2004年1月18日日曜日
コリント二5章11-21節「新しく創造された者」
2003年12月21日日曜日
マタイ1書18-25節「その名はインマヌエル」
第45号
<クリスマス礼拝>
クリスマスの出来事、それは神であられるキリストが人の救いのために人間の姿をとってこの世に来られたということです。それは創造者が被造物であるこの世界に入って来られた、あるいは、永遠と有限が接点を持った、などと表現できるかもしれません。マリアは聖霊によって身ごもりました。天使ガブリエルはマリアの婚約者であるヨセフにもその事実を夢で告げました。主の言葉には力があります。主の天使を通して直接聞かされた神のことばを疑ったり無視することはできません。ヨセフは天使の言葉どおりマリアを妻にし、生まれた子をイエスと名付けました。イエスは「神は救われる」という意味です。主の天使の「この子は自分の民を罪から救う」の言葉をヨセフは信じ受け入れたのです。
このクリスマスの出来事は、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と預言したイザヤの言葉の成就でもあります(イザヤ七:一四)。イザヤはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世、すなわち紀元前八世紀後半、主イエス誕生の七百年前頃活躍した預言者で、インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。
仮にマリアが自分の人生を回顧し、一言で表現するとするなら「神は我々と共におられる」ということだと思います。神がヨセフとマリアに、ご自身の独り子を託されたことは彼らにとってどれほどの栄誉なことだったでしょう。しかも十字架につけられた我が子によって罪が赦され、永遠の命の希望を持つことの出来る者にされたのです。
マリアやヨセフと同じ時代を生きたガリラヤやユダヤの人たちにとって神の御子の誕生はどのような意味を持ったのでしょう。大多数の人は自分たちの生活に追われ、主の御降誕には無関心だったのかもし知れません。そしてまた、多くの人にとって主イエスが神の子とは信じられなかったことでしょう。しかし、主イエスに出会って変えられた人もいたのです。病気や生まれつき障害のある人、貧しい人、弱い人、社会の底辺に生きた人たちです。彼らは主イエスに出会って癒され、喜びと平安、希望を与えられました。そして主イエスの十字架と復活により自らの罪が赦され、「神は我々と共におられる」との確信を与えられたのです。
今日に生きる私たちも同じです。主イエスを神の子と信じない多くの人の中で、わたしたちは小さな群れですが、主イエスによって見い出され、信じる者とされたのです。信じた後も弱いままで何も変わらないかも知れません。しかし、その心には主イエスが宿っているのです。
ハイデルベルク信仰問答の第一の問いは「生きるにも死ぬるにも、あなたの唯一の慰めは、何ですか」です。その答えは「…わたしの体も魂も、わたしのものではなく、主イエス・キリストの所有(もの)であるということです」とあります。言葉を変えるなら「神は我々と共におられる」ということではないでしょうか。
クリスマスの出来事、それは聖霊がのぞんで、神のいのちがマリアの体に宿り、御子がこの世に生まれてきたということです。同じようにわたしたちの心にも聖霊がのぞんでキリストが宿ったのです。「神は我々と共におられる」その体験をした人はマリアが聖霊によって子を宿したことをあり得ないこととは思わないでしょう。はじめもなく終わりもない創造者なる神がわたしたちの心に宿り、わたしたちもまたこのいのちによって永遠に生きる者とされているからです。
クリスマスは救い主がわたしたちに与えられたのを喜び、感謝する日です。そして、それと共に教会にこの救い主によって救われた新しい兄弟姉妹が加えられるのを感謝し、喜ぶ日でもあります。
2003年11月16日日曜日
ルカ24章44-49「罪の赦し」
第44号
〈召天者記念礼拝〉
主イエスの言われる聖書とは旧約聖書のことで、モーセの律法、預言者の書、詩編のことです。旧約聖書は古くからイスラエルに伝わる神の啓示による伝承を主イエスが生まれる八百年から四百年前頃までにまとめたものです。主イエスは聖書の中でメシアすなわち御自身について書かれてあることは全て実現すると言われました。その中でも特に苦難と復活をあげておられます。弟子たちによって書かれた新約聖書もまたはじめから終わりまで主イエスについて、そして特に苦難と復活を証しするものです。主イエスの苦難を見るとき、わたしたち人間はすべて、突き詰めてみると自分中心に生きているのを知らされます。主イエスが天の父の御心を知ってそれを御自身の意思とし、それに従うのを喜びとしたのと全く違います。わたしたちは神の支配を望まず、今の自分を変えたくないのです。自分が神であるためにはまことの神をも殺してしまうのです。
そのような身勝手なわたしたちの罪を赦されたのが主イエスでした。主イエスは十字架でわたしたちの罪を贖われたからです。ギリシャ語で「贖う」とは市場で売られている奴隷をお金で買って自分のものにすることです。罪に売られ、罪の奴隷となっているわたしたちを主イエスはご自身の尊い血潮でもって買い取り、神のものとしたのです。十字架の出来事はわたしたちの罪が神の命と引き換えに清くされたということです。
復活もまた主イエスにより実現されました。聖書は、死は人類の祖先であるアダムとエバが神の戒めを破ったことによりこの世に入ってきたと教えます。従って死は罪の結果で、罪がなければ死はなかったのです。しかし、神である主イエスには少しの罪もありませんでした。そのため、死が主イエスを支配することは出来なかったのです。それが復活の出来事です。しかし、人でもあられた主イエスは人の弱さを御存知で、わたしたちと同じように罪の誘惑に会われたのです。その主イエスがわたしたちの罪を贖われたが故に、わたしたちもまた復活することができるのです。
2003年10月19日日曜日
ヨハネ11章17-27節「わたしは命である」
第43号
主イエスがベタニアに到着したのはマルタとマリアの弟のラザロの死の四日後のことでした。主イエスの到着を聞きマルタはすぐに迎えに出ました。そして、主イエスに会うやいなや言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。マルタとマリアは主イエスをどれほど待っていたことでしょう。彼らは主イエスが病人を癒され、また会堂司ヤイロの娘や、ナインの町で未亡人の息子を死から甦らされたのを知っていたからです。ラザロが死ぬ前に、あるいは死の直後に来て下さっていれば、との思いがあったに違いありません。しかし、ラザロは墓に入れられて四日も経っていました。死体は既に腐敗が始まっていたのです。「しかし」とマルタは言いました。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。すると主イエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われました。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。最後の日の復活なら今、ここで主イエスに確認していただく必要はありませんでした。それによってマルタの悲しみが和らぐものではなかったからです。それに対し主イエスは「わたしは復活であり、命である」と言われました。「復活」、「命」、それは「世の光」、「世の塩」、「羊飼い」、「道」、「真理」、等など主イエスがこの福音書の中でたびたび御自身のことを語っている言葉です。それは「わたしはある」ということをも意味し、初めもなく終わりもない、永遠の存在、すなわち神であることを宣言するものです(出エジ三:一四、一五、ヨハネ八:二四、二八)。御自身を神とし、復活であり、命であると宣言された主イエスは、マルタに「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問われたのです。
ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフは人殺しで、ソーニャは売春婦でした。その罪の過去により生きることの出来ない二人でした。その苦しみのなかで二人は最後にラザロの復活を読み始めたのです。主よ、助けてください、過去の罪が赦され、全く違う自分に造りかえてください。それがラスコーリニコフとソーニャの叫びであり祈りでした。その二人の物語をドストエフスキーは次のことばで終えています。「しかし、そこにはすでに新しい物語、一人の人間が次第に新しくなっていく物語、次第に更生してゆく物語、一つの世界から他の世界へと次第に移っていく物語、これまで全然知られなかった新しい現実を知る物語がはじまろうとしているのである。それは新しい物語の主題となりうるものである。―しかし、この物語をこれで終わる」
マルタとマリアの祈りもまた、弟のラザロをどうか甦らせてください、今、復活させてくださいというものでした。その二人の祈りに主イエスは答えてくださいました。
主イエスのなされたラザロの復活の奇跡は、主イエスが神であることを教えます。神には不可能なことはありません。「わたしは命である」と言われたお方が、わたしたちに永遠の命を与えてくださるのです。そしてそれは死後の復活と共に今、新しい命に造りかえられるということでもあるのです。
2003年9月21日日曜日
ヨハネ10章1-6節「羊はその声を聞き分ける」
第42号
羊飼いは自分の羊に声をかけ、羊は自分の羊飼いの声が分かる。この羊飼いと羊の関係はパレスチナに住む人であれば誰でも知っていることです。主イエスはこの事実をそのまま御自身とわたしたちとの関係として語られています。
羊飼いは朝、囲いから羊の群れを出し、牧草地に連れて行きます。そこで青草を食べさせ、水を与え、夕方には再び囲いに連れ帰ります。羊相手の単調で、忍耐のいる仕事です。しかも、時に非常に危険な仕事ともなります。盗人や強盗は夜、囲いを乗り越えて入って来ます。そして羊飼いを装って羊を連れ出そうとします。中には羊を殺し、囲いの外で待っている仲間に渡して持ち去ろうとします。また、狼や熊、時にライオンといった野の獣から群れを守り、戦わなければなりません。迷った羊がいれば探し出し、穴に落ちた羊がいれば助け出します。一瞬の判断が羊の命を助け、その判断の誤りにより自分の命をも危険にさらすのです。羊は羊飼いなしには生きていくことは出来ません。ある学者はパレスチナを旅行した時、羊飼いたちが井戸のほとりで羊に水を飲ませた後、それぞれ羊の名を呼んで集め、また戻って行ったと報告しています。また他の旅行者はエルサレムの郊外で羊飼いと羊の群れに出会い、試しにその羊飼いから外套を借り、教えてもらったとおりに羊の名を呼んだところ何の反応もありませんでした。しかし、その羊飼いが呼ぶと羊は集まって来たそうです。羊は自分の羊飼い以外の者の後には決してついて行きません。その声を知らないからです。
羊飼いは主イエスです。そして盗人であり強盗なのはファリサイ派の人々です。問題は誰が羊なのかということです。もしあなたが羊なら主イエスはあなたに語りかけられ、あなたはそれが主イエスの声であるのが分かるのです。その声によって羊に命が入るからです。そして羊は主イエスに従うのです。従うこととは主イエスを証しすることであって、それが永遠の命に至る道なのです。
2003年8月17日日曜日
ヨハネ8章39-47節「わたしは真理を語る」
第41号
マタイによる福音書20章1-16節
主イエスは「わたしは真理を語る」と三回繰り返しています(四〇、四五、四六節)。繰り返すのは大切だからに他なりませんが、同時にわたしたちがその言葉を理解するのが難しいからでもあります。わたしたちは主イエスの言葉を何度も繰り返し聞くことによってそれが真理の言葉であることが少しずつ分かるようになります。マタイによる福音書二〇章では、主イエスはぶどう園のたとえ話を用いてわたしたちに何かを教えようとしています。ぶどう園の主人は朝六時に出かけて行き、労働者を一デナリオンの約束で雇いました。そして、昼、午後三時、五時にも出かけて行き労働者を雇いました。一日の労働の終わりに、主人は後から雇った順に賃金を支払いました。なんと一時間働いた者も十二時間働いた者も、同じ一デナリオンを支払ったのです。朝から働いていた労働者たちが、一日、暑さの中で苛酷な労働をしたのに他の者と同じ扱いをするのかと不平を言うと、主人は約束どおりのことをしたまでで間違ったことをしていない、自分のものを自分のしたいようにしてどこが悪いのか、と言ったのです。
労働者の不満はもっともなように思えます。普通はこのようなことの起こらないように、時間給や出来高払いなどなるべく公正なやり方を取ります。主イエスは「わたしは真理を語る」と言われましたが、そうであるならこのたとえをわたしたちはどのように理解したらよいのでしょうか。
わたしたちの住む資本主義社会は貧富の差があって成り立ち、しかもその格差は広がっていきます。もし、社会に貧富の差がなければ、貧しい人は自分の大切な時間や身体を富んでいる人のために使いお金を得るということはしないでしょう。お金を持っている人はそれによりますます利益をあげています。富は自分の影響力を他人へ行使するための力となり、それは持てる者に地位、名誉をもたらします。人々はより多くの富を得ようと弱肉強食の厳しい競争社会を形成します。アメリカ、イギリス、日本などいわゆるG-8と呼ばれる先進国はその代表です。
格差が生まれるのは何も西欧諸国だけでなく、発展途上国や共産国、そして独裁国家と呼ばれる国々でも同じです。権力を握った者はそれを既得権とし、言論、情報、市場を自分たちの都合の良いように操作し、地位、名誉、財産を守ろうとするからです。その結果、社会は腐敗していきます。この貧富の差は国内だけでなく南北間にもあり、格差は拡大する一方です。発展途上国の人たちは自分たちが着ることも履くことも出来ない高価な服や靴を作って先進国に輸出しています。ピューリタンたちが建国したアメリカは今、新たな帝国となり世界の富を独占しようとしています。世界中で迫害されてきたイスラエルの人たちは戦後自分たちの国を建設しましたが、武力で周りの貧しいパレスチナ人やアラブ諸国と戦い、国土と民と富を守ることに必死です。
2003年7月20日日曜日
ヨハネ8章21-30節「わたしはある」
第40号
出エジプト記3章11-15節
モーセは四〇才になるまでエジプトの王、ファラオの娘の子として育てられました。しかし、エジプト人を殺したため、ミィデアンの地に逃げなければなりませんでした。そこで四〇年間、義理の父エトロの羊を飼っていました。ある日、羊を追ってホレブの山に来た時、芝の中で燃える炎となって現れた神に出会ったのです。神は、エジプトで奴隷となっているわたしの民を救い出しなさいと言われました(出エジ三:七~一〇)。モーセは「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と問うと、神は「わたしは必ずあなたと共にいる」、そして「あなたがイスラエルをエジプトから導き出したとき、あなたは…神に仕える」と言われました。モーセはさらに訊ね、「その名は一体何か」、すなわち、あなたは、いったい、どなたですか、と尋ねました。古代のイスラエルでは、名前は人格に一致し、その人の本質を表していると考えられていたのです。神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました(三:一一~一四)。主イエスも「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とユダヤ人たちに言われました。それに対しユダヤ人たちは「あなたは、いったい、どなたですか」と問いました。主イエスは「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて『わたしはある』ということ…が分かるだろう」と答えられました(ヨハネ八:二四~二八)。「上げたとき」とは十字架の死から復活し、天に上げられたときであって、あなた方はそのとき初めて主イエスがモーセに現れた神であることが分かると言われたのです。
わたしたちもまたモーセと同じように神に出会うとき「わたしは何者でしょう」と問いかけます。そしてまた「あなたは、いったい、どなたですか」と問うのです(使徒九:五)。その問いに対する神の答えこそ「わたしはある」であって、いつでもどこでも「わたしは必ずあなたと共にいる」ということなのです。
「わたしはある」、それはこの神にわたしたちが仕える、礼拝するということです。そして「わたしは必ずあなたと共にいる」、それは、この世で罪の奴隷となっている神の民を救い出しなさいというわたしたちへの命令でもあります(出エジ六:一三)。神の国のためにこの世に遣わされることこそ、わたしたちのこの世での存在理由です。わたしたちと共に働かれるために、主イエスは十字架につけられ、復活し、天に上げられ、聖霊となってわたしたちの内に宿られたのです。わたしたちは神が共にいてくださることにより、この世で何をしたらよいのか、つまり、自らの存在の意味を見い出すことが出来るのです。
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