2009年3月15日日曜日

マタイ28章1-10節「あの方は復活された

第107号

  〈イースター礼拝〉

 ユダヤ人指導者たちは主イエスが大工だったことを知っていました。彼らから見れば主イエスは人を教えるに必要な学歴も権威も持っていませんでした。しかも、自分を「神の子」とし、神と等しくしていたのです。それは神への冒涜であって死罪に当たりました。民衆は主イエスのなさった「しるし」を見て従いましたが、自分たちの言いなりにならないのを知ると離れて行きました。彼らにとって、主イエスは病気を癒してもらえるといった自分たちの利益にかなう者かどうかでしかありませんでした。主イエスの弟子たちは「あなたはメシア、生ける神の子です」、「あなたは永遠の命を持っておられます」と告白ました(マタイ一六:一六、ヨハネ六:六八)。しかし、彼らが信じるメシアは、イスラエルをローマから救われる政治的な王でした。弟子たちはこの世に神の国をつくり、主イエスと共にその国を支配することを願っていました。母マリアにとって主イエスはどのような存在だったのでしょうか。彼女にとって主イエスは何にも代え難い大切な我が子でした。マリアにとって十字架を見ることはどれほど大きな苦痛だったことでしょう。
 主イエスは十字架に付けられました。その上で動くこともできず、呼吸することすら困難でした。それは、弱さ、無力の極みで、そこから逃れるには死しかありませんでした。主イエスは人に捨てられ、神に捨てられたのです。その時代の誰がこのお方が神であると信じたでしょうか。今日、多くの人がそうであるように「このお方がどうして神なのか」ということでした。

 主イエスが死んで三日目の朝早く、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓のところに行きました。すると天使が現れ「あのお方は死者の中から復活された」、あなた方はそのお方に「お目にかかれる」、そのことを「確かに、あなた方に伝えました」と言われたのです。
 婦人たちはその言葉を弟子たちに伝えようと道を急いでいる途中、主イエスが彼らの前に立たれました。婦人たちは主イエスの足を抱き、ひれ伏しました。「ひれ伏す」とは「礼拝」であって、自らの命を差し出すことです。それは神に対してだけなされる行為でした。主イエスは彼らの礼拝を受けられたのです。
 婦人たちは復活された主イエスの「証人」となりました。わたしたちは聖書を読み、説教を聞くことによって「信じる」ことができます。しかし、復活の主イエスに出会うことなくしてそのお方の「証人」となることはできません。
 復活の主イエスに出会うことによって、わたしたちはそれ以前の自分とは変わります。わたしたちは、神は天地を創られたのだから、その神が主イエスを死から甦らせることはできる、と信じていました。しかし復活の主イエスに出会うことは「このお方によって天地は創られた」と信じることができるようになるのです。このお方が世界を保持され支配されているのです。天の父と御子イエスは同じ神であって、創造と救済が結びつくのです。神は創造の初めに「光あれ」と言われましたが、同じように混沌とした闇の世界に「神の子」である主イエスが「光」となって来られました。このお方は十字架の死を避けることができたにもかかわらずその力を行使されませんでした。それはこれ以外にわたしたち人間の罪を赦す道がないのを知っていたからです。わたしたちは十字架に「人の子」である主イエスの弱さと共に、「神の子」である主イエスの力とわたしたちへの愛を見るのです。

 主イエスは「神の子」であり「人の子」でした。「人の子」である主イエスはすべての人が見ることができました。エルサレムに住んでいた人は誰でもゴルゴダに行けば十字架に付けられた主イエスを見ることができたのです。「人の子」である主イエスは再びこの世に来ると約束されましたが、その時にも、その有様はすべての人の目に見えることでしょう(ルカ二一:二七)。
 復活された「神の子」である主イエスの姿は多くの人の目に隠されています。主イエスの弟子や母マリアですら復活の主イエスに出会うまで、主イエスが神ご自身であるとは思ってもいませんでした。復活されたこのお方は死に勝利された生ける神でした。主イエスは二人の婦人だけでなく弟子たち、そして多くの人たちご自身を示され、今日に至っています。
 わたしたちもまた、そのことの「証人」です。「あのお方は復活された」のです。「あなたも会うことができる」のです。そして、わたしたちは「確かにあなた方に告げました」。それがわたしたちの教会の「証し」なのです。
 わたしたちは死んでしまったお方の教えを学んで今、生きる糧にしている訳ではありません。今生きておられるそのお方の御言葉に従っているのです。

2008年3月16日日曜日

ヨハネ13勝1-20節「あなたがしたこと」

第95号

 過越祭は、今日の暦で三月下旬から四月の中旬にあたるユダヤ暦のニサン月の一五日から二二日までの一週間でした。種なしパンの祭りとも呼ばれました。一四日の午後、神殿で屠られた羊を各家庭で焼き、その晩食べました。ユダヤでは日没と共に新しい日がはじまったので、日付が一五日に変わりました。
 主イエスはこの食事を弟子たちと一緒にとられましたが、共観福音書と違ってヨハネによる福音書ではその祭りの「前のこと」となっています。主イエスは、「食事の席から立ち上がって上着を脱」いで、弟子たちの足を洗いはじめました。洗足についてはヨハネによる福音書だけに記載されています。そして「弟子たちの足を洗ってしまうと上着を着て、再び席に着」かれました。主イエスの洗足は「上着」で括弧として囲っています。
 「上着」、「衣」は聖書では特別な意味があります。アダムとエバは罪を犯した後、「裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うもの」にしましたが、神はその葉に代え「皮の衣を作って着せられ」ました(創世記二、三章)。ヨセフ物語では、ヤコブはヨセフに「裾の長い晴れ着を作」りましたが、兄たちはこの「晴れ着をはぎ取り」、「雄山羊を殺してその血に着物を浸し」、それを「父のもとへ送り届け」ました(三七章)。福音書には、ガリラヤ湖で漁をしていたシモン・ペトロは、復活された主イエスのところに行こうと「上着をまとって湖に飛び込んだ」とあります(ヨハネ二一:七)。ガラテヤ書には「あなたがたは皆、キリストを着ている」とあり(三:二七)、黙示録には「あなたがたは裸の者であることが分かっていない」、「裸の恥をさらさないように」、「勝利を得る者は…白い衣を着せられる」などと書かれています(三:五、一七、一八)。
 食事も聖書では霊的な交わりの意味でしばしば用いられます。このようなことからわたしたちは、主イエスは天で父と完全な充足にあったこと、そこから立ち上がり、神の栄光、権威、力を棄てて人となってこの世に来られたこと、その目的は、わたしたちの足を洗うためであったことが分かります。

 足を洗うのは奴隷の仕事でした。しかも異邦人奴隷にだけ求められているものでした。それを彼らの主であるイエスが弟子たちにしたのです。彼らはさぞかし驚いたことでしょう。ペトロのところに来ると彼は、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言いました。わたしの足を洗うにはおよびません。あなたのしていることは良く分かりました、という意味でした。
 他の弟子たちも同じですが、そのようにペトロが言ったのは、主イエスの宣べ伝えた神の国はこの地上に実現すると信じていたからです。メシアである主イエスは、イスラエルをローマ帝国の頸木から開放し、エルサレムにご自身の国を樹立され、さらにこの王国は近隣諸国から全世界に広がると信じていたのです。彼らの関心は、その暁には自分たちの内、誰が一番高い地位に着くのかというものでした(マタイ二〇:二〇~二八)。弟子たちは主イエスの洗足をこの観点からのみ理解し、自分たちに神と人に仕えるということはどういうことかを教えたものと思い込んでいました。
 しかし、主イエスはペトロに「わたしがしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。主イエスの洗足は、もし「人に仕える」ことを教えるだけなら、一人の弟子の足を洗い、「皆もこのようにしなさい」と言えばそれで十分でした。

 洗足の本当の意味が分かるようになるためには、主イエスの十字架と復活、そしてペンテコステの出来事を待たなければなりませんでした。主イエスは「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」と言われましたが、十字架と復活は、神ご自身が人となってこの世にこられたことを示しています。その目的は「神の国」を伝えるためで、主イエスの再臨の時、「この世」は「新しい天と新しい地」に取って代わること、それまで教会がこの世に「神の国」として現在するのです。
 十字架はわたしたちの罪を贖うものです。わたしたちがこの「神の国」の民となるためには少しの罪があってはならないのです。主イエスの復活はわたしたちも復活することを教えています。主イエスが弟子たちにしたことは十字架で弟子たちの命を贖うことで、それが洗足でした。このことに目が開かれるなら、わたしたちもまた主イエスと同じように、「神の国」のためにこの世に遣わされた者となります。それが隣人への洗足で、わたしたちが御国に入る前に「あなたがたにしたこと」になるのです。

2008年2月17日日曜日

コロサイ書4章7-18節「熱心に祈っています」

第94号

  
パウロはこの書簡の結びの中で「あなた方の一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」と書いています。
 パウロは第三次宣教旅行で三年間エフェソに滞在しました。パウロの伝道の特徴は大都市を中心に行い、その教会で育った人たちを周囲の町々に遣わすというものでした。エパフラスもその一人でした。エフェソにいた彼はパウロによって福音に接し、故郷コロサイに戻って伝道をはじめました(一:七)。
 しかし、彼の教会に自分が救われた福音とは異なった教えが入って来ました。彼はこの問題を解決するためローマの獄にいたパウロに会いに行きました。パウロは彼の話を聞いてこの手紙を書きティキコとオネシモに託しました。

  イスラエルの王ダビデも祈りの人でした。「ダビデはその子のために神に願い求め、断食」しました(サムエル下一二:一六)。「その子」とはウリヤの妻バト・シェバとの間に出来た「ダビデの子」で、ダビデは自分の犯した罪を覆い隠すために彼女の夫を殺しました。ダビデは地面に横たわり、その子が助かるようにと祈り続けましたが、七日後に死にました。
 パウロも自分の「身に一つのとげ」が与えられたとき、そのとげをとってくださるようにと「三度主に願いました」(二コリ一二:七)。しかし、主イエスはその祈りに応えられませんでした。
 主イエスご自身、ゲッセマネの園で「この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました(マルコ一四:三六)。「汗が血の滴るように地面に落ちた」激しい祈りに、天の父は応えてはくださいませんでした(ルカ二二:四四)。
 祈りは時としてわたしたちがどれほど熱心に祈ったからといって聞き届けられるとは限りません。わたしたちが祈っても祈らなくても神の御心がなされるとするなら、祈ることの意味はどこにあるのでしょうか。祈るより、どのようなことが起こっても、それを主の御心として受け止めることができますようにと、祈ったほうがいいのかも知れません。
 しかし、主イエスは弟子たちに「目を覚まして祈っていなさい」と言われました。彼らは主イエスが祈っている時、寝ていたからです。わたしたちも祈らないのであれば、主イエスから同じ叱責を受けるのではないでしょうか。
 ダビデは祈りによって、「その子」が自分の罪の身代わりになったことを受け入れました。主は「その子」によってダビデとバト・シェバを生かされたのです。「バト・シェバは(再び)男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付け」ました。パウロの肉体の「とげ」は、彼に啓示された事が余りにもすばらしかったため「思い上がることのない」ためでした。主イエスの祈りも「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心がなされますように」と続きました(マタイ二六:四二)。
 多くの人は、「わたしは配偶者のため、子供のために、隣人のために祈っている」と言われるかもしれません。しかし、それが単に、彼らが救われれば嬉しい、一緒に教会に行ける、人生の目標、価値観を共有できるというだけであるなら、このような祈りから神中心の祈りに変えられる必要があります。わたしたちは皆、ダビデと同じような罪を犯しながら、自分では気が付くことがありません。そのため主イエスの十字架の意味が分かりません。「ダビデの子」である主イエスだけが罪の結果である神の怒りからわたしたちを救うことが出来るのです(マタイ一:一)。

 エパフラスの祈りは対象が明確でした。コロサイの教会の人たち、そしてラオデキアとヒエラポリスの人々のためでした。そして何を求めて祈っているのかも明確でした。彼らが「完全な者」となるようにということでした。主イエスの血潮だけがわたしたちの罪を清め裁きの日に「完全な者」として御前に立つことが出来るようにするのです。エパフラスはまた「神の御心を全て確信しているように」と祈りました。パウロがこの書簡で解き明かした「神の永遠の計画」を知ることです。それは主イエスを知るように、ということです。主イエスに無尽蔵の富、永遠の命が隠されているからです。
 ダビデの祈りも、パウロの祈りも、「神の秘められた計画」を知るという目的を達成しています。その意味において、かなえられない祈りはありません。わたしたちの祈りも全てかなえられるのです。ですから絶えず目覚めていて、熱心に祈らなければなりません。

 

2008年1月20日日曜日

コリント二5章16-21節「新しく創造された者」

第93号
  年頭のテレビや新聞では環境問題が多く取り上げられていました。課題は、地球の温暖化を防ぐために、どのようにして二酸化炭素の排出量を抑えたらよいのかということです。中国は二〇〇七年には、アメリカを抜いて世界最大の二酸化炭素排出国となるようです。中国とインドが二〇三〇年までには増加する排出量の五十六%を占めるといわれています。両国は「地球温暖化は先進国が招いている問題であって、われわれが二酸化炭素排出量の規制を受けることも、これによって発展が制約されることもない」という立場です。中国の一人当たりの排出量は先進国の約三分の一です。インドに至っては十一分の一の量に過ぎません。インドでは一日一ドル以下で暮らす貧困層は三億人、電気のない生活をしている人は六億人といわれます。中国の貧困層は一億三千万人だそうです。先進国は、自分たちと同じような生活水準を目指しているこれらの発展途上国の経済成長を抑えることはできません。
 温暖化や大気汚染といった環境破壊のため、わたしたち人間が地球に生存できなくなる日が遠からず来るといわれています。しかも少しずつ来るというのではなく、突然、その限界に達し、後戻りできなくなるといわれています。

 聖書もまた、この世の終わりの日が来ることを告げます。それは環境破壊によるものではなく、主イエスの再臨によってです。神は「その日」を定めておられます。わたしたちにとって「神との和解」がなされているかどうかが問われる日です。「神との和解」がなされている人にとっては救いの日となり、そうでない人にとっては裁きの日となるからです。
 わたしたち人間は生まれつき神に敵対して歩んでいます。その思考、判断、行動、いずれも自己中心で自分を神としているからです。それ故、自分以外の神を信じることは出来ません。自分以外の神に従うことは、自己を否定することに他なりません。真実の神に従うなら、今までの生活や贅沢な暮らしと決別し、最も大切と思っているものですら捧げることが求められるかも知れないからです。
 主イエスに従った十二弟子たちもまた、自分中心の罪から逃れることは出来ませんでした。主イエスと共に「神の国」を支配することを夢見ていたからです。そのため自分たちの思いがかなわぬと知るや、主イエスを見捨ててしまいました。わたしたちもまた同じように、主イエスに自分を捧げるのではなく、主イエスを自分に仕えさせようとします。
 このようなわたしたちが本当の意味で救われたのは、聖霊によって神である主イエスの力を認め、その前にへりくだるということが起こったからに他なりません。神との和解は、自らを神としていたその罪を認め、主イエスに全てを委ねて従う決心をした時にもたらされます。

 今日、江戸時代の生活が見直されています。経済成長率がゼロの時代でした。生活必需品のほとんどは生涯、いや二代、三代に渡って使っていました。また農作物などの生産も自然のサイクルを最大限利用していました。庶民の間にも寺小屋教育は広まり、多くの人が読み書きそろばんが出来るようになりました。平和な時が続き文化も発展しました。
 もちろん問題も多くあったことでしょう。しかし、環境問題に直面するわたしたちの参考になる生き方がそこにはありました。しかし、そうであっても、その時代に戻ることは不可能です。そうするには、わたしたちは今享受してる便利な生活や、自分の持っているものを捨てることが求められるからです。
 「神との和解」は、わたしたちに神の霊と共に新しい命をもたらしました。それはわたしたちがこの世ではなく、永遠の命に生きるようにされるということでもあります。その結果、この世で持っている最も大切なものですら人に分け与えることが出来るようになるのです。マザーテレサはインドの貧しい人のために自分の生涯を捧げました。内村鑑三は戦争に突き進むかつての日本にあって命をかけて非戦論を唱えました。
 自己中心であるわたしたちには、神のため、また人のために自分を犠牲にする力が生まれつき備わっているというのではありません。「神との和解」によって私たちの内に与えられた聖霊によって変えられ、「新しく創造された者」となるのです。
 「新しく創造された者」には、「神との和解」の務めをなす使命が与えられます。人を恐れず福音を語るなら、必ず実を結ぶのです。環境問題などによって、人類の生存の危機が叫ばれているこの時代は、神の国の福音を一人でも多くの人に語ることの出来る良い機会をわたしたちに提供しているのではないでしょうか。

2007年12月16日日曜日

ルカ1章26-38節「あなたと共におられる」

第92号

 神は天使ガマリエルをガリラヤのナザレという町に住むマリアに遣わし、言われました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」のです。何か良いことをしていたのであれば、「ああ、そのことか」とこの言葉を素直に喜ぶことができたでしょう。あるいは、何かの目標に向かって一生懸命だったなら、そのことを認めてくれた、と思えたことでしょう。しかし、マリアには何故このような祝福を受けるのか分かりませんでした。ナザレという田舎町で育ったマリア、彼女には神からこのような言葉を受けるに値するものは何一つなかったのです(ルカ一:四八)。
 ガブリエルはマリアに「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子といわれる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることはない」と言われました。それは「マリアよ、喜びなさい。あなたが身ごもる子は聖書で約束されたメシアなのです」ということでした。
 ガブリエルの言葉は、もしマリアが既にヨセフと結婚していて、ヨセフとの間に出来る子がそうなのだというのであれば、素晴らしいものでした。しかし、これはマリアがヨセフと結婚する前に子が生まれるというものだったのです。今と違って、未婚の女性が身重になることは赦されない時代でした。本人の問題だけでなく、家族の恥であり、家長の責任でした。事実、マリアが身ごもったと聞いたヨセフは「縁をひそかに切ろうと決心した」のです(マタイ一:一九)。これはヨセフがマリアの子を自分の子と認めたうえで離縁しようとしたということでした。ヨセフがマリアのことを公にしたなら彼女は死罪を免れないでしょう。義人ヨセフはマリアがそのような目に遭うのを望まなかったのです。
 マリアはガブリエルに答えました。「どうして、そのようなことがありえましょう。わたしは男の人を知りませんのに」。信仰の原則は「神から与えられるために、自分の持っているものを先ず捨てる」ということです。ガブリエルの言葉が成就するためには、マリアがヨセフとの結婚の夢を捨てなければなりませんでした。それどころか自分の命すら捨てる覚悟が求められました。わたしたちはどうでしょうか。クリスチャンであっても「天使ガブリエルよ、とんでもないことです。わたしにはヨセフといういいなずけがいます。わたしではなく他の人にしてください」と言うのではないでしょうか。多くの人の場合、信仰は自分の利益が守られる範囲内、という前提に立っています。しかし、本当の信仰者の生き方は主イエスのためにどれだけ損をするかによって決まります。神のために何かを捨てるなら、神がそれを補ってくださって余りあるのです。マリアがヨセフとの結婚だけを考えていたら、主イエスにある本当の幸せを見つけることが出来たでしょうか。
 ガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、歳をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神には出来ないことは何一つない」と言われました。ヨセフはマリアと縁を切る決心をしました。しかし、ガブリエルがヨセフに夢で現れ「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言われました(マタイ一:二〇、二一)。
 身ごもったマリアが「わたしを信じて」と言ってもヨセフはその言葉を受け入れられなかったでしょう。マリアに「恵まれた方」と言われたお方は、彼女が毎日幸福に楽しく生きられると約束した訳ではありません。マリアは、神であり、自分の息子でもある主イエスの十字架を見なければなりませんでした(ルカ二:三五)。しかし、主イエスは死から復活されました。そして天に上げられ、彼女の心の中に霊として入って来られました。「主イエスはマリアと共におられる」のです。この約束は地上にいる間だけでなく、死んでからも永遠に続くのです。
 マリアはガブリエルに「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言いました。この言葉により、マリアが素晴らしい女性であるのが分かります。神がナザレのマリアにご自身の子を託されたという訳が分かります。
 主イエスはわたしたちにも「恵まれた人よ」と言われます。主イエスが共にいてくださる」からです。クリスマスにこの世に御子を送られた天の父に感謝します。

2007年11月18日日曜日

コロサイ書1章9-23節「御子は最初の者」

第91号

 肉体の死によってわたしたちの「いのち」は終わるのでしょうか。それとも復活はあるのでしょうか。古今東西多くの人が抱いて来た疑問です。科学では証明できませんし、自分は死から甦った、復活はあると言われても信じられないことです。
 主イエスの時代、ファリサイ派の人たちや律法学者たち、また一般の多くの人たちは復活を信じていました。しかし、サドカイ派の人たちは信じていませんでした。天使や霊の存在も信ぜず、魂は肉体と共に滅びると信じ、未来の応報も否定していました。彼らはモーセ五書のみ信じていたからです。
 サドカイ派の人たちはダビデ時代の祭司サドクの子孫と言われ、祭司長を代々務め、祭司の職を独占して来ました。最高法院の議員を多く占め、神殿を拠点に政治的実権を握り、数は少なくても社会の指導的役割を担っていました。使徒言行録には、パウロが主イエスは復活したと宣べ伝えたため、最高法院で弁明を求められた出来事が書かれています(二二:三〇~二三:一一)。パウロは議員がファリサイ派とサドカイ派の人々だったので、彼らの教義上の違いである「復活はある」、「ない」の問題に議論を転換させてしまいました。

 主イエスは愛するマルタとマリアの弟ラザロが死んだとき、マルタに「あなたの兄弟は復活する」と言われましたが、それに対するマルタの答えは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」でした。それが当時の人々の復活についての一般的な考えでした。ですから「その石を取りのけなさい」と主イエスが言われると、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と答えたのです(ヨハネ一一:一~四四)。主イエスはラザロを復活させました。それは御自身が「いのち」であり、死者を甦らせるお方だからです。マルタだけでなく弟子たちもまた主イエスがそのようなメシアであるとは考えていませんでした。
 カイザリア・フィリピに行った後、主イエスは弟子たちに繰返し自分はエルサレムに行き、苦難を受け十字架につけられ、三日目に復活すると教えました。弟子たちは、主イエスはエルサレムで神の国を樹立すると信じ、その暁には自分たちも主イエスと共に神の国を支配すると考えていたので、主イエスの言葉の意味を理解することはできずにいました。彼らは主イエスが大祭司たちに捕らえられると、見捨てて逃げてしまいました。主イエスは一人、十字架につけられ、死んで墓に葬られました。三日後、主イエスは前もって言われていたとおり復活されましたが、弟子たちは誰も信じませんでした。彼らが信じたのは復活した主イエスと出会ったからです。そして雲に包まれ天に昇るのを見ました。ペンテコステのとき約束の聖霊を受けて彼らははじめて伝道に立ち上がり、自らを「主の復活の証人」と呼んだのです(ヨハネ二〇:二八)。

わたしたちの信仰は「主は復活された」という事実にかかっています。主イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました(マタイ一六:二四)。その行き着く先が十字架の死で終わるなら誰も主イエスに従うことはできません。それは呪いの死に他ならないからです。しかし、主イエスは復活されました。それによって、主イエスはご自分の罪のない身体によってわたしたちの罪を確かに贖われたこと、また、わたしたちも復活することを示されました。十字架は命への道となりました。主イエスは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われるのです(二五、二六)。
 主イエスは十字架に渡される前夜、弟子たちの足を洗われ、それが神の国であると教えられました。弟子たちの理解する神の国は、ローマの頸木からイスラエルを解放することでした。主自らが人々の上に君臨すると思っていたのでした。そのため、主イエスを理解することができませんでした。
 そのような彼らに、主イエスは十字架の上から、「父よ彼らをお許しください、彼らは何をしているのか分からないのです」と言われました。主イエスは神であるにもかかわらず最も弱い者となりました。そして謙虚な者、愛の人としての生涯を全うされました。それ故、天の父は御子を復活させられたのです。「御子は最初の者」となり、わたしたちの初穂となられました。
 復活された主イエスは、今、生きておられ、わたしたちと交わりを持つことがおできになるのです。主イエスを信じる「神の国」の民はペンテコステ以降、教会としてこの世に実現しました。教会は新しい天と新しい地のこの世での先取りです。わたしたちの国籍は天にあるのです。

2007年9月16日日曜日

フィリピ書2章12-18節「自分の救い」

第89号
 
 パウロはフィリピの人たちに「わたしの愛する人たち、…従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧めます。このことは「救われていないあなた方が救われるように」ということでも、「救われているあなた方が、その救いから漏れることのないように」ということでもありません。「あなたがたの救いは確かなこと」だからです。
 わたしたちは、救われるためには自分の努力や決心が大切と考えがちです。教会に行き、聖書を読み、祈ることで、また、自分は正直で、素直で、謙遜だからとか、何らかの「取り柄」があったからと考えるのです。
 確かに、わたしたちは喉が渇けば水を飲むこともできますし、人生がいやになれば窓から飛び降りることだってできます。しかし、救いはそのようなことではありません。
 わたしたちは罪という「泥沼」の中に生きているのです。右足を上げようとすれば左足が沈み、左足を挙げようとすれば右足が沈みます。その中で立ったり座ったり、手、足を動かしたりしているのです。それは自由ではありません。泥沼から出ることができないからです。わたしたちは神によってのみ泥沼から救われ、しかも岸に上がってはじめて自由になったことを知るのです。罪からの救いは人間の意志や努力ではできません。主イエスに出会って、初めて、自分が救われたのは神の選びと恵みであったことに気がつきます。救いは、神がその全ての主権を握っているのです。

 モーセに率いられて出エジプトを出たイスラエルの民は人種や民族の異なる雑多な人たちでした。彼らは紅海を渡って荒野に出て行くことにより、イスラエル、すなわち神の民、律法の民、契約の民となりました。荒野で彼らはすぐに喉の渇きを覚えました。そして、飢えを覚えました。そこには何の楽しみもありませんでした。家族の団欒すらなかったのです。神は彼らを水と、マナで養いましたが、民は神とモーセに絶えず不平を言い、つぶやきました。そのため、最初の世代はカレブとヨシュアを除いて全て荒野で滅ぼされました。荒野で生まれて育った新しい世代が、ヨルダン川を渡って乳と蜜の流れる約束の地に入ることが許されました。
 出エジプト記に書かれていることは、キリスト者の生活に重なります。わたしたちはこの世から出てきて洗礼を受け、教会の民となりました。キリスト者の歩みを始めたわたしたちが最初に経験するのは「霊的な渇き」です。この「心の空白感」を肉欲、仕事、地位、名誉、財産などで癒そうとしてもできません。それができるのは主イエスだけです。主イエスは「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。…その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました(ヨハネ四:一四)。
 この世で自分がキリスト者であることを告白するなら、仕事に支障をきたしたり、生活していく上で困難なことが起こるかもしれません。わたしたちは時が良くても悪くても主イエスを証しなければなりません。その結果として受ける損失をあらかじめ覚悟しておかなければなりません。主イエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われました(ヨハネ六:五三、五四)。主イエスはわたしたちを、天からの食べ物、マナで養われるのです。
 キリストに従うことにより自分の好きな生き方ができなくなるかもしれません。たとえそうであっても、それに代わる霊的な喜びが与えられます。棄てるものより得るものの方がはるかに大きいのです。
 わたしたちは初めから主イエスに従順に生きることはできません。主イエスに反抗する古い自分に死んで、新しい自分に変わらなければなりません。野生の馬は乗り手を落とそうと暴れますが、調教されることによって従順な馬に生まれ変わります。主イエスに従うことにより、神の国の民にふさわしくされるのです。

  「自分の救いを達成するように努めなさい」とは、「従順さを追い求めなさい」ということです。「従順」とは自分の持っているものを全て棄てて、主イエスに従うことです。主イエスは神であるにも関わらず持っている栄光と権威を棄てて人となられました。神が人と結ばれ、元に戻ることはできません。そのようにしてまで人を救われようとされたのです。この主イエスと一緒に生きるとき、それに伴う苦難はあっても喜びがあります。
 「救いの達成」は、他の人の救いと密接な関連があります。主イエスに従順に生きることによって、多くの人を救いに導くことができるようになるからです。わたしたちの救いは決して個人的な出来事ではありません。