2002年6月16日日曜日

ロマ書5章12-21節「恵の賜物」

第27号

 私たちは罪についてどのように考えたらよいのでしょうか。ある人たちは、罪は人間の不完全さの表れであって教育や環境などの改善により解決できると言います。しかし私たちを取り囲む社会情勢を見る時、このような考え方はあまりにも楽観的で短絡的であるように思えます。また、ある人たちは、罪は生存競争に打ち勝つための自己防衛的なもので、他人を傷つけてまでも生きようとする極めて本能的なものだと言います。そのため科学がいかに進歩しても人間の力では解決不可能であると悲観的に考えるのです。
 死についてはどうでしょうか。ある人たちは、死は生に意味を与えるものとして積極的に受け入れて生きることが出来ると言います。他方、ある人たちは「太陽と死とはじっとして見てはいられない」(ラ・ロシュフコー)と、死から目をそむけて生きようとするのです。
 カール・バルトという神学者は、死を「この世界の最高の法則」と呼んでいます。この世でどれほど名誉、財産、地位を得ても、また自分の欲望をどれほど満足させたとしても結局は死で終わりとなるからです。そして、もし救いなるものがあるならそれは死からの救いでなければならない、もし神がおられるならこの死に打ち勝つ神でなければならない、と言います。

聖書には、罪と死は一人の人、アダムの行為によってこの世に入り込んだと書かれています。神は最初の人、アダムを創られ、エデンの園に置かれ、一つの戒めを与えられました。その戒めは園の中央に生えている「善悪の知識の木から食べてはならない、食べると必ず死んでしまう」と言うものでした。しかし、アダムはサタンにそそのかされて食べてしまいました。その行為、つまり神の言葉に逆らうことが罪で、自らの知識に頼って神なしに生きようとすることです。それは神への反逆です。そのことが死をまねくのです。このアダムの行為によってサタンがこの世に入り込み、その子孫の全てに罪と死をもたらしました。
 しかし、神は罪を犯して死ぬものとなったアダムとその子孫に、女(エバ)の子孫から救い主が生まれることを約束されました。そしてこの約束は、ご自身の独り子、主イエスを救い主としてこの世にお遣わしになることにより成就したのです。
 アダムは神の戒めをよく知っていたにもかかわらず、サタンの誘惑にあったときそれを守ることが出来ませんでした。それに対し、主イエスは天の父の御心に忠実で、御言葉から少しも離れることはありませんでした。そのことは主イエスのご生涯に一貫して見られますが、特に伝道の公生涯に入られるときと、十字架につけられるときに現れています。主イエスはサタンによって荒野に導かれ誘惑を受けられましたが、その誘惑はいずれも神の御言葉を疑わせ、主イエスご自身の思いを実行するようにそそのかすものでした。また、主イエスはゲッセマネの園でご自身の思いではなく天の父の御心がなされるように祈られました。十字架を前にして主イエスはどれほど苦しまれたことでしょう。にもかかわらず、人類の罪を背負って死ぬことが神の御心であることを思い、死に至るまで天の父に忠実でした。
 しかし、主イエスは罪に死なれたままではありませんでした。三日目に墓より甦られたからです。この主イエスの罪のないご生涯と復活が私たちに命を与えることになりました。ご自身の尊い命という代価を払って私たちの罪を贖ってくださったのです。そして、主イエスの十字架により罪を赦された私たちもまた、復活に預かることが出来るのです。

 一人の人、アダムによってこの世界に入って来たものが罪と死であるならば、神の独り子、主イエスによってこの世に入って来たもの、それは罪からの赦しと永遠の命に他なりません。
 アダムによって全ての人に有罪の判決が下されていたのが、主イエスの正しい行為によって義とされ永遠の命を得るようになったのです。
 恵みの賜物とは主イエスご自身であって、その主イエスが私たちに与えられていること、そしてそのことを知らされていることに他なりません。私たちは、バルトの言う「この世界の最高の法則」である死を、自分の力で積極的に受け入れたり、目をそむけて生きていくことは出来ません。主イエスによって与えられた恵みの賜物のみが私たちを罪と死から救うのです。
 恵みの賜物とはそれを受けるに値しない者に与えられた神の行為です。その導きを実感するとき、それまでの人生を感謝し、それからの生涯もまた主イエスによって守られることを確信することができるのです。それは死で終わるのではなく、復活に預かるまで続くものです。そして復活で始まる永遠の命は今、既に地上で恵みの賜物として与えられているのです。

2002年5月19日日曜日

ロマ書4章13-25節「世界を受け継がせる約束」

第26号

 

   創世記22章1-19

 私たちは命を失うなら地上の全てのものを得ても何もなりません(マタイ一六章二六節)。それでは救いを得るためにはどうしたら良いのか、何をしたら良いのか、と私たちは問います。それに対しパウロはユダヤ人の先祖であるアブラハムの例を持ち出し、「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた」と言います。世界を受け継ぐ救いは神の働きであって、そのことを信じることだけが私たちに求められていると言うのです。

 アブラハムはヘブル人でした(創一四章一三節)。ヘブルとは、通常「渡ってきた者」と理解されています。ユーフラテス川、紅海、あるいはヨルダン川を渡って来た者という意味だったのでしょう。別の説ではヘブルの語源はイブリで、ロバ男、ロバ使い、行商人、隊商者であった、そこから汚い、誇りっぽいという意味もあったとあります。そしてアブラハムは「滅びゆく一アラム人」でもありました(申二六章五節)。従ってアブラハムは決して立場の強い有力者ではなく、雑多な無国籍者の一人に過ぎなかったのです。そのようなアブラハムに神の言葉が臨んだのです。そして、その神の言葉に従ってアブラハムはハランを出立しカナンの地に入って行ったのです。神の言葉には力がありました。その言葉を聞いた時、アブラハムは信じ、行動に移したのです。その時、アブラハムは七十五歳、サラは六十五歳でした。しかし子孫を与えるという神の約束の実現はアブラハムが百歳になるまで待たなければなりませんでした。パウロは、老いたアブラハムとサラには新しい生命の誕生を望むすべはなかったにもかかわらず、自らの考えや判断に立たず、「存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じたと言います。そしてその信仰がアブラハムの義と認められたのです
  パウロはアブラハムの経験はこれだけではなかったと言います。神はアブラハムに少年となったイサクを焼き尽くす捧げものとして捧げるように求めたからです。神からの声を聞くとアブラハムはイサクを連れモリアに向かいました。アブラハムは、神は「死者に命を与える」ことが出来るお方であると信じていたから、とパウロは言います。事実、イサクを屠ろうとしたまさにその瞬間、神はその大切な独り子をアブラハムに戻しました。神はアブラハムに、イサクの代わりとなる一匹の雄羊を用意されていたのです。アブラハムにとっては死んだイサクが神によって再び命を与えられたことに他なりません。
  彼の生涯におけるこの二つの出来事は、死んだ体から新しい生命であるイサクが生まれたと言うこと、そしてイサクが生きるために身代わりとして雄羊が屠られたと言うことです。アブラハムは「世界を受け継がせる約束」を果たしてくださるためには、どのような時であっても主が必ず助けてくださることを確信したことでしょう。アブラハムはイサクの代わりに雄羊を屠ったその場所を「主は備えてくださる」(The Lord Will Provide :NAS)と名付けています。
  アブラハムの子孫であるユダヤ人たちは主が約束されたように星の数のように増えました。しかし大切なのは、アブラハムと同じ信仰に立つキリスト者もまた神は星の数のように増やしてくださったと言うことです。主の「世界を受け継がせる約束」とアブラハムの「主は備えてくださる」という信仰は、小羊である主イエス・キリストがこの地上に来られることによって成就しました。私たちは主イエスが私たちの命の身代わりで、このお方こそ主が私たちのために備えてくださったのを知るからです。
  旧約聖書はこの主イエスを証します。そして主イエスご自身も生前、死からの甦りを弟子たちに話されました。弟子たちは復活の主に会うことによって、生前主イエスが語られた言葉を信じたのです。私たちの復活もまた理性や常識ではなかなか受け入れられない出来事ですが、主の約束の言葉と復活の主に会うことによって信じられるのです。その私たちを神はアブラハムと同じように義とされるのです。

 パウロは「神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになった」その「契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはない」と言います(ガラテヤ三章一七、一八節)。事実、「世界を受け継がせる約束」を律法の行いによって得ることが出来るなら、神を讃美する代わりに自分の良い行いを誇る結果となってしまいます。そうではなく神の約束の言葉を信じる者だけが、心から神に栄光と感謝を捧げることが出来るのです。

2002年4月21日日曜日

ルカ24章36-49節「わたしの手や足を見なさい」

第25号

<イースター礼拝>

創世記3章15

  
 主イエスはこの世で私たちと同じように喜びと共にさまざまな苦難を経験されました。しかし、主イエスの生涯の苦難の極みは十字架にありました。十字架刑は最も残酷な刑で、ローマ帝国の支配に反逆するテロリストや反乱、暴動を起こした政治犯への見せしめのための刑でもありました。十字架刑では手と足に釘が打たれましたが、釘は腕のくるぶしの少し上の二本の骨の間に、そして足は曲げられて二つのかかとを重ね、その骨に一本打ち込まれました。体重を支えた腕の釘は肉を裂き、くるぶしのところで止まったのです。

その十字架から三日の後、主イエスは部屋に集まっていた弟子たちの中に「あなたがたに平和があるように」という言葉と共に立たれました。恐れおののき、亡霊を見ていると思っている弟子たちに「わたしの手や足を見なさい」、そして続けて「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言われ、ご自身が霊ではないことをお示しになりました。それでも弟子たちが不思議がっていると主イエスは彼らの前で焼いた魚を食べられたのです。
  甦られた主イエスは生前とはどこか違っていました。もし同じであれば弟子たちはすぐ分かったはずです。主イエスと分かるために弟子たちの心の目が開かれなければならなかったのです。別の身体、すなわち天的な身体、永遠に生きることのできる身体で甦られたのではないでしょうか。
  この主イエスの復活の出来事こそキリスト教にとって最も大切な出来事です。この出来事こそ私たちに主イエスは人であり神であられたこと、そして私たちも復活することを教えるからです。それでは何故、復活により主イエスは神であるのが分かるのでしょうか。聖書は罪の結果が死だと教えます。従って、少しの罪もなければ死はないのです。私たちは主イエスの生涯に少しの罪も見つけることは出来ませんが、それは主イエスが神であったからで、復活の事実は、罪が主イエスを死に閉じ込めておくことが出来なかったことを示しています。そして主イエスは人でもありました。マリアの子で、私たちと同じ罪の誘惑に会われたたのです。主イエスが神ということだけであるならその十字架の出来事は私たち人間とは係わり合いのない別世界で起こったことになります。また主イエスが人であるだけなら私たちの罪を贖うことは出来ません。人は人の罪を贖うことが出来ないからです。罪のない主イエスは私たち人類全ての罪を贖ったのです。主イエスの罪のない生涯を天の父は受け入れたのです。復活は旧約聖書の成就であり、ご自身が生前弟子たちに告げられたことの成就です。それを信じる私たちもまた信仰により主イエスと同じように清くされ、復活の望みを持つことが赦されるのです。主イエスの復活は私たちの初穂なのです。

 主イエスは「わたしの手や足を見なさい」と言われました。手は働きを意味します。主イエスの手はご自身の家族や弱い人、貧しい人、病人のために働かれた手でした。主イエスの足、それは福音のためガリラヤ、そしてエルサレムを回られた足でした。人々の求めに応じてどこにでも行かれました。主イエスに「来てください」と言って断られた人を知りません。しかしその最後はその手と足に釘を打たれたのです。それはご自身の痛み、苦しみだけではなく、全人類の苦しみ、罪を負われたのです。創世記三章十五節には女の子孫はサタンのかしらを砕き、サタンはその踵を砕くとあります。サタンに砕かれたその踵の痛みはどれ程のものだったのでしょうか。しかしそれによってサタンはかしらを砕かれ、人を罪に閉じ込めておく力を失ったのです。主イエスは私たちに手と足を見るだけでなく、触れてみなさいと言われます。主イエスの苦しみ、喜び、私たちへの愛に触れてみなさいと言われるのです。触れることによってより深く主イエスの苦しみ、喜び、愛を共有することが出来るのです。触れることによって主イエスはもうあなた方を弟子とは呼ばない、兄弟と呼ぼうと言われるのです。そして主イエスと食事をするのです。親しい交わりに入るのです。主イエスは私たちの心からの奉仕を受け入れられのです。
  そしてそうすることによって初めて私たちは主イエスが言われた「まさしくわたしなのだ」という言葉の意味を理解するのです。「まさしくわたしなのだ」は「それは私である」ということであって、ご自身が神であるということです(参照、出エジプト記三章一四節、及びヨハネ八章二四、二八節)。主イエスをよく見、触れ、食事をするなら、主イエスがどのようなお方かが分かります。主イエスが神であることが分かるのです。

2002年3月17日日曜日

ルカ15章16-32節「福音を恥としない」

第24号

ロマ書1章16-17

ロマ書の主題
  使徒言行録を終え、ロマ書に入りました。今日はその二回目ですが、パウロはこの聖書の箇所でロマ書の主題を記しています。それは 

一.      福音とは神の力である

二.福音には神の義が啓示されている

三.それは初めから終わりまで信仰を通して実現される

ということです。

一.福音とは神の力である
  福音とは、よき知らせです。この世の生涯が終わって神の前に立ったとき、神と私たちとの間に和解、平和が既になされているということです。それは御子に関するもので(ロマ一章三、四節)、人であり神であられる御子が救いに必要なこと全てを私たちに代わってしてくださったということです。主イエスは罪のない清い御生涯を歩まれ、十字架により私たちの罪を贖われ、復活なさり、天に上り、父の御許から約束の聖霊を注がれ、私たちの救いを確かなものとしてくださっているのです。救いは主イエスがなされた業であり、私たちはそのためにすることは何もありません。私たちもまた復活の希望を与えられていますが、私たちの復活もまた神の業に他なりません。

二.福音には神の義が啓示されている
  神は聖なるお方ですが、このことは神は義と愛を併せ持っておられるということです。義とは罪を正しく罰せられるということです。人は全て罪を犯しているので神に裁かれる存在でしかありません。しかし、神の愛はそのような人をも救われようとするのです。神はその愛のゆえに人と契約を結ばれました(虹の契約(創八章九~十七節)、アブラハム契約(創十二章一~三節)など)。神御自身の立てられた契約を守り、罪の結果である死から人を救うために遣わされたのが御独り子、主イエスでした。神は御子を義とされ、その結果、御子を信じる者をも同じく義とされました。福音には神の愛と義が啓示されていますが、そのことは神からの働きかけがあって初めて理解し、認めることが出来るのです。

三.それは初めから終わりまで信仰を通して実現される
 信仰とは見えないもの、すなわち主イエスを信じ、主イエスに従い、復活と神の御計画を信じることです。私たち自身の復活を信じることもまた信仰によります。事実とは誰もが理解し証明出来ることですが、信じることができるためには、啓示が必要とされます。

放蕩息子のたとえ話
 ルカに出て来るこのたとえ話はこのようなパウロの主張を分かりやすく教えるのに適しています。ここで登場する父親は神であり、二人の息子は私たち人間です。弟は父なる神の束縛を逃れて自由に生きようとします。ここに神なしに、自分中心に生きようとするアダムとエバ以来の原罪を見ることが出来ます。弟は父の財産を分けてもらい、それを全て自分のために使おうと家を出ます。しかも父親の目の届かない遠くの町に行くのです。しかし神から離れて生きることによって持っていたものを全て失い、ついには命さえ失う危険にさらされます。その時、初めて弟は正気に戻り、父のもとに帰る決心をします。これが回心であり、悔改めです。信仰には決断と行動が求められます。家にたどり着くと、思いがけず父は息子が帰って来るのを待っています。まだ遠く離れていたのに息子を認め、憐れに思い走り寄ります。そして自分のものを再び息子に与えるのです。
 父親は放蕩息子を罰することなく無条件に赦しました。私たちの常識では、弟は息子と呼ばれる資格のないことをしたのですから、父親としてはその点をはっきりさせ、必要な罰を与えなければいけないはずです。従ってこのような父親に反発する兄の気持ちは良く分かります。
 このたとえ話を解く鍵は、主イエスが語られた話として理解しなければならないということです。主イエスはご自身の十字架でこの放蕩息子を赦されるのです。この放蕩息子の罪は主イエス御自身が十字架で負われたからこそ成り立つ話です。ですから父のところに戻って来さえすれば放蕩息子に限らずどのような罪人であっても赦されるのです。
 この話は主イエスに罪を赦されることによって初めて理解出来ます。残念ながら罪を赦された体験を持っていない人は兄の立場しか理解できないでしょう。兄は父がしたことが分からず、反発して家を出るかもしれません。しかし、赦された弟は二度と父の家を出ることはないでしょう。

福音を恥としない
 救われた者、あるいは放蕩息子にとって父の赦しは福音です。自分には何の義もないのに、罪が赦され永遠の命を受けることが出来るからです。放蕩息子と自分を重ね合わせることの出来る人は福音を恥とするはずはありません。どのような状況にあっても大胆に御言葉を宣べ伝えるのです。

2002年2月10日日曜日

使徒28章17-31節「希望していること」

第23号
希望していること
「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです」とパウロは言いました。イスラエルが希望していることとは一体何でしょうか。その答えは使徒言行録の一章にあります。復活された主イエスは使徒たちに、神の国について話され、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と言われました。それに対し、使徒たちは「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねております。口語訳では「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのはこの時なのですか」と訳されています。国の復興、それこそイスラエルが希望していることでした。
6年前、イスラエルを訪れました。エジプトから入った私たちの目にはずいぶん豊かな国として映りました。灌漑などにより多くの荒地が緑に変わっていたからです。戦後、世界の放浪の民であったイスラエルの人々は二千年の時を経て自分たちの出て来た土地に戻りました。建国、これもまた国の復興といえるのではないでしょうか。国の再建はイスラエルの人々の希望していることでした。
 旧約聖書は神が多くの民族の中からイスラエルを選び、御自身が支配される国を造ろうとされた歴史です。神はアブラハムと子孫に土地と多くの子孫と祝福を約束されました(創世記十二章)。それは御自身の国を造られることの約束です。神はこの約束に従って奴隷であったイスラエルをエジプトから導き出し、荒野で十戒を与え、約束の地、カナンに導き入れました。神はこの乳と蜜の流れる地でイスラエルを聖なる民、宝の民とされ、全ての民の中で最も祝福しようとされました。しかし、イスラエルの民は神に従おうとはしませんでした。反逆する民に神は預言者を次々に遣わし、神に立ち返ることを求めました。イスラエルの歴史は神への反逆の歴史でもありました。そして、預言者の最後に御子、主イエス・キリストを遣わされたのです。
主イエスの時代も、イスラエルの民は国の復興を希望していました。ダビデの子孫であるメシアが現れ、ローマ帝国の支配から国を開放し、自立した国となることを望んでいたのです。

神の国にふさわしい民  
 そのようなユダヤ人たちにとって、主イエスをメシアと信じることは難しいことでした。主イエスがメシアであるなら神の国はどこに出現しているのでしょうか。神の国の住民にふさわしいのはアブラハムの子孫で律法を守っているイスラエルの民のはずでした。イスラエル以外の異邦人は神の約束も律法も知らなかったからです。
 しかし、歴史を通してイスラエルの民が見落としていたのは、神が聖であるように、神の国の民もまた聖でなければならないということでした。聖とは義と愛を併せ持つことで、具体的には十戒を守って生きることです。十戒は神と人とを愛するということに要約されますが、それは聖なる民の生活の基準で、神の国の憲法でもあります。十戒を守って生活するなら神と人の前に自分を低くし謙虚になるはずです。しかし、イスラエルは謙遜になるどころか神に選ばれた民として高慢になってしまいました。その罪こそ預言者が繰り返し民に警告したことでもありました。
十戒を守るということにおいてイスラエルの歴史は、人間の力で神の国の住民にふさわしくなることは出来ないことを教えます。それ故、神は人を聖くする別の方法を採られたのです。それが独り子である主イエスを遣わされることでした。御子は私たちに代わって神の前を聖く歩まれ、信じるものを信仰によって神の国の民にふさわしくされたのです。

神の国の復興  
 イスラエルの人たちは神のアブラハムへの約束を文字通りに理解したため神の国とカナンの地を切り離すことが出来ませんでした。しかし、パウロの言う「希望」はもはや土地には結びついていません。主イエスが王として支配される神の国は土地を持たない民だけの国だからです。そして民もアブラハムの子孫ではなくアブラハムの信仰を受け継ぐ霊的な意味での子孫で、そこにはユダヤ人、異邦人といった民族、人種間の区別はありません。この民が十戒によって神の国を造ることが出来なかった民に代わって神の国を復興するのです。これこそパウロが希望していることでした。
 国の利権、あるいは信仰の約束が他民族の住む土地にあるなら紛争は避けられないでしょう。それが旧約聖書に書かれていることであり、現在のイスラエルとパレスチナの人たちの争いになっています。そのような世界にあって、土地を求めないキリスト者は平和のために貢献できるのではないでしょうか。私たちキリスト者の希望は天にあって、主イエスの再臨の時、朽ちることのない永遠の御国を受け継ぐことを知っているからです。

2002年1月20日日曜日

使徒24章1-27節「死者の復活のこと」

第22号

〈新年礼拝〉

新しい世界


エレアーデという人の書いた永遠回帰の神話」という本を読みますと、古代社会では、宇宙は永遠で物質や生命はその中で現れ消えていく、すなわち万物は成長と衰退を繰り返し、それはあたかも月が新月から満月に満ち欠けを繰り返すのと同じであると書かれています。そして一年をそれに当てはめると、正月は新しい世界の始まりとなります。日本ではごく最近まで、新しい年に古い年の借金の取りたてはありませんでした。落語では長屋の大家さんは何としても除夜の鐘がなる前に、たまっている家賃を取り立てなければなりませんでした。反対に店子の八つぁん、熊さんにとっては大晦日さえ過ぎれば借金は帳消しになったのです。新しい世界に古い世界の出来事を持ち込むなら、全てが台無しになってしまいます。そういえば、子供の頃、元旦の朝起きると、太陽も空気も家も全てが新しくなっているように感じたものでした。このような考え方は、今日でも陰暦を使う世界で共通して見られるようです。また、宇宙は永遠から永遠に続くと考えている世界では、この無限の宇宙と一体になるとき心の安らぎを覚えると言われています。子供のころ野原に寝そべって夜空の星を見ながら宇宙に漂った、何ともいえない懐かしい記憶が思い出されます。

神の支配
 聖書の宇宙観、世界観はそれとは違います。宇宙とその中にある全てのものは神によって創造されたと教えるからです。初めがあり終わりがあって歴史が生まれます。もし宇宙が永遠に続くなら全ての出来事は繰り返しに過ぎなくなります。神によって創られたものには創られた目的、すなわち神の意志があります。神の意志があるところには神の力が働いているはずです。そして実際にこの世で働いている神の力を二つの面に見ることが出来ます。一つはニュートンやアインシュタインの相対性理論に代表される、いわゆる数学的、物理的法則でそれら自然の法則によって神は宇宙を現在の状態に保っておられます。宇宙をその状態に保つ物質間の力は神の力によるもので、その力がなくなれば宇宙は一瞬にして崩壊してしまいます。もう一つは、聖書が証するもので、人間は神と結びつくことによって初めて生きるものとされるということです。人は神の力によって本当の意味で生かされるのです。
 神は最初の人間、アダムとエバを創られエデンの園に置かれ、園の中央にある木の実を食べてはならないという戒めを与えられました。その戒めによって神との間に結びつきが生まれたのです。また神はモーセを通してイスラエルの民に十戒を与えられ、その戒めを守ることによって生きるようにされました。さらに神は御自身の独り子、主イエスをこの世に送られ、その言葉を信じ、守る事によって全ての人を生きるようにされました。

死者の復活
 今日の聖書の箇所でパウロは、ユダヤ人議会でファリサイ派やサドカイ派の議員たちに対し、パウロらキリスト者は彼らと同じ先祖の神を礼拝していると言いました。そしてファリサイ派の人々と同じように旧約聖書全体をことごとく信じ、復活の希望を持っていると言いました。サドカイ派の人たちはモーセの五書しか信じず、復活を信じていなかったため、ユダヤ教の正統派とは言えませんでした。ユダヤ人たちは主イエスを信じる人たちを「ナザレ人の分派」と呼び、ユダヤ教の正統派とは認めていませんでした。「ナザレから何のよいものが出ようか」と言ったのです。しかし、パウロはキリスト者こそアブラハムの信仰を受継ぐユダヤ教の正統派であると言いました。主イエスこそ旧約聖書で予言するメシアだからです。
 神がエデンの園を創られたとき、そこには死はありませんでした。死がこの世に入り込んだのはアダムとエバが神の言葉、すなわち戒めに従わなかったためです。その罪の結果はアダムとエバの子孫である人類全体に及んだのです。しかし神である主イエスは、天の父の御言葉に従い少しの罪のない生涯を送られました。そして人でもあった主イエスは私たちと同じ罪の誘惑に会われました。その主イエスが私たちの罪の贖いのために十字架につかれたのです。しかし、罪の結果である死は主イエスを墓に閉じ込めて置くことは出来ませんでした。三日目に甦られれ、私たち信じるものの初穂となられたのです。
 パウロは、正しい者も正しくない者もやがて復活すると言います。復活し主イエスの前に立つのです。そして、主イエスを信じなかった者は裁かれるのです。その裁きとは主イエスの戒め、すなわちその言葉を信じてこの世を生きたかどうかが問われるということに尽きます。しかし、主イエスを信じている者には御国が約束どおり用意されるのです。これこそ本当の新しい世界なのです。

2001年12月16日日曜日

ルカ1章5-38節「神にできないことは何一つない」

第21号

〈2001年クリスマス〉 

創世記十八章一節~十五節

アブラハムとサラへの約束
 主はアブラハムに現れ「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」(創世記十二章二節)と言われました。しかしあなたに子を与える、あなたの子孫は星のようになる、という約束はいつまで待っても実現しませんでした。年老いたアブラハムを見て、妻サラが考えたのはつかえめであるエジプトの女、ハガルによって子をもうけるということでした。ハガルは身ごもり、その子はイシマエルと名づけられました。その時、アブラハムは八十六歳でした。
 主の使いは再びアブラハムに現れ「わたしは彼女(サラ)を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸国民の王となる者たちが彼女から生まれる」と言われました。アブラハムは笑ってひそかに言いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(一七章十五~十七節)
 主の使いは再び現れました。神の言葉を聴いて顔を伏せひそかに笑うアブラハムとサラ。神の約束の言葉はむなしいと知ってハガルによって子供を得ていた彼ら。そのアブラハムとサラになお「主に不可能なことはあろうか」と語りかけられる神の姿があります。そしてこの神の言葉を聴いて恐れ、「私は笑いません」となお自分の信仰を取り繕おうとするサラの姿があります。ユダヤ人の先祖となったアブラハムとサラの生き方は私たちに神への信仰とは何かを教えます。
 アブラハムとサラの夫婦はついに主が約束されたように自分たちの子、イサクを得たのです。その時アブラハムは百歳でした。そして九十歳のサラは我が子を自分の胸に抱いたのです。サラは「神はわたしに笑いをお与えになった。聞くものは皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(二十一章六節)と言いました。その喜びはどれほどのものだったでしょうか。

ヨセフとマリアへの約束
 アブラハムからおおよそ二千年後、主の使いがガリラヤのナザレという町に住むおとめマリアに遣わされました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。」マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えます。それに対し天使は「神にできないことは何一つない」と言われました。その言葉は主の使いが年老いたアブラハムとサラに言われたことでもありました。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言って受け入れたのです。
 しかし、マリアの苦難はそのときから始まりました。不義を働いたと思ったヨセフは、マリアと離縁しようとしました。女一人で乳飲み子を抱えて生きていくのは困難な時代でした。しかし、天使はヨセフにマリアが聖霊によって身ごもったという事実を告げたのです。ヨセフとマリアの家庭は、子供たちに囲まれた愛のある和やかなものであったと思われますが、長くは続きませんでした。ヨセフが比較的若くして亡くなり、長男のイエスが父ヨセフの仕事を継ぎ、大工として家族を支えていました。しかし、そのイエスも三十歳頃には公の伝道生活に入り、三年後、十字架の死を遂げることになったからです。マリアはイエスの死を十字架の下で見ていました。どれほど大きな痛みであったでしょうか。しかし、その涙はぬぐわれることになります。
 マリアは三日後、復活の主イエスに出会います。それは生前、主イエスが約束されていたことでした。マリアは主イエスが神であって、神の言葉は確かなことを知ったのです。

私たちへの約束
 ヘブライ人への手紙に、神は私たちにもっとよい都を天に準備されているとあります。そしてアブラハムとサラはこの天の故郷を熱望していたと言います(十一章)。同じようにマリアも主イエスに、そして苦労を共にした愛する夫、ヨセフに御国で再び会うことが出来るのを知ったのです。
 同じことは私たちにも言えます。私たちは、死は永遠の別れであって、愛するものと二度と再び会えないと思っています。しかし、今も生きておられる主イエスと人格的な交わりを持つことによって、永遠の命の約束が確かなものであるのを知るのです。それは「神にできないことは何一つない」という神の絶対的主権を教えるものです。そしてそれは、永遠の命が確かなのを教えるために、神が人となってこの世に来られたクリスマスの出来事でもあるのです。