2004年8月15日日曜日
コリント一5章1-13節「わずかなパン種」
2004年7月18日日曜日
コリント一2章1-26節「キリストの思い」
第52号
心はこのようなわたしたちの脳に宿りました。夜空の星を見て永遠を思い、大自然を見てその雄大さに感動します。花を見て美しいと思い、その花を恋人に、或は死者に捧げたりします。また青春時代の甘酸っぱい初恋の味をいつまでも覚えています。死者への憐れみや弱い人への労わりの心もあります。自分さえ良ければいいという自分中心の心もあれば、様々な欲望のとりこになった心もあります。美しい心もあれば、醜い心もあるのです。
意識は心の高度な働きです。それは、人間は自分が何をしている、あるいは何を考えているのかを知っているということです。それは自分の外に立って脳の働きを知っているということに他なりません。このことは大切なことです。何故なら自分がしていることを知っているということは、他人の行動や考えを推測することが出来るからです。かつて、人類の直接の先祖であるクロマニヨン人は、ネアンデルタール人が進化したものであると考えられていた時代がありました。しかし、その後の発掘などから、かなりの年代、地球上に共存していたことが分かるようになりました。しかし、彼らは結婚し子孫を残すことは出来ませんでした。それは、種が異なっていたからです。クロマニヨン人もネアンデルタール人も同じ石器時代を生き、脳の大きさも変わりませんでした。しかし、ある時代以降、ネアンデルタール人は地上から姿を消しました。学者によってはその理由の一つに、心の働きが異なっていたことをあげています。クロマニヨン人の方が心の働きが活発で、相手の行動をより深く推測することが出来、また創造的な活動をすることが出来たからであると言うのです。
人間には心の根底に、その人をその人たらしめる根源的な働きをしている霊があります。例えばわたしたちはただ寝て食べて息をするだけでは生きていることにはなりません。人間は本当の意味で生きることとは何かを求めます。目に見える現象の背後にあって支配している真理を求めようとします。神とは何か、永遠とは何か、幸せとは何かと考えます。また善悪を知り、それによって自分を律し、また他人を裁きます。しかし、人間の心は各自異なるため様々な価値判断、倫理基準が生まれます。ある人にとっての善はある人にとって悪となり得ます。その結果、戦争はいつの時代にもあり、貧困の問題、環境の問題、また様々な社会問題は絶えることはありません。人間の理性を信じ、人類の将来は明るいと考える人はほとんどいないでしょう。
わたしたちが「キリストの思い」を抱き、神と人とを愛して生きようとするにはまず神からの働きかけが必要です。宗教改革者ルターは「わたしはあなたのもとに行くことはできない。それゆえ、わが神よ、あなたが立ってわたしのところに来て下さい。わたしをあなたのもとに連れていって下さい」と祈りました。主イエスはわたしたちの心の扉をたたくのです(黙三:二〇)。それを知って心の扉を開くなら心の中に入ってきてくださるのです。それにより、わたしたちはキリストの心、すなわち霊を持つのです。
2004年6月20日日曜日
ヤコブ2章14-26節「行いの伴わない信仰」
第51号
ヤコブは「行いの伴わない信仰」は「役に立たない」、「その人を救うことは出来ない」、「それだけでは死んだもの」であると言います。それに対し、多くのキリスト者は、パウロが言うように人が救われるのは信仰であって行いによるのではないと考えます。宗教改革者ルターもまた同じ信仰義認の観点からヤコブ書を「わらの書簡」として退けました。このヤコブの主張は、そのように考える人たちにとって違和感を覚えるのではないでしょうか。確かに人は信仰によって救われるのであって、救いのための良い行いは何の役にも立ちません。わたしたちが救われるために必要なことはすべて主イエスがしてくださいました。わたしたちは主イエスを信じる信仰によって救われるのです。では、行いは信仰とは関係ないのでしょうか。否、救われたわたしたちには良い行いが求められています。それがヤコブの主張です。この書簡は、もう既に救われたキリスト者を対象にして書いて送っているのです。
主イエスも救われた人の行いの大切なことを強調しています。例えば山上の説教ですが、その終わりは「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると倒れて、その倒れ方はひどかった。」と締め括っています(マタイ五~七章)。
アブラハムもまた神を信じる人でした。神はそのアブラハムに、独り子イサクを焼き尽くす捧げものとして献げるように求めたのです。神はアブラハムの子孫から救い主が生まれることを約束していたわけですからイサクを捧げればその約束は果たせなくなるはずです。にも関わらずアブラハムはイサクを捧げました。アブラハムは死からの甦りを信じていたからです。(ヘブル一一:一七~一九)。神はその行いを見てアブラハムの信仰を義とされたのです。アブラハムの信仰はわたしたちの信仰でもあります。主イエスは十字架につけられ、そして三日目に甦られました。それによってわたしたちの罪が赦され、復活することを教えられました。わたしたちもまたアブラハムと同じように死からの甦りを信じるのです。
2004年5月16日日曜日
ヨハネ21章1-25節「わたしを愛しているか」
第50号
復活された主イエスは、ガリラヤの海辺で弟子たちにご自身を現されました。そして食事を共にされた後、ペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。ペトロは主イエスが十字架につけられる前、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言いました(マタイ二六:三三)。しかし、主イエスが捕らえられると、この人を知らないと三度も否みました。ペトロは「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。主イエスの使われた愛という言葉はギリシャ語で「アガペー」でした。しかし、ペトロは「フィレオー」の愛で答えています。二度目に主イエスは「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われました。ペトロはやはり主イエスのアガペーに対しフィレオーの愛で答えています。三度目に主イエスは「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われました。主イエスはここではアガペーではなくフィレオーを用いておられます。ペトロは「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたは良く知っておられます」とフィレオーで答えています。
ヨハネの福音書は「初めに言があった。…万物は言によって成った」ではじまり、「わたしを愛しているか」で終わっています。そして、その中心は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ことです。わたしたちの創造者である神がわたしたちの贖罪者でもあります。神は十字架によって真実の愛をわたしたちに教えます。自らの命を棄てることによって、わたしたち罪人に永遠の命を与えられたからです。その神が「わたしを愛しているか」と言われるのです。
2004年4月18日日曜日
ヨハネ20章1-18節「わたしは主を見ました」
第49号
〈イースター礼拝〉
主イエスは十字架につけられ墓に葬られましたが、三日目に甦られました。しかし、復活後は生前とはどこか違っていました。マグダラのマリアは園丁だと思いました。また、ガリラヤに戻り、再び漁師となった弟子たちは、岸辺に立ち、声をかけられた方が誰だか分かりませんでした。そして、エマオ途上にあった二人の弟子も、道中一緒にいたにもかかわらず、その人が主イエスだとは気が付きませんでした。彼らは名前を呼ばれたり、食事の時にパンを裂くその様子を見て、初めて主イエスであることを知ったのです。
主イエスは復活し、まずマグダラのマリアにご自身を現わされました。このマリアは以前、七つの悪霊に取りつかれていました(マルコ一六:九)。彼女は自分の身体を売って生きていたとも言われ、精神的な病で苦しんでいたとも言われています。いずれにせよ、苦しみと暗黒の生活を送っていたことには違いありません。人から生きる価値のない人間だと思われ、自らもそのように認めていたのです。人々から好奇の目で見られ、いとまれ、さげすまれ、笑い者になっていたのではないでしょうか。救いとは縁のない、いや救われるはずのない罪人でした。主イエスはそのような女を救われました。救われたマリアは、誰よりも熱心に、陰日なたなく主イエスに仕える者となりました。持っているものすべてを捧げ、主イエスに従う婦人たちの模範となったのです。しかし、そのような生活は長くは続きませんでした。主イエスは捕えられゲッセマネで十字架につけられたからです。十字架を担いでゴルゴタへの道を歩む後を、マリアは泣きながらついて行きました。マリアをはじめ、主イエスの母等、婦人たちは、主イエスを遠くから見ていましたが、いつしか十字架の下に来て立ちつくしました。墓に葬られた後も、その場を離れることが出来ませんでした。しかし、次の日が安息日であったため、彼女たちは三日目の朝早く墓に再び戻って来たのです。
主イエスが復活して最初にご自身を現されたのは、母マリアでも弟子たちでもく、マグダラのマリアでした。聖書には幸運の逆転について書かれてあります。人間的に力のある者、豊かな者が低くされ、弱い者、貧しい者が主にあって強くされ、豊かにされるのです。ハンナの歌やマリアの歌、山上の説教に見られます(サム上二、ルカ一:四六~五五)。聖書に出て来る偉大な人は、主によって強くされ大きな働きをしました。マグダラのマリアもまた、主イエスに出会い力強く生きることができるようにされたのです。
復活とは死んでいた者が生き返ることですが、それはマグダラのマリアだけではありません。主イエスと一緒に二人の男が十字架につけられましたが、その内の一人は主イエスに「この方は何も悪いことをしていない」、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。すると、主イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました(ルカ二三:四一~四三)。この人もまた、十字架の上で死んでいたのに生き返ったのです(ルカ二三:四〇~四三)。同じように主イエスの十字架の出来事を見ていた百人隊長も「本当に、この人は正しい人だった」と告白し救われました(ルカ二三:四七)。この人もまた生き返ったのです。アブラハムも同じです。主から一人息子のイサクを焼き尽くす献げ物としてささげるように命じられたとき、彼の心は死にました。そして、三日後、目的地に着き、まさにイサクに手をかけようとしたとき、主は代わりの羊を与えられました。アブラハムは主に会って生き返ったのです(創世記二二章参照)2004年3月21日日曜日
ヨハネ18章38b-19章16節「王と自称する者」
第48号
ユダヤ人指導者たちは主イエスを捕え、最高法院で裁くために大祭司カイアファのところに連れて行きました。自らを神の子としたその罪は死に値したのです(マタイ二六:六六)。しかし、彼らはその判決に従ってすぐに主イエスを処刑することはしませんでした。死罪でも極刑である十字架刑でなければならなかったのです。誰でも木にかけられるものは神に呪われたもので、そのような者がメシアであるはずはなかったからです(申二一:二三)。彼らは主イエスをローマ総督ピラトのもとに連れて行き、政治犯として裁くための正式な裁判を求めました。十字架刑に処することが出来たのはローマの裁判だけだったからです。
ローマ総督ピラトは主イエスを見たとき、これはユダヤ人の宗教的な事柄であって、彼はローマ帝国に反逆する罪を犯してはいないことをすぐに見抜きました。だれでも無実の人を十字架につけたくはありません。ピラトは主イエスに茨の冠をかぶせ、紫の服を着せ「見よ、この男だ」と皆の前に引き出しました。そして三度も「わたしはこの男に罪を見いだせない」と繰り返しました。また再三、この男は「あなたたちの王だ」と言い、自分たちの問題は自分たちで処理するように求めました。しかし、ユダヤ人指導者たちは民衆を扇動し、「十字架につけよ、十字架につけよ」と騒ぎたて、そして「王と自称する者は皆、皇帝に背いています」、「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」と叫び、ピラトがこの男を赦すなら彼自身もまたローマ皇帝に敵対することになると脅迫したのです。
エルサレムの治安の維持こそローマ総督ピラトの務めでした。民が暴動を起こすなら責任を問われ、その地位を失いかねません。また、ローマ皇帝は神とされ、それ以外の者が自分を王、あるいは神とするなら皇帝に敵対する者と見做されたのです。ピラトはローマ総督の地位を失う危険を冒してまで主イエスを救うことは出来ませんでした。そして、それが明白な証拠もなく、主イエスをローマ帝国に反逆する政治犯として訴えたユダヤ人指導者たちのねらいでもありました。ピラトは彼らの要求に屈して、無実の主イエスを十字架に引き渡してしまいました。
主イエスは自らを神の独り子とされ、神の権威で律法を解釈されて人々に教えられました。つまり神を愛し人を愛することがどのようなことなのかを説かれ、罪人の友となり、その家に入って一緒に食事をされました。また病気の人を癒され、自然を支配する力を示されました。しかし、ユダヤ人指導者たちの考えによれば、メシアはダビデのように王としてユダヤをローマ帝国から解放し、その神の国は世界に広がるはずでした。しかしながら、主イエスはそのような王として立ち上がることはなされませんでした。また、弟子たちにも剣を持って戦うことは赦されませんでした。このようなメシアはユダヤ人指導者にとって、「王と自称していた者」にすぎませんでした。そしてそれは、神を冒涜するものでした。そして、ユダヤ人指導者たちは多くの民が主イエスをメシアと信じ、自分たちから離れていったとき、主イエスをねたみ、恐れ、殺すことを決意しました。彼らもまたローマ総督ピラトのように指導者としての地位や名誉を守るため主イエスを十字架に引き渡したのです。
弟子たちが主イエスを「王」として理解するにはペンテコステの日を待たなければなりませんでした。その日以降、わたしたちは聖霊が人の内に住まわれることによって、その人を支配される主であり神であることを知らされたのです。
ローマ総督ピラトは主イエスを見たとき、これはユダヤ人の宗教的な事柄であって、彼はローマ帝国に反逆する罪を犯してはいないことをすぐに見抜きました。だれでも無実の人を十字架につけたくはありません。ピラトは主イエスに茨の冠をかぶせ、紫の服を着せ「見よ、この男だ」と皆の前に引き出しました。そして三度も「わたしはこの男に罪を見いだせない」と繰り返しました。また再三、この男は「あなたたちの王だ」と言い、自分たちの問題は自分たちで処理するように求めました。しかし、ユダヤ人指導者たちは民衆を扇動し、「十字架につけよ、十字架につけよ」と騒ぎたて、そして「王と自称する者は皆、皇帝に背いています」、「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」と叫び、ピラトがこの男を赦すなら彼自身もまたローマ皇帝に敵対することになると脅迫したのです。
エルサレムの治安の維持こそローマ総督ピラトの務めでした。民が暴動を起こすなら責任を問われ、その地位を失いかねません。また、ローマ皇帝は神とされ、それ以外の者が自分を王、あるいは神とするなら皇帝に敵対する者と見做されたのです。ピラトはローマ総督の地位を失う危険を冒してまで主イエスを救うことは出来ませんでした。そして、それが明白な証拠もなく、主イエスをローマ帝国に反逆する政治犯として訴えたユダヤ人指導者たちのねらいでもありました。ピラトは彼らの要求に屈して、無実の主イエスを十字架に引き渡してしまいました。
わたしたちの思い図ることは常にこの世のことです。ユダヤ人指導者だけでなく、三年間、主イエスと寝食を共にし、教えを受けた弟子たちですら、主イエスがいつ立ち上がるのかと、この世に神の国が来るのを待ち望んでいました。その意味で誰一人として主イエスを理解していた者はいませんでした。
わたしたちは地位や人々からの賞賛を求めて生きようとします。しかし、本当は死んで神の前に立った時「忠実な良い僕だ。よくやった」と言われるほうを大切にして生きなければならないはずです(マタイ二五:二一)。この世の目で見るなら主イエスは「王と自称する者」にすぎなくなります。しかし、心の目で見るなら、主イエスはわたしたちの「王」であり、メシアなのです。世界中で読まれている童話、サン・テグジュペリの「星の王子さま」では、きつねは「心でみなくちゃ、ものごとはよく見えない」と言い、王子さまも「目はなにも見えないよ。心でさがさないとね」と言っております。目で見えない霊の世界に大切なものが隠されているのです。弟子たちが主イエスを「王」として理解するにはペンテコステの日を待たなければなりませんでした。その日以降、わたしたちは聖霊が人の内に住まわれることによって、その人を支配される主であり神であることを知らされたのです。
2004年2月15日日曜日
ヨハネ16章16-33節「わたしは世に勝っている」
第47号
「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、主イエスはご自身の十字架の向こうに復活の命があることを御存知でした。それだけでなくご自身の十字架により、多くの人に命を与えることの出来る霊になられることを御存知でした(1コリ一五:四五)。それ故「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」のです(一六:七)。
わたしたちも弟子たちと同じように、自分の力で生きることが出来ない苦難の時こそ主イエスに助けを求め、祈る時です。その時、イエスがわたしたちの心の中に入って来てくださり、わたしたちに代わって生きてくださるからです。主イエスがわたしたちの心の内に住まわれる時、誰でも新しく創造された者となります。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じるのです(Ⅱコリ五:一七)。この主イエスによってわたしたちもまた世に勝つことが出来るのです。
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