2014年9月21日日曜日

ヨハネ12章24〜26節「一粒の麦」

 172号
 主イエスが十字架につけられたのは過越祭の前日でした。祭りの前に数人のギリシャ人が主イエスを訊ねて来たのですが、それを知った主イエスは、弟子たちに、「人の子(御自身)が栄光を受ける時が来た」と言われました。「栄光」とは神であることを現すことで、それは十字架の出来事でした。
 主イエスは神が人となってこの世に来られたお方でしたが、母マリアや弟子たちを含めて誰一人としてそのことは理解出来ませんでした。わたしたち人間は、自分の力で主イエスを神と認めることは出来ないのです。信じる為には神からの力が働かなければなりません。
 洗礼者ヨハネはわたしの後から来るお方はわたしより偉大である、「わたしは水で洗礼を授けに来た」が、そのお方は「聖霊によって洗礼を授ける」と言いました。ガリラヤのナザレから出て来た主イエスは、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けましたが、ヨハネは、主イエスの上に聖霊が降るのを見て、初めて「このお方は神の子である」と証ししたのです。

 旧約聖書では「神の義」が強調されています。「義」とは「正しい」ことです。神はイスラエルの民に十戒(律法)を与えられ、それによって神の民にふさわしく歩むように求められました、しかし、「義」は「裁き」でもあります。与えられた神の基準に沿って生きることが出来なかった民はアッシリアとバビロニアによって滅ぼされたのです。
 そのような民に神は救い主が与えられると約束されていました。そのお方こそ主イエスで、新約聖書はその約束が成就したことを教えます。主イエスは御自身の命(十字架)でわたしたちの罪の身代わりとなられました。わたしたちはその贖いを信じることによりもはや罪に定められることはないのです。そこに神の愛があります。
 主イエスは御自身の死は人々に大きな益をもたらすと言われました。その益とはわたしたちの罪の赦しだけでなく、「弁護者」を与えられることでもありました(ヨハネ一四章参照)。そこで、主イエスは「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われました(一六節)。「弁護者」とはギリシャ語で「パラクレィト」、ラテン語で「アドボケイト」です。「慰め主」、「助け主」、「忠告者」、「カウンセラー」で、「この方は、真理の霊」なのです(一七節)。墓から三日目に復活された主イエスは弟子たちに四〇日間、復活の御自身を示されましたが、エルサレムを離れないで約束の聖霊が与えられるのを待ちなさいと言われました。その約束は主イエスが天に上げられた一〇日後のペンテコステで成就したのです。聖霊が与えられるということはわたしたちのうちに神が人格として留まることで、神と一体となることです。それによって新しい創造物とされるのです。
 八月一一日から一八日までインドネシアの西カリマンタンに行って来ました。一七日の日曜礼拝はプニティ・アタナシウス教会で守りましたが、この教会は一人の日本人宣教師の死によって生まれたのです。その方は、安東栄子師で、彼女は長い祈りと準備の末、この地に遣わされました。しかし、二年後、教えていた神学校の卒業式の翌日、自動車事故で亡くなりました。その彼女の意志をついだ神学校の卒業生たちの働きによって教会が生まれました。しかし、その教会は地元の人たちの焼き討ちに遭いました。イスラムの人たちが多く住む極めて伝道の困難な地域で、その人たちにとって教会は自分たちの信仰に敵対するものでしかなかったのです。その反省に立って新しい教会が建てられました。主イエスは「神の言」であって、神御自身であることは強調しません。イサクに信仰が継承されたことを強調するのではなく、兄であるイシマエルと同じアブラハムの子であることを強調するのです。一緒に生活し、彼らと労苦を分かち合い信頼関係を築くのです。そうすることによって初めて彼らは福音に耳を傾け、教会を受け入れることが出来るようになるのです。

 旧約の神は「敵に報復し、仇に向って怒りを抱かれる」お方でした(ナホム書一章二節)。しかし、神はその怒りをわたしたちにではなく、その罪の全てを御子である主イエスに負わせたのです。主イエスは十字架の上で、父よ、彼らは間違っています、彼らを裁いて下さい、とは言われませんでした。自分を十字架につけた人たちに向って「父よ、彼らをお赦し下さい」と言われたのです。御自身の死で彼らの身代わりとなられたのです。
 ギリシャ人が主イエスのところに来たのは、異邦人の救いの時が来たことを教える為でした。ユダヤ人たちは彼ら異邦人が救われるまで、尚しばらく律法の世界に留まらなければなりません。しかし、異邦人たちはもはや正しい行いではなく主イエスの救いを信じ信仰によって救われるのです。

 罪とは正しい行いで神の前に自分を義としようとすることです。わたしたちは聖霊を受けて初めてそのような罪を悔い改め、救われるのです。わたしの為に死んで下さったお方が一緒におられるのを知るようになるからです。誰も自分と神の二人の主人に兼ね仕えることは出来ません。自分に死に、神の為に生きようとすることは「一粒の麦」となることです。

2014年7月20日日曜日

使徒13章1〜12節「二人の上に手を置いて」

 第171号

 パウロの第一次伝道旅行の始まりです。パウロはその後、続いて第二次、第三次伝道旅行を行いましたが、その時はこの地域からアジア、ギリシャ(マケドニアとアカイア)に足を延ばしました。わたしたちが不思議に思うのは、このような大きな働きをしたのが十二使徒の一人ではなく、月足らずで生まれた使徒パウロだったということです。
 アンティオキア教会にはパウロと共に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン等が色々な国から集まって来ていました。彼らが礼拝していると聖霊が、バルナバとサウロをわたしの決めていた仕事に当たらせなさい、と命じました。「そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」のです。
 彼らと助手として同行させたヨハネ(マルコ)の一行が最初に向かったのはキプロス島で、バルナバとマルコの故郷でした。そこで彼らは地方総督セルギウス・パウルスに会いました。しかし、彼に仕えていたバルイエスという魔術師が二人の邪魔をしました。パウロが叱責すると彼の目は見えなくなりました。それを見たパウルスは驚き、主の教えを信じました。

 教会はペンテコステの日に聖霊が使徒たちに降ることによって始まりました。その時から彼らは大胆に宣教を開始したのです。ペトロの説教で信じた人たちは三千人を数えたと言います。彼らは皆、信心深いユダヤ人でパルティア、メディア、エラムなどアッシリアの各地からエルサレムに帰って来ていた人たちでした。その日以降、使徒たちの働きで信じる者の数は増えていきました。それに伴いエルサレムの教会ではギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の間で日々の分配のことで問題が起こるようになりました。それはやもめたちへの食事の量の不公平だけではなく、信仰の違いがあったからでした。ユダヤ教を信じ、その律法と神殿生活を厳格に守って主イエスを信じる人たちと、キリストを信じる信仰だけで救われると信じる人たちとの争いであり、割礼の有無が救いに必要かどうかということでもありました。
 そのような時に極めて大きな出来事が起こりました。ステファノの殉教でした。石で打たれる直前の彼の説教には、律法でなく主イエスによる救いが述べられています。ステファノの死を契機に教会への大規模な迫害が始まりました。使徒を除く信者たちはユダヤとサマリア地方に散っていったのです。使徒たちが教会に留まることが出来たのは神殿を中心とした生活をしていたからです。しかし教会から散っていった人たちはもはやユダヤ人のように律法に従う生活をしていませんでした。
 パウロはステファノの殺害に賛成し、石を投げる人たちの上着の番をしていました。パリサイ派の熱心な一員であった彼はなおもクリスチャンへの弾圧を続けていました。そしてクリスチャンを捕縛しエルサレムに連れて来る権限を祭司長からもらい、ダマスコに行く途上、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの声を聞いたのです。パウロの母国語はギリシャ語で、生まれはキリキアのタルソでした。彼の説教はステファノと同じで、異邦人はユダヤ教によるのではなく、ただ主イエスを信じる信仰によって救われるというものでした。
 エルサレム教会は次第に衰退に向かい、特にその傾向は西暦七〇年のローマ・ユダヤ戦争以降に強まり、代わってアンティオキヤ教会と言った異邦の地にある教会の力が強くなっていきました。使徒たちもエルサレムから散っていきました。パウロはローマ、そしてトマスはインド、マルコはエジプトに行ったと言われます。ヘブル語を話す多くの使徒や信者たちはアッシリアを中心とする東方に向かいました。そこにはアッシリアとバビロン捕囚の時、連れて行かれた多くのユダヤ人がいたからです。彼らはユダヤ教を否定しなかったため、多くのユダヤ人がキリストを信じました。ギリシャ語を話すユダヤ人たちはギリシャ、ローマへと散っていきました。伝道は彼らから異邦人改宗者に引き継がれ、次第にユダヤ教と分かれたのです。
 わたしたちはパウロの書簡等から西方教会にのみ目を向けがちですが、同時にアッシリアの東方教会の働きにも目を向ける必要があるのではないでしょうか。その影響は西欧諸国と同じ時期に中国や日本にも及んでいました。アッシリア東方教会とネストリウス派(景教)の人たちの多くはユダヤ人改宗者だと言われています。
 

 パウロの第一次伝道旅行の訪問地キプロスでの最初の実はローマの地方総督セルギウス・パウルスでした。このような地位にある人物が信徒となることは、大きな意味のあることでした。彼はもはやローマ皇帝の僕ではなく、主イエスの僕となったのです。神の国の一員にされた地方総督セルギウス・パウロスは、もはや二人の主人に兼ね仕えることは出来ないのです。それはローマ帝国に対する神の国の勝利であって、紀元三一三年にローマ帝国がキリスト教を国教とするまでの長い道のりの始めの一歩となったのです。それだけでなくキリスト教はローマ帝国が崩壊した後も広がり続け、今日に至るのです。バルナバとパウロの「二人の上に手を置いて」伝道に送り出したアンティオキア教会の祈りは世界宣教を夢見る今日のわたしたちの教会の祈りでもあります。

2014年6月15日日曜日

使徒2章1〜11節「大勢の人が集まって来た」

第170号

ペンテコステ礼拝〉

 五旬祭の日に約束の聖霊は弟子たちに下り、主イエスを頭とする新しい共同体が誕生しました。弟子たちは御言葉を宣べ伝え始めたのです。
 五旬祭は過越祭から数えて五〇日目に当たります。過越祭は昔、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを出た日を記念するものです。民は一ヶ月後にシナイ山に到着し、そこで神から十戒を授けられましたが、その日を記念するのが五旬祭です。そして荒れ野の四〇年の生活を記念するのが仮庵祭です。この祭りの間、人々は庭に簡単な小屋を作りそこで生活するのです。これらはイスラエルの三大祭りで、いずれも歴史と聖書に基づいた宗教的な祭りですが、約束の地カナンに入ったイスラエルの民は土着の豊穣の祭りと結びついて、過越祭は大麦の収穫を祝い、五旬祭は小麦の収穫を祝い、仮庵祭では秋の収穫を祝うようになりました。これらの祭りはキリスト教では復活祭(イースター)、聖霊降臨日(ペンテコステ)、降誕日(クリスマス)となっています。
 イエスは過越祭に十字架に付けられましたが、それは御自身が祭りで用いられる贖いの小羊となられたということです。しかし、主イエスは三日目に墓より甦られ、「御自身が生きていることを、数多くの証拠を持って使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ」たのです。弟子たちに御自身の手足、脇腹の傷跡を示され、また一緒に食事をされました。「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明され」、「神の国について話され」たのです(使徒一章三節、ルカ二四章二七節)。その後、弟子たちが見ているうちに天に上げられました。主イエスは弟子たちに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と命じました(使徒一章四、五節)。弟子たちが聖霊を受けたのは主イエスの昇天から一〇日後のことでした。

 過越祭に弟子たちが一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で「主の偉大な業」を話し始めました。この物音に大勢の人が集まって来ました。彼らは「天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」たちで、エルサレムに帰って自分たちに約束された救い主を待ち望んでいたのでしょう。彼らは自分が生まれた国の言葉で主イエスの誕生から、伝道、十字架、復活の出来事を聞いて驚いたのです。弟子たちの宣教は神の力によるものでした。また、弟子たちが人々のところに出かけていったのではなく、彼らの方から弟子たちのところにやって来たのです。
 聖霊はわたしたちを生かす命です。神はわたしたちの先祖アダムとエバを土の塵で造られましたが、命の息を鼻に吹き入れられることにより生きるものとされたのです。アダムとエバは神の戒めを破り、食べてはいけないと言われていた善悪を知る木の実を食べてしまいました。それによって神の霊は彼らを離れ、死ぬものとなりました。主イエスが来られたのはそのような人を生かすためでした。弟子たちに聖霊が降ることよって人は再び生きるものとなったのです。それが新しい共同体であって、教会の誕生でした。聖霊によって彼らは新しい創造物となりました(二コリント五章一七節)。もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もないのです。神に国に入るには聖霊を受け、新しく生まれる以外にはありません。(ヨハネ三章一節〜一五節三章)。


 弟子たちは、主イエスはこの世に神の国を建てられると信じて従いました。その国はエルサレムから始まり、世界に広がり、自分たちもまた主イエスを助けてその国を支配しようと思っていたのです。それは主イエスをメシアと信じながら、自分の夢の実現にかけていたことに他なりません。そのため、主イエスが捕らえられ、裁きの座に立たされるとペトロは「この人を知らない」と三度も否認したのです。そして主イエスが十字架に付けられるとユダヤ人たちを恐れて部屋に閉じこもりました。このような弟子たちと同じように、聖霊を受けるためにはわたしたちは自我を砕かれなければならないのです。古い自分に代わって主イエスが生きるようになるためです。もちろん、自分の自我が完全になくなることことはなく、与えられた聖霊との間に戦いが起こります(ロマ書七章二四節)。しかし、御霊は弱いわたしたちを助けて下さるのです(ロマ書八章二六、二七節)。それがわたしたちの信仰の道です。高齢を全うした自然な死であろうとなかろうとそれは自分に死ぬという意味において殉教の道となります。それは神がなされることであり、不思議なことに喜びと平安の道でもあります。そして、たとえ生きている時に実現しなくてもこのような人のところに「大勢の人が集まって」来るのです。

2014年5月18日日曜日

ヨハネ13章31〜35節「新しい戒め」

第169号

 主イエスは十字架に付けられる前夜、過越祭を弟子たちと祝いました。主は「この世から父のもとに移る御自身の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」のです。弟子たちの足を洗い、ご自分を裏切ろうとしている弟子に「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言われました。「ユダが出て行くと」、十字架によって神と御自身が「栄光」を受けると言われ、わたしたちに「新しい掟」を与えました。「栄光」とは神の「啓示」であり、わたしたちに神を顕現されることです。そして、「新しい掟」とは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言うものでした。この「掟」は旧約聖書の十戒に対応しているので、「掟」と言うより「戒め」です。十戒の最初の四つの戒めは、神以外のものを神としてはならない、神の像を造ってはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、といった神に関するものです。後の六つは、父と母を敬え、殺してはならない、といった人に関するものです。神と人との関係が正されて初めて人と人との関係も本来の姿になります。同じことは「新しい戒め」についても言えます。まず、神がわたしたちを愛して下さったのです。それ故、わたしたちも人を愛すのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ一五章一三節)。主イエスがわたしたちのために命を捨ててくださったことによって、わたしたちは愛を知ったのです(第一ヨハネ三章一六節)。

 新渡戸稲造の「武士道」(”BUSHIDO The Soul od Japan1899)は欧米人のために書かれた書物ですが、今日、多くの日本人に評価され、その訳が読まれています。新渡戸はその中で、「私は、封建制と武士道がわからなくては、現代日本の道徳思想は封印された書物と同じだと気づいた」とあります。そして「神道の自然崇拝は、国土を私たちにとって心の奥底からいとおしく思える存在にした。また神道の祖先崇拝は、次々と系譜をたどっていくことで、ついに天皇家を民族全体の起源とした。わたしたちにとって国とは…耕地以上のもの…(であって)…神々、すなわち私たちの祖先の霊がすむ新鮮な場所である。」と書いています。
 欧米と日本に見られる共通の歴史的経緯はユダヤ教、キリスト教、神道の宗教を基盤とし封建時代と騎士道、武士道の道徳、倫理観を生んだことがあげられています。また、車輪を運搬手段とし二階建て以上の建物が近代化以前にあったこと等もあげられます。
 それと同時にこれらの国では殉教の歴史がありました。昨年九月、東京神学大学で上智大学文学部・史学科の川村信三教授を招いて「ヨーロッパにおける日本再宣教の熱意」副題「人々は信仰の国日本を忘れなかった」の講演会があり、出席しました。川村教授はローマ、アメリカで神学と歴史を学ばれ、ジョージタウン大学で博士号(PhD)を取得された方です。一六世紀の日本であった二十六人の殉教を取り上げて語られましたが、殉教はイエズス会、フランシスコ会の宣教地であるアジア、アフリカ、南米の国等では考えられないことだったと言うのです。そして、その衝撃がどれほど大きなものであったかは、彼らが「日本二十六聖人」とされヨーロッパの教会で今日に至るまで日本と教会のために熱い祈りが捧げられて来たということに表れている、と言われました。
 日本ではその後の二百五十年の間に二〇万人とも三〇万人とも言われる殉教があったと言われています。ローマのカタコルムには多くの殉教者が埋葬されていますが、その数は決して日本を越えるものではありません。その意味において日本とそこにある教会には主イエスによって特別な役割が委ねられているのは間違いないでしょう。

 ある牧師が、広島原爆資料館を訪れた時のことを本に書いていました。そこでマザーテレサが書いた色紙を見つけたと言うのです。そこには、わたしたちの祈りは神がわたしたちを愛したようにわたしたちもまた愛し合うことが出来ますように、と書かれていたものが、隣の和訳には、互いに愛し合いなさい、そうすればこのような悲惨なことは二度と起こりません、といった内容に変えられていたと言うことでした。その牧師は宗教を排除する戦後教育の問題がここにあると批判していました。このことは教会にもあるのではないでしょうか。新渡戸は「私があまり共感を覚えないのは、キリストの教えをあいまいにする教会のやり方」であると前述の書に書いています。

 互いに愛し合うことを求めても、自分の命をかける根拠を持たない博愛や人道主義の愛には人を救う力も国を救う力もないのではないでしょうか。人間中心主義から神中心主義に変わることがわたしたちに求められているのであって、大切なことは、主イエスは十字架による死を前に「わたしがあなた方を愛したように」と言われたことです。わたしたちが持っている日本人としての長く養われて来た民族としての特性、すなわち、わたしたちが本来持っていた精神的な強さを否定してキリスト教を信じるのではなく、旧約聖書に大和魂と呼ばれる武士道的精神を重ねたその「古い戒め」の上に主イエスを神と信じる「新しい戒め」がわたしたちに与えられているのではないでしょうか。

2014年4月20日日曜日

マルコ14章32〜42節「この杯を取りのけてください」

第168号

 十字架につけられる前晩、主イエスはエルサレムにある家の二階で弟子たちと過越を守られました。食事中、主は弟子たちの足を洗われました。その後、ゲッセマネの園に行かれました。そこからマタイとヤコブとヨハネを伴われ、さらに祈るため彼らからも離れ、一人になられました。
三年前、主イエスはヨルダン川で預言者ヨハネから洗礼を受けた後、荒野で四○日四〇夜サタンの誘惑を受けられました。最初の誘惑は石をパンに変えたらどうかと言うものでした。当時の世界には満足に食べることも出来ず、餓死する人が多かったのです。そのような人たちを顧みず伝道することに迷いがあったのでしょう。第二の誘惑は、主イエス御自身が神であることをはっきりと人々に示すことでした。最後の誘惑はこの世の栄華を自分のものにするということでした。主はこれらの誘惑を退けられました。公生涯に入られると、多くの人たちが主のもとに集まって来ました。しかし、フィリポ・カイザリアを訪ねた時を境に、主イエスは弟子たちに御自身がこの世に来た使命を語られるようになりました。それは苦難を受け十字架につけられ、三日目に復活するということでした。しかし、弟子たちは一人としてそのことを理解出来ませんでした。そして、ついに「その時」が来たのです。

「油の圧搾(機)」を意味する「ゲッセマネ」はオリーブ山のエルサレム側の麓にある園で、今でも樹齢数百年のオリーブの巨木が老い茂っています。主イエスの祈りは「アッバ」で始まりました。アラム語で「お父さん」の意味です。アラム語はアッシリアからイスラエルの地にかけて広く使われていた言語で、ヘブル語はその方言です。新約聖書は全てギリシャ語で書かれていますが、主イエスはアラム語を話されたのです。主は最初に「あなたは何でもおできになります」と言われ、次に「この杯をわたしから取りのけてください」と祈り、最後は「しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と締めくくっています。この祈りを一つの言葉として読むなら、どのようなことでも従うという天の父への従順を表しています。しかし、このように三つに分けて読むならば、主イエスは先ず「この杯をわたしから取りのけてください」と祈ったことになります。その祈りに天の父は答えられなかったのです。それ故、主は天の父の御心に従ったのです。
主イエスの時代より二千年前、信仰の父、アブラハムは神からイサクを焼き尽くす捧げものにしなさいと言われました。イサクは神の約束が百歳になって成就した一人子です。何故、成長した今、その子を捧げなければならないのでしょうか。このことはわたしたちに「受難」とは何かを教えます。「受難」は理性的に納得が出来るとか、肉体的、精神的に耐えられるというものではないということです。
主イエスは神の子であり、少しの罪も犯されませんでした。神が聖であり、義なるお方であるなら、無実な者を罪人として十字架につけることなど出来ないはずです。もし死が命の消滅であって、自らの存在が無に帰することであったとしたら、その空しさに耐えることは出来ません。まして、罪の裁きが伴うのであるなら、なお耐えられないものとなります。罪が自分のものだけであっても耐えられませんが、全人類の罪を御自身で負うのであれば、その裁きはどれほど大きなものであるかは想像を絶するものがあります。
主イエスは世の初めから天の父と共におられました。死は罪の裁きであって、父との断絶であるなら、その苦しみ、悲しみ、恐れはどれほどのものであったかはわたしたちには理解することは出来ません。同時に、その断絶は神とだけではなく弟子たちとの間のことでもありました。この地上で三年間、主イエスと弟子たちとは歩みを共にしました。しかし、彼らは主を理解することは出来ませんでした。主は誰からも理解されず、ただお一人で受難を受けられ、十字架に付けられたのです。

死はわたしたちにとってある意味で自然なことです。誰でも死ななければならないからです。ギリシャ哲学では人間は霊魂と肉体から成ると教えます。肉体は死んでも霊魂は生き続けるのです。もしそうであるなら、死はこの世との断絶ではなく連続となり、死の不安は取り去られます。死を恐れなかったギリシャの哲学者ソクラテスの最後は有名です。それに引き換え主イエスの死はあまりにも苦しく、悲しく、恐ろしいことでした。
その違いは、キリスト教は人間を霊魂と肉体の二つに分けて考えることはしないことにあります。死は人が犯した罪の結果この世に入って来たものであって、死は決して自然なものではありません。神は生ける者の神なのです。死からの解放こそ、主イエスがこの世に遣わされて来たその理由です。このお方が十字架でわたしたちの罪の身代わりとなられたのです。わたしたちの罪を主イエスが全て負われ、それによってわたしたちは生きる者とされたのです(一コリント六章二〇節)。死はもはやわたしたちを支配することはないのです(ヨハネ一六章三三節)。
天の父は十字架の前夜、ゲッセマネの園で「この杯を取りのけてください」と祈られた主を三日目に墓から復活させ、わたしたちの復活の初穂とされたのです。