から下が麻痺してしまいました。息をし、食べて寝るだけの生活から生きる意味を見出すのは困難です。このような体で人生を送ることの空しさ、そして与えられた過酷な運命に対する怒りと絶望から救われたのは主イエスによってでした。主イエスが心の中に生きていおられるのを知ってから、彼女はアメリカ国内だけでなく日本やヨーロッパ、アフリカと世界を回って、自分はどのように救われたのか、主イエスがどのようなお方であるかを証し始めました。

 最近、悲惨な出来事が相次いで起っております。特に大阪で八人の小学生が殺された事件は私たちの心をどうしようもないほどに陰うつにさせます。また、電車の中で目と目が会っただけで、足と足が触れただけで相手を殴り、時に殺してしまうのは一体どうしてなのでしょうか。それは自分で何をしているのか分からないからです。人は神である主イエスを受入れることによって初めて本当の自分を取り戻すことが出来るのです。
 多くの人はこのような霊の存在を教えられてもなお、自分は変えられたくないと思うのではないでしょうか。それは変わるのを恐れるからです。自分の人生は自分で思いのままにしたい、たとえ神であっても知らない主イエスに自分の生涯を委ねたくないと思うからです。あるいは、自分は変わりたくてもどうせ変われないと諦めているのです。
しかし、主イエスを信じ、受け入れる決心をした人の心は生きる意味を見出し、喜びで満たされるようになります。その人は主イエスと共に人生を歩むのです。神である主イエスは「わたしはあなたと一緒に住む」と約束されているからです。

2001年5月20日日曜日

ヨハネ20章19-29節「見ないで信じる者」

月報 第14号

イースター礼拝

詩篇 第16篇10~11節

  教会ではクリスマス、イースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨日)などをお祝いしますが、これらはいずれもクリスチャンになる前の常識や理性では信じられない出来事です。母マリアは聖霊によって身ごもりましたし、十字架上で亡くなられた主イエスは甦られ、天に昇られました。弟子たちはどのようにしてこれらの出来事を事実として受入れることが出来たのでしょうか。復活の出来事を通して、本日の聖書から見て行きたいと思います。

 主イエスの死と同時に弟子たちの夢も砕かれてしまいました。弟子たちは、当時のメシア観に基づいて主イエスがこの地上に神の国を建設されると信じていました。自分たちもまた、イエスを助け神の国を共に支配することを夢見ていたのです。しかし弟子たちにとって不思議だったのは、主イエスは神の子としての力を示すことなく、羊のように屠り場に引かれて行ったということでした。そしてローマ総督ピラトの裁きの前でも、毛を刈る者の前で黙している小羊のように口を開きませんでした。しかしながら、主イエスは決してこの世の権力者に対して無力であったようには見えなかったのです。
 主イエスが墓に葬られて三日目のことです。弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、部屋に閉じこもり戸を閉めていました。そこに復活された主イエスが現れました。弟子たちの驚きはどれほどだったでしょうか。彼らは主イエスが捕らえられたとき逃げてしまいました。そして、自分たちの身が危うくなったとき「わたしはあの人を知らない」と主イエスとの関わりを強く否定したのです。しかし、甦られた主はこのような弟子たちを叱責することなく「あなたがたに平和があるように」と言われ、御自身の手とわき腹をお見せになりました。その傷は紛れもなく主イエスのものでした。
 十二弟子の一人であるディドモと呼ばれるトマスは、その場にいませんでした。彼は主イエスの復活を口にする仲間の言葉を信じませんでした。見なければ信じない、いや見ても信じない。手で触り、傷痕に自分の指を差し入れてみなければ信じないと言い張ったのです。八日後、再び主イエスは弟子たちのいる部屋に入って来られました。この時、トマスは主イエスを前に「わたしの主、わたしの神よ」と言うのみでした。

 弟子たちは鍵をかけて部屋に閉じこもっていたとき、心の戸も同じようにしっかりと閉めていました。主イエスの死と共に彼らは将来の希望を失い、生きる意味を見失っていました。そして自分たちが主イエスを裏切ってしまったことを悔い、なおユダヤ人を恐れていたのです。そのような弟子たちの心を主イエスは開かれ「あなたがたに平和があるように」、すなわち「恐れるな」と言われたのです。弟子たちにとって主イエスの傷痕を見るのは、自分たちの罪を見ることでもありました。弟子たちはどれほど主イエスを慕っていたことでしょう。にもかかわらず自分たちが生きるために主イエスを見捨てたのです。しかし、主イエスはそのような弟子たちを赦されたのです。弟子たちにとっては主イエスだけが、彼らに人生の本当の意味と喜びを与えることの出来るお方でした。

 罪とは神を信じないで、自分中心に生きるということに他なりません。神の子である主イエスを殺し、自分が生きようとすることです。それは決してユダヤ人指導者だけではなく主イエスの弟子たちにもありました。そして私たちも同じなのです。それが十字架の出来事でした。しかし主イエスは私たちの罪をその傷で贖われました。私たちが受けなければならない罪の罰を神の子である主イエスが代わって受けられたのです。従って、十字架を見ることは自らの罪と、主イエスの赦しを同時に見ることです。そして私たちが主イエスと一緒にこの人生を歩むなら、主イエスの十字架の傷痕に触れ、そしてその傷に指を差し入れることになります。主イエスの苦しみを自分も共有するからです。
甦られた主イエスは御自身を弟子たちにはっきりと示され、疑う余地のないようにされました。しかし、主イエスが天に昇られ父の右の座に座られた今、私たちの霊の目でしか主イエスを、そしてその傷痕を見ることが出来ません。ですから主イエスは「聖霊を受けなさい」と言われるのです。聖霊なくして今も生きておられる主イエスに「わが主よ、わが神よ」と言うことは出来ません。主イエスがトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたことが聖霊を与えられることによって現実になるのです。そして、主イエスの復活を信じて始めて、私たちは自らの復活の希望を持つことが出来るのです。