2004年1月18日日曜日

コリント二5章11-21節「新しく創造された者」

第46号

 <新年礼拝>

 年賀はがきは書くのは大変ですが、もらうのは結構嬉しいものです。特に日ごろ連絡を取り合うことのない古い友人からのは、元気でやっているなと思い、かっての思い出にしばし浸ることになります。そのような一つに以前の職場の上司からのがありました。会社でしかるべき地位を得、経済的にも家庭的にも恵まれた人生を送られて来た方でした。しかし、賀状を読みますと、最近は年を取り、病院通いも多くなり、精神的な不安を覚えるようになったとあり、特に、死を迎えるその時の精神状態はどうなのだろうと考えるようになった、と書かれていました。

 わたしたちはどのように素晴らしい人生を歩もうとも、キリストに結ばれていないなら人生の行き着く先は結局、不安なものとなってしまいます。人生の意味を見い出すことなく、一生を終わらなければならないからです。人生の意味とは、どこから来てどこに行くのか、そして何をしなければならないのかということですが、それは神を知ることによって初めて明らかにされます。
 永遠と有限、創造者と被造物の間には超えることの出来ない断絶があります。しかし、神は最初の人であるアダムとエバを神に似せて創られ、御自身との交わりの中に置かれました。しかし、アダムとエバは神に罪を犯すことにより神との交わりは失われたのです。聖なる神と罪なる人間との間にも超えることの出来ない断絶が生まれました。人間は自分の力、すなわち知恵や知識、経験によって神を知ることは出来ません。そしてその罪のゆえに、人は神の裁きの下にあるのです。罪によって生じた神との敵対関係の和解には仲保者が必要とされます。信仰の父、アブラハムは人と神との仲保者が与えられるのを信じ「主は備えてくださる」と言い、ヨブもまたどのような信仰も苦難も神に達することが出来ないのを知って「あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら」と言っております(創二二:一四、ヨブ九:三三)。しかし、神は時いたって人間との和解をもたらすために御子、主イエスをこの世に遣わされました。仲保者なる主イエスは神であるがゆえに少しの罪も犯されませんでした。それ故、天の父はその生涯を全く清いものとして受け入れることがお出来になったのです。しかし、同時に仲保者として主イエスは人でなければなりませんでした。人と同じ誘惑を受け、人の弱さも知っておられる方でなければならなかったからです。神であり人である主イエスが十字架上でわたしたちの罪を贖われたのです。そして死から復活され、父の御許に上られすべての人を生かす「霊」となられたのです。「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となった」とあるとおりです。(Ⅰコリ一五:四五)。主イエスを信じる者は誰でも主イエスの霊を受けることが出来るのです。この霊を受けた者こそ「キリストと結ばれる人」で、「新しく創造された者」なのです。主イエスは天の父の御許から来られ、父の御許に戻られることを御存知でした。そしてこの世で何をしなければならないかをはっきりと知っておられました。それは神の栄光をあらわすということです。主イエスと結びつくことによってわたしたちもまたどこから来てどこに行くのか、何をしなければならないかを知るようになります。

 新しく創造された者」に主イエスは生きる使命を与えられます。それは和解の使者となることで、主イエスと同じ仲保者の役目です。今日の社会ほどこのような仲保者が求められる時代はないでしょう。科学技術の進歩とは対照的に、人々の愛は冷え、生きる意味が見失われ、犯罪は増加し、自殺者が増えています。世界のいたるところで、イスラム教徒とユダヤ教徒、キリスト教徒が敵対し戦っています。肉親を殺された人々は多く、和解への道は絶望的に思われます。唯一の調停国たりえるアメリカもまたイスラエルよりの立場を鮮明にしたためイスラムの国々の反発を受けています。それに加え、石油、武器、覇権といった利権が絡み合っています。また南北間の経済格差は益々大きくなり、広がる貧富の差も人々の断絶を大きくしています。同じことが国の中にも、社会にも家庭にも見られます。断絶は他人だけでなく親子の間にも多く見られ、時に我子を暴力で死に至らしめる例すらあります。このような断絶の時代にあって教会、そしてキリスト者の使命は大きいと言わざるを得ません。主イエスが自らの命を棄てることによってわたしたちを神と和解させたように、わたしたちもまた神と人との和解のため自らの命を棄てることが求められているからです(マタ一六:二四)。それは狭い道であって、「新しく創造された者」だけが歩むことの出来る道なのです。

2003年12月21日日曜日

マタイ1書18-25節「その名はインマヌエル」

第45号

 <クリスマス礼拝>

 クリスマスの出来事、それは神であられるキリストが人の救いのために人間の姿をとってこの世に来られたということです。それは創造者が被造物であるこの世界に入って来られた、あるいは、永遠と有限が接点を持った、などと表現できるかもしれません。
 マリアは聖霊によって身ごもりました。天使ガブリエルはマリアの婚約者であるヨセフにもその事実を夢で告げました。主の言葉には力があります。主の天使を通して直接聞かされた神のことばを疑ったり無視することはできません。ヨセフは天使の言葉どおりマリアを妻にし、生まれた子をイエスと名付けました。イエスは「神は救われる」という意味です。主の天使の「この子は自分の民を罪から救う」の言葉をヨセフは信じ受け入れたのです。
 このクリスマスの出来事は、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と預言したイザヤの言葉の成就でもあります(イザヤ七:一四)。イザヤはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世、すなわち紀元前八世紀後半、主イエス誕生の七百年前頃活躍した預言者で、インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。

  ローマ皇帝アウグストゥスの人口調査の勅令によりダビデの血筋であったヨセフはマリアと共にベツレヘムの町に上り、そこで主イエスが産まれました。その後、彼らは郷里のガリラヤのナザレに戻りました(ルカ二:一、三九)。
 ナザレを訪れたことがありますが、主イエスの時代とさほど変わらないと思われるのどかな村でした。村は丘の上に建てられ、ガイドの説明では主イエスが育った家とみなされるところは洞穴の一つで、数家族が一緒に生活していたといいます。石や木の家に住むことは、その頃は金持ちにしか出来なかった、と言っていました。きっとそのような生活が普通で、隣同士助けあって生きていたのでしょう。大工であったヨセフは主イエスがその仕事を継ぐことが出来る頃に亡くなったと思われます。主イエスの公生涯は三十歳頃始まり三年後の十字架で終わり、復活とペンテコステの出来事がそれに続きます。
 仮にマリアが自分の人生を回顧し、一言で表現するとするなら「神は我々と共におられる」ということだと思います。神がヨセフとマリアに、ご自身の独り子を託されたことは彼らにとってどれほどの栄誉なことだったでしょう。しかも十字架につけられた我が子によって罪が赦され、永遠の命の希望を持つことの出来る者にされたのです。
 マリアやヨセフと同じ時代を生きたガリラヤやユダヤの人たちにとって神の御子の誕生はどのような意味を持ったのでしょう。大多数の人は自分たちの生活に追われ、主の御降誕には無関心だったのかもし知れません。そしてまた、多くの人にとって主イエスが神の子とは信じられなかったことでしょう。しかし、主イエスに出会って変えられた人もいたのです。病気や生まれつき障害のある人、貧しい人、弱い人、社会の底辺に生きた人たちです。彼らは主イエスに出会って癒され、喜びと平安、希望を与えられました。そして主イエスの十字架と復活により自らの罪が赦され、「神は我々と共におられる」との確信を与えられたのです。
 今日に生きる私たちも同じです。主イエスを神の子と信じない多くの人の中で、わたしたちは小さな群れですが、主イエスによって見い出され、信じる者とされたのです。信じた後も弱いままで何も変わらないかも知れません。しかし、その心には主イエスが宿っているのです。

 

ハイデルベルク信仰問答の第一の問いは「生きるにも死ぬるにも、あなたの唯一の慰めは、何ですか」です。その答えは「…わたしの体も魂も、わたしのものではなく、主イエス・キリストの所有(もの)であるということです」とあります。言葉を変えるなら「神は我々と共におられる」ということではないでしょうか。

クリスマスの出来事、それは聖霊がのぞんで、神のいのちがマリアの体に宿り、御子がこの世に生まれてきたということです。同じようにわたしたちの心にも聖霊がのぞんでキリストが宿ったのです。「神は我々と共におられる」その体験をした人はマリアが聖霊によって子を宿したことをあり得ないこととは思わないでしょう。はじめもなく終わりもない創造者なる神がわたしたちの心に宿り、わたしたちもまたこのいのちによって永遠に生きる者とされているからです。

クリスマスは救い主がわたしたちに与えられたのを喜び、感謝する日です。そして、それと共に教会にこの救い主によって救われた新しい兄弟姉妹が加えられるのを感謝し、喜ぶ日でもあります。

2003年11月16日日曜日

ルカ24章44-49「罪の赦し」

第44号

〈召天者記念礼拝〉

 主イエスの言われる聖書とは旧約聖書のことで、モーセの律法、預言者の書、詩編のことです。旧約聖書は古くからイスラエルに伝わる神の啓示による伝承を主イエスが生まれる八百年から四百年前頃までにまとめたものです。主イエスは聖書の中でメシアすなわち御自身について書かれてあることは全て実現すると言われました。その中でも特に苦難と復活をあげておられます。弟子たちによって書かれた新約聖書もまたはじめから終わりまで主イエスについて、そして特に苦難と復活を証しするものです。

 主イエスの受けられた苦難はイスラエルの指導者のねたみによるものでした(マタイ二七:一八)。彼らはイスラエルの民の気持ちが自分たちから離れ、主イエスを神として受け入れ始めたのを知りました。何とかしてそれを妨ごうとし、結果的にローマ総督ポンテオ・ピラトに引渡し、ローマに反逆する政治犯として十字架で処刑するよう求めたのです。木にかけて殺されるものは呪われた者であって、そのような者が神の子であるはずはなかったからです(申二一:二三)。しかし、主イエスの苦難を見るときそれはねたみだけでなくわたしたち人間の普遍的な罪の故だったことが分かります。
 ユダヤ人指導者たちは主イエスが彼らの王となることによって自分たちの地位、名誉、財産を失うのを恐れました。また、イスラエルの民は神である主イエスが奇跡を行って自分たちの衣食住を満し、病気を癒すよう求めました。彼らは主イエスが自分たちの言うことを聞く限りにおいて王として敬い従うのですが、要求が満たされない時、主イエスを拒否するのです。その結果、彼らもまた指導者の扇動に乗って主イエスを十字架につけるように求め、「神の子なら、自分を救ってみろ。…十字架から降りて来い」と嘲弄しはじめたのです(マタイ二七:四〇)。主イエスの弟子たちはどうだったでしょうか。彼らは神の国の実現に自らの命を懸け、主イエスに従いました。しかし、それはあくまで自分たちの夢を実現してもらうためであり、それが適わないと知った時、あの人を知らないと否認したのです(ルカ二二:五七)。
 主イエスの苦難を見るとき、わたしたち人間はすべて、突き詰めてみると自分中心に生きているのを知らされます。主イエスが天の父の御心を知ってそれを御自身の意思とし、それに従うのを喜びとしたのと全く違います。わたしたちは神の支配を望まず、今の自分を変えたくないのです。自分が神であるためにはまことの神をも殺してしまうのです。
 そのような身勝手なわたしたちの罪を赦されたのが主イエスでした。主イエスは十字架でわたしたちの罪を贖われたからです。ギリシャ語で「贖う」とは市場で売られている奴隷をお金で買って自分のものにすることです。罪に売られ、罪の奴隷となっているわたしたちを主イエスはご自身の尊い血潮でもって買い取り、神のものとしたのです。十字架の出来事はわたしたちの罪が神の命と引き換えに清くされたということです。
 復活もまた主イエスにより実現されました。聖書は、死は人類の祖先であるアダムとエバが神の戒めを破ったことによりこの世に入ってきたと教えます。従って死は罪の結果で、罪がなければ死はなかったのです。しかし、神である主イエスには少しの罪もありませんでした。そのため、死が主イエスを支配することは出来なかったのです。それが復活の出来事です。しかし、人でもあられた主イエスは人の弱さを御存知で、わたしたちと同じように罪の誘惑に会われたのです。その主イエスがわたしたちの罪を贖われたが故に、わたしたちもまた復活することができるのです。

 主イエスの苦難と復活はわたしたちに永遠の命が確かであることを教えます。しかし聖書を知識として読んだだけでは救いにいたることは出来ません。救われるためには悔い改めが求められるのです。悔い改めとは自分中心に生きていたその罪を認め、これからは神中心に生きる決心、すなわち回心することです。そうすることによって初めて救いが自分のものとなるのです。そして悔い改めた時、わたしたちは主イエスが約束された聖霊を受けるのです。それは古い自分に死んで新しい自分に生まれ変わることです。そして、その人は神によって新しく創造された者であって、死んでも生きるのです(Ⅱコリ五:一七)。
 召天者記念礼拝は、既に御許に召されている方たちの信仰を想い起こし、自分の与えられている信仰を確かなものとし、再会する希望を新たにすることに意味があります。それはご自身の苦難と復活により、わたしたちを永遠の命に適うものとしてくださった主イエスに感謝する機会でもあります。

2003年10月19日日曜日

ヨハネ11章17-27節「わたしは命である」

第43号

 
主イエスがベタニアに到着したのはマルタとマリアの弟のラザロの死の四日後のことでした。主イエスの到着を聞きマルタはすぐに迎えに出ました。そして、主イエスに会うやいなや言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。マルタとマリアは主イエスをどれほど待っていたことでしょう。彼らは主イエスが病人を癒され、また会堂司ヤイロの娘や、ナインの町で未亡人の息子を死から甦らされたのを知っていたからです。ラザロが死ぬ前に、あるいは死の直後に来て下さっていれば、との思いがあったに違いありません。しかし、ラザロは墓に入れられて四日も経っていました。死体は既に腐敗が始まっていたのです。「しかし」とマルタは言いました。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。すると主イエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われました。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。最後の日の復活なら今、ここで主イエスに確認していただく必要はありませんでした。それによってマルタの悲しみが和らぐものではなかったからです。それに対し主イエスは「わたしは復活であり、命である」と言われました。「復活」、「命」、それは「世の光」、「世の塩」、「羊飼い」、「道」、「真理」、等など主イエスがこの福音書の中でたびたび御自身のことを語っている言葉です。それは「わたしはある」ということをも意味し、初めもなく終わりもない、永遠の存在、すなわち神であることを宣言するものです(出エジ三:一四、一五、ヨハネ八:二四、二八)。御自身を神とし、復活であり、命であると宣言された主イエスは、マルタに「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問われたのです。

  主イエスは御自身を神と信じる者は死んでも生きると言われました。新しい天と新しい地である神の国を教え、その国にわたしたちを導くためにこの世に遣わされ、また霊となられたのです(Ⅱコリ三:一七、ガラ四:六)。その国に入る妨げとなっているのがわたしたちの罪です(ロマ六:二三)。主イエスは十字架で御自身の命でもってわたしたちの罪を贖われました。そして復活され、罪赦されたわたしたちもまた復活にあずかる望みを持つことが出来るようにされました。罪のない主イエスは墓の中に死んだままいつまでも閉じ込められてはいませんでした。同じように主イエスによって罪が赦されたわたしたちも死に閉じ込められることはないのです。
 それはまた、生きていて主イエスを信じる者は誰も、決して死ぬことはないということでもあります。永遠の命の約束は同時にその命にふさわしく造りかえられることでもあるからです。神である主イエスがわたしたちの心に入って来られることにより古い自分に死に、新しく生まれ変わるのです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と書いてあるとおりです(Ⅱコリ五:一七)。神が光あれと言われて宇宙が創造されたように、主イエスは真っ暗なわたしたちの心に光あれと言われてわたしたちを新しく創造されるのです(Ⅱコリ四:六)。
 

 ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフは人殺しで、ソーニャは売春婦でした。その罪の過去により生きることの出来ない二人でした。その苦しみのなかで二人は最後にラザロの復活を読み始めたのです。主よ、助けてください、過去の罪が赦され、全く違う自分に造りかえてください。それがラスコーリニコフとソーニャの叫びであり祈りでした。その二人の物語をドストエフスキーは次のことばで終えています。「しかし、そこにはすでに新しい物語、一人の人間が次第に新しくなっていく物語、次第に更生してゆく物語、一つの世界から他の世界へと次第に移っていく物語、これまで全然知られなかった新しい現実を知る物語がはじまろうとしているのである。それは新しい物語の主題となりうるものである。―しかし、この物語をこれで終わる」
 マルタとマリアの祈りもまた、弟のラザロをどうか甦らせてください、今、復活させてくださいというものでした。その二人の祈りに主イエスは答えてくださいました。
 主イエスのなされたラザロの復活の奇跡は、主イエスが神であることを教えます。神には不可能なことはありません。「わたしは命である」と言われたお方が、わたしたちに永遠の命を与えてくださるのです。そしてそれは死後の復活と共に今、新しい命に造りかえられるということでもあるのです。

2003年9月21日日曜日

ヨハネ10章1-6節「羊はその声を聞き分ける」

第42号

 
羊飼いは自分の羊に声をかけ、羊は自分の羊飼いの声が分かる。この羊飼いと羊の関係はパレスチナに住む人であれば誰でも知っていることです。主イエスはこの事実をそのまま御自身とわたしたちとの関係として語られています。
 羊飼いは朝、囲いから羊の群れを出し、牧草地に連れて行きます。そこで青草を食べさせ、水を与え、夕方には再び囲いに連れ帰ります。羊相手の単調で、忍耐のいる仕事です。しかも、時に非常に危険な仕事ともなります。盗人や強盗は夜、囲いを乗り越えて入って来ます。そして羊飼いを装って羊を連れ出そうとします。中には羊を殺し、囲いの外で待っている仲間に渡して持ち去ろうとします。また、狼や熊、時にライオンといった野の獣から群れを守り、戦わなければなりません。迷った羊がいれば探し出し、穴に落ちた羊がいれば助け出します。一瞬の判断が羊の命を助け、その判断の誤りにより自分の命をも危険にさらすのです。羊は羊飼いなしには生きていくことは出来ません。
 ある学者はパレスチナを旅行した時、羊飼いたちが井戸のほとりで羊に水を飲ませた後、それぞれ羊の名を呼んで集め、また戻って行ったと報告しています。また他の旅行者はエルサレムの郊外で羊飼いと羊の群れに出会い、試しにその羊飼いから外套を借り、教えてもらったとおりに羊の名を呼んだところ何の反応もありませんでした。しかし、その羊飼いが呼ぶと羊は集まって来たそうです。羊は自分の羊飼い以外の者の後には決してついて行きません。その声を知らないからです。

  前の章、九章には生まれつき目が不自由だった人が主イエスによって癒された出来事が書かれています。この出来事もまた羊飼いと羊との関係を表しています。羊はすぐ迷うのですが、この人もまた他人に手を引かれなければ歩くことは出来ませんでした。羊は弱く、外敵に対して無防備ですが、この人もそうでした。羊はおとなしい動物ですが、この人もまた道端に座って恵みを請う以外は声を出すこともなかったでしょう。そして羊は羊飼いに従順です。泣き声を上げることもなく毛を刈られ、またほふり場に連れて行かれるのです(参照、イザヤ五三章)。この男も主イエスに泥を目に塗られ、シロアムの池に行って洗いなさいといわれると出かけたのです。そして目が開かれました。羊は羊飼いの後についていくのですがこの人もまた自分の目が開かれたことをすぐさま証しし始めました。
 多くのキリスト者は、自分は主イエスを神の子と信じているから救われていると言います。ルターの信仰義認を自分の都合の良いように解釈し、信じるだけで救いは十分と考えているのです。しかし決してそうではありません。癒された男の両親は自分の息子の目が見えるようになったのはイエスによると信じていました。当時、このような奇跡を行うことの出来るのは神から遣わされた者だけと人々は信じていたからです。しかし、ファリサイ派の人々に聞かれたとき両親はその事実を証ししようとはしませんでした。どうして目が見えるようになったのかわたしたちには分からない、直接あの男に聞いてくれ、と逃げたのです(九:二一)。迫害され、村八分になっては生きていくことは出来ないと考えたからです。それはこの男が住んでいた近所の者たちや道端で物乞いをしていたのを知っていた人たちも同じです。

 信じるだけで救われるならサタンですら主イエスを神の子と信じて恐れおののいているのです(参照、ヤコブ二:一九)。また、主イエスは、主よ、主よ、と言うものが救われるのではなく、主イエスの御心を行う者が救われる、と言われています(ルカ六:四六)。主イエスを信じるには仕える、従うということがなければなりません。わたしたちは主イエスを心で信じ、口で告白しなければならないのです(ロマ一〇:一〇)。
 多くのキリスト者は証ししようとはしません。訊ねられても牧師に聞いてくれ、そのために牧師がいるのだと言います。クリスチャンでない人と同じ生活をしているのなら迫害を受けることはありません。ギリシャ語では「証し人」と「殉教者」とは同じ語源です。証をすることによって迫害を受けるのです。
 羊飼いは主イエスです。そして盗人であり強盗なのはファリサイ派の人々です。問題は誰が羊なのかということです。もしあなたが羊なら主イエスはあなたに語りかけられ、あなたはそれが主イエスの声であるのが分かるのです。その声によって羊に命が入るからです。そして羊は主イエスに従うのです。従うこととは主イエスを証しすることであって、それが永遠の命に至る道なのです。

2003年8月17日日曜日

ヨハネ8章39-47節「わたしは真理を語る」

第41号

 

マタイによる福音書20章1-16節

  主イエスは「わたしは真理を語る」と三回繰り返しています(四〇、四五、四六節)。繰り返すのは大切だからに他なりませんが、同時にわたしたちがその言葉を理解するのが難しいからでもあります。わたしたちは主イエスの言葉を何度も繰り返し聞くことによってそれが真理の言葉であることが少しずつ分かるようになります。
  マタイによる福音書二〇章では、主イエスはぶどう園のたとえ話を用いてわたしたちに何かを教えようとしています。ぶどう園の主人は朝六時に出かけて行き、労働者を一デナリオンの約束で雇いました。そして、昼、午後三時、五時にも出かけて行き労働者を雇いました。一日の労働の終わりに、主人は後から雇った順に賃金を支払いました。なんと一時間働いた者も十二時間働いた者も、同じ一デナリオンを支払ったのです。朝から働いていた労働者たちが、一日、暑さの中で苛酷な労働をしたのに他の者と同じ扱いをするのかと不平を言うと、主人は約束どおりのことをしたまでで間違ったことをしていない、自分のものを自分のしたいようにしてどこが悪いのか、と言ったのです。
  労働者の不満はもっともなように思えます。普通はこのようなことの起こらないように、時間給や出来高払いなどなるべく公正なやり方を取ります。主イエスは「わたしは真理を語る」と言われましたが、そうであるならこのたとえをわたしたちはどのように理解したらよいのでしょうか。

  わたしたちの住む資本主義社会は貧富の差があって成り立ち、しかもその格差は広がっていきます。もし、社会に貧富の差がなければ、貧しい人は自分の大切な時間や身体を富んでいる人のために使いお金を得るということはしないでしょう。お金を持っている人はそれによりますます利益をあげています。富は自分の影響力を他人へ行使するための力となり、それは持てる者に地位、名誉をもたらします。人々はより多くの富を得ようと弱肉強食の厳しい競争社会を形成します。アメリカ、イギリス、日本などいわゆるG-8と呼ばれる先進国はその代表です。
 格差が生まれるのは何も西欧諸国だけでなく、発展途上国や共産国、そして独裁国家と呼ばれる国々でも同じです。権力を握った者はそれを既得権とし、言論、情報、市場を自分たちの都合の良いように操作し、地位、名誉、財産を守ろうとするからです。その結果、社会は腐敗していきます。
 この貧富の差は国内だけでなく南北間にもあり、格差は拡大する一方です。発展途上国の人たちは自分たちが着ることも履くことも出来ない高価な服や靴を作って先進国に輸出しています。ピューリタンたちが建国したアメリカは今、新たな帝国となり世界の富を独占しようとしています。世界中で迫害されてきたイスラエルの人たちは戦後自分たちの国を建設しましたが、武力で周りの貧しいパレスチナ人やアラブ諸国と戦い、国土と民と富を守ることに必死です。

 三年前、教団の宣教師でアラハバード農科大学農村開発教育学部学部長として働かれている牧野一穂先生をお訪ねする機会がありました。先生は一九六四年にインドに渡られましたが、その当時、日本はまだインドの人々に知られておらずネパールよりもっと遠くから来た人とみなされたそうです。文字通り「最も低い者となってインドの人たちに奉仕する」がモットーだったそうです。その牧野先生はインドに来てはじめてぶどう園のたとえ話の意味が分かったと言われました。それは一二時間働いた人が、一時間しか働かなかった人と一緒に喜ぶことの出来る社会だと言うのです。それがこのたとえの解き明かしです。わたしたちはすぐ他人と比較して自分の立場を考え、権利を主張します。しかし、そのような態度からは他人と一緒に喜ぶ気持ちは生まれて来ません。このぶどう園のたとえ話は神の国の教えなのです。神の国の住人には神の国にふさわしい生き方があるからです。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と主イエスは言われます(マタイ、一四節)。それは後から来た人が自分と同じになる、あるいは先に行くのを喜ぶことの出来る生き方です。その生き方を主イエスは教えているのです。「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神のことばを聴く」(四六、四七節)。そして更に主イエスは言われます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(三一、三二節)。確かにこの世に神の国の民はいるのです。そして、主イエスの言葉を実践しています。

2003年7月20日日曜日

ヨハネ8章21-30節「わたしはある」

第40号

  

出エジプト記3章11-15節

 モーセは四〇才になるまでエジプトの王、ファラオの娘の子として育てられました。しかし、エジプト人を殺したため、ミィデアンの地に逃げなければなりませんでした。そこで四〇年間、義理の父エトロの羊を飼っていました。ある日、羊を追ってホレブの山に来た時、芝の中で燃える炎となって現れた神に出会ったのです。神は、エジプトで奴隷となっているわたしの民を救い出しなさいと言われました(出エジ三:七~一〇)。モーセは「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と問うと、神は「わたしは必ずあなたと共にいる」、そして「あなたがイスラエルをエジプトから導き出したとき、あなたは…神に仕える」と言われました。モーセはさらに訊ね、「その名は一体何か」、すなわち、あなたは、いったい、どなたですか、と尋ねました。古代のイスラエルでは、名前は人格に一致し、その人の本質を表していると考えられていたのです。神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました(三:一一~一四)。
 主イエスも「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とユダヤ人たちに言われました。それに対しユダヤ人たちは「あなたは、いったい、どなたですか」と問いました。主イエスは「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて『わたしはある』ということ…が分かるだろう」と答えられました(ヨハネ八:二四~二八)。「上げたとき」とは十字架の死から復活し、天に上げられたときであって、あなた方はそのとき初めて主イエスがモーセに現れた神であることが分かると言われたのです。

  「わたしはある」、それは初めも終わりもない唯一の無限の存在であり、無から有を生み出す創造者だということです。そしてそのお方は、遠くからわたしたちを見ていて、死んでからわたしたちのしてきた良いこと悪いことを裁かれるお方というのではなく「必ずあなたと共にいる」お方、すなわちわたしたちを通して働かれるお方でもあるのです。神は被造物を超越した唯一無限の存在であり、万物の創造者ですが、同時に、わたしたちと共に歩まれるのです。事実、神はモーセを通してさまざまなしるしや奇跡を行い、ファラオやエジプトの民に御自身を信じるように求められました。しかし、彼らは心を頑なにして神を信じようとせず、神の大いなる審判が下され裁かれました。ファラオの家から奴隷の家に至るまで、またすべての家畜に至るまで初子が殺されたのです。しかし、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民は小羊の血による過ぎ越しによって贖われました。イスラエルの民は開放され、自由の民となったのです。エジプトの民はそれによってイスラエルの神が主であることを知りました。
 主イエスもまた「神の小羊」として御自身が十字架につけられることによって信じる者の贖いとなられました。それは罪の奴隷からの開放であり、罪の結果である死からの救いであって、永遠の命を得ることであります。しかし、信じない者にとっては自らの罪の裁きを受けなければならないのです。復活は永遠の命が確かなことであるのを教えます。そして、主イエスは天において父なる神の右に座しておられるのです。モーセは神に忠実な人としてエジプトで奴隷になっていたアブラハムの子たちを救いましたが、主イエスは神としてこの世で罪の奴隷となっている御自身の民を救われたのです(ヘブライ三:二、五、六)。

わたしたちもまたモーセと同じように神に出会うとき「わたしは何者でしょう」と問いかけます。そしてまた「あなたは、いったい、どなたですか」と問うのです(使徒九:五)。その問いに対する神の答えこそ「わたしはある」であって、いつでもどこでも「わたしは必ずあなたと共にいる」ということなのです。
 「わたしはある」、それはこの神にわたしたちが仕える、礼拝するということです。そして「わたしは必ずあなたと共にいる」、それは、この世で罪の奴隷となっている神の民を救い出しなさいというわたしたちへの命令でもあります(出エジ六:一三)。神の国のためにこの世に遣わされることこそ、わたしたちのこの世での存在理由です。わたしたちと共に働かれるために、主イエスは十字架につけられ、復活し、天に上げられ、聖霊となってわたしたちの内に宿られたのです。わたしたちは神が共にいてくださることにより、この世で何をしたらよいのか、つまり、自らの存在の意味を見い出すことが出来るのです。