2001年3月18日日曜日

使徒2章43-3章10節「わたしにあるもの」

月報 第12号

 主イエスは生前、弟子の中から十二人(その内の一人は主イエスを裏切ったイスカリオテのユダ)を特別に使徒として選ばれました。使徒たちは最初から主イエスと共にいて、復活、昇天に到るまでの証人でした。そしてペンテコステの日に、主が約束された聖霊が使徒たちに下りましたが、驚いて集まって来た人たちにペテロは説教し、三千人が回心しました。教会では使徒たちが教え、信徒の交わりと聖餐(パン裂き)と祈りが中心でした。持ち物を共有し、心を一つにして神を讃美したのです。そして使徒たちによって多くの奇跡としるしが次々に行われました。これは使徒が主イエスから遣わされた者であることを証し、また、教会がこの世に生まれ根づく大切な時期に、使徒たちに特別に与えられた賜物でした。
 本日の聖書の箇所は、彼らが行った奇跡の一つです。それは使徒たちが喜びに満たされた教会内の交わりだけに留まるのではなく、外の社会に出て行って証しなければならない彼らの使命が示されているように思われます。そしてそれは、彼らの信仰の試練や迫害を受けることにつながりました。しかし教会は彼らのそのような働きによって発展、成長したのです。それが使徒行伝の伝えることです。同時に生前の主イエスが彼らを通して働いておられるのを私たちが見ることでもあります。私たちもまたこのような使徒たちに習い、自分の与えられた今の場で主イエスを証して行かなければなりません。

 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時、神殿に上りました。彼らが「美しの門」の所にさしかかると、生まれつき足のきかない男が道端に置かれていました。宮に祈るために来た人たちはその人を無視して通り過ぎることは出来なかったでしょう。旧約聖書にはそのような者を憐れまなければならないと書いてあるからです。その男はペテロとヨハネが来るのを見て施しを乞いました。するとペテロはその男をじっと見て「私たちを見なさい」と言ったのです。その男が二人に注目すると、ペテロは「金銀はわたしにはない。しかし、わたしにあるものをあなたにあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言いました。するとその男の足とくるぶしはたちどころに強くなって踊りあがって立ち上がり、歩き始めたのです。
 アメリカにデウット・L・ムーディーと言う有名な説教家がいました。彼がある大学を訪れた時のことです。一部の学生たちは悪ふざけを計画し、彼の説教の途中、一人の学生が包帯を足に巻き松葉杖をついて中央の通路に出て来て、「癒された」と叫んで松葉杖を放り投げ、歩くことにしていました。しかし説教の途中でその本人が回心してしまい、その企ては実行されませんでした。しかし、ムーディーほどの説教者であっても生まれつきの障害者を癒したという話はありません。
 しかし今日でもペテロとヨハネがしたと同じ、或いはそれ以上の奇跡を見ることが出来るのです。そのよい例はマザー・テレサではないでしょうか。彼女はインドの修道院に遣わされましたが、ある日、汽車の中で「もっと貧しい人のために働きなさい」と言う神の声を聞きます。そこで彼女はカルカッタに行き、スラム街を訪れ、そこで会った一人の女の人に最も貧しい子供のところに連れて行くよう頼みます。その人はテレサを一人の女の子のところに案内しました。その子は雨もりのする家の中で泣いていました。マザー・テレサは彼女を抱きしめ、「愛している、あなたを愛している」と語りかけました。そして次に連れて行かれた子供のところでも同じようにしました。毎日このような子供たちを訪れ、午前中は文字を教え、午後は一緒に遊ぶようになりました。彼女の弱い人たちへの働きは、この子供たちのための施設を始め、ハンセン氏病や死に行く者を看取る業などに広がり、施設はカルカッタ周辺だけで八ヶ所、世界百二十ヶ国、五百八十五ヶ所になりました。マザー・テレサに出会った多くの子供たちは彼女の志を継ぎ、後継者となって働くようになりました。最初に抱きしめられた子供はそのような施設の責任者になったとあります。この話は九十八年十月二十五日付けの朝日新聞に「一人で始めた『抱きしめ』」と題して記載されています。貧しいが故に、自分の力で立つことができなかった子供たちが、自分の足で歩けるようになったのです。修道女であるマザー・テレサの全財産は布の袋に入るだけだったそうです。

 私たちも主イエスから同じ愛を受けています。主イエスは私たちの罪のために十字架で死なれ、私たちの罰を御自身で負って下さいました。そしてそれを信じる信仰によって私たちを永遠の命に相応しくして下さったのです。私たちもこの主イエスから与えられた愛を分かち合おうではありませんか。

2001年2月18日日曜日

使徒1章1-11節「あなたは力を受ける」

月報 第11号

 使徒行伝は第五福音書、あるいは聖霊行伝とも呼ばれています。著者はルカで第三福音書と共にこの書をテオピロという人に献上しています。使徒行伝は復活した主イエスが天に挙げられるところから始まり、囚人となったパウロがローマに着き二年間伝道したところで終っています。私たちはこの使徒行伝から原始教会がどのようにして生まれ、成長したかを知ることが出来ます。そして、その成長の秘訣は私たちの教会に生かすことが出来るのではないでしょうか。

 今日の聖書の箇所に入る前に二つの事実を確認したいと思います。一つは主イエスが確かに十字架上で亡くなられたということです。何人かの弟子は大勢の群衆に交じってゴルゴダの丘で主イエスが十字架上で息を引き取られるのを見、また兵士が脇腹を槍で刺すのを見ました。その中にはガリラヤから従って来た婦人たちもいました。アリマタヤのヨセフは主イエスの遺体を十字架から降ろし、布を巻くなど必要な処置をして墓に葬りました。婦人たちもその場所を確認したのです。
 もう一つの事実は、主イエスは確かに甦られたということです。ペテロを始めとする多くの弟子たちや、主イエスに従った婦人たちが復活の主イエスに会いました。主イエスの復活を聞いてもどうしても信じられないトマスに主は、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。…信じない者にならないで信じる者になりなさい」と言われました。弟子たちは生前、主イエスから御自身の苦難や復活を聞いてはいましたが、復活を信じていたり、予期していたわけではありません。反対に多くの弟子たちはトマスのように信じていなかったのです。

 主イエスは四十日にわたって弟子たちに現れ、御自身の復活が確かで、疑う余地のない事実であることを示されると共に、二つのことを教えられました。一つは、モーセの律法と預言書と詩篇の全てにわたって書かれている御自身の苦難と復活について、そして、もう一つは神の国についてでした。主イエスの苦難と復活については生前教えられたことですが、これらのことが現実になったその時、再び聖書によって確認されたのです。神の国についても弟子たちに繰り返し教えられました。そして、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待つがよい。…あなたがたは間もなく聖霊によってバプテスマを授けられるであろう」と言われました。
 主イエスのお言葉を聞いた弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を復興されるのは、この時なのですか」と問いました。イスラエルの復興の夢が再び甦ったのです。今度こそ主イエスはイスラエルをローマのくびきから開放し、ダビデ王国のように、いやそれ以上にその支配を世界の隅々にまで及ぼすに違いない、そして聖霊を受けた自分たちもまた神の国の建設に参画したいと願ったのでしょう。
 それに対し、主イエスは言われました。「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、…地の果てにまで、わたしの証人となるであろう」。
 弟子たちの関心はイスラエルの復興でした。自分の国の現状を愁い、社会の改革を願う弟子たちの思いと、主イエスの証人となることは一見、一致しないようです。しかし、主イエスの証人となるということはイスラエルを復興させることになるのです。
 イスラエルとはヘブル語で「神、支配したもう」という意味です。これまではアブラハムを自分たちの祖先とし、モーセの律法に従うものがイスラエルでした。しかし、聖霊が与えられることにより、神の霊、キリストの霊を心に宿すものが真のイスラエルとなるのです。主イエス御自身が王としてその民を支配されるからです。そこにはもはや国や民族による区別はありません。モーセの律法はこの新しいイスラエルによって全うされるのです。そして、主イエスを王とする神の国はこの世だけでなく永遠に続くのです。
 弟子たちはイスラエルの国の復興を主イエスに求めましたが、主イエスは弟子たちの伝道によって新しいイスラエルを起されました。それが教会です。

 今日、私たちもまた教勢のふるわない現状の教会を見て、弟子たちと同じように問いかけます。「主よ、私たちの教会を復興されるのは、何時ですか」と。しかし、主イエスの答えは同じでしょう。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受け…私の証人になる」。
 教会の成長は聖霊の働きです。しかし、主イエスから聖書を学んだことは弟子たちにとって聖霊を受ける準備となりました。そして、主イエスの証人になるために欠かせませんでした。
 聖書の学びの大切なことは、私たちに言えるのではないでしょうか。

2001年1月21日日曜日

ルカ22章66-71節「あなたは神の子なのか」

月報 第10号

今日、多くの人は宗教、そしてキリスト教にはあまり関心がないようです。しかしキリスト教に関心を持っている人なら、主イエスに「あなたは本当に神の子なのでしょうか」と問いかけるのではないでしょうか。そしてクリスチャンと呼ばれる人々がどうして主イエスが神の子と信じられるのか不思議に思うのです。ところが今日の聖書の箇所ではユダヤ人指導者、すなわち人民の長老、祭司長たち、および律法学者たちは主イエスに「あなたは神の子なのか」と問い、それにより主イエスを罪に定め、捕らえ、十字架につけようとしたのです。

主イエスが人であり、また神であることは福音書に記されています。主イエスは神の子であることの明確なしるしとして自然を支配し、人々の病気を癒し、死んだ者すら生き返らせました。これから起ることを語られ、それは事実となりました。神の子としてのこのようなしるしは主イエスが人間であるなら信じられないことですが、神であれば不思議なことではありません。天地を創造された神には不可能なことはないからです。主イエスの生涯は清く少しの罪もありませんでした。そして主イエスは人々からの礼拝をお受けになり、御自身が神であることを認めました。このような救い主、メシアが現れることは旧約聖書で預言されています。
 イスラエルの指導者たちがこの主イエスを何故信じようとしなかったのかは明らかです。それは指導者として持っている自分たちの権威、権力、地位、名声などを主イエスのために失いたくなかったからです。祭儀や律法を守るというような形式的な神礼拝を固持し、心の思いが神中心に変わることを好まず、自己中心の生き方を改めたくなかったからです。主イエスのところに来ることによって自らの罪が明るみに出されるのを恐れました。これはユダヤ人指導者だけではありません。人間は誰でも神中心の清い生活をするより罪の生活に留まっていたいのです。多くの人たちにとって、主イエスは神であると信じられないのではなく、初めから信じたくない、いや信じないと決めているのです。ユダヤ人指導者たちの「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」との問いかけに、主イエスは「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。また、わたしがたずねても、答えないだろう」と言われました。
 「しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座する」と主イエスは続けられました。私たちは自分を指して「人の子」とは言いません。ところが主イエスは御自身を指してしばしばこのように言いました。キリスト、人の子、神の子、これらはいずれも主イエスを指します。
 人が自らを神の子であるという言い方はあったようです(ヨハネ十章三十六節)。それゆえ主イエスがご自分を一般的な意味で自分は神の子であるとしても、そのことによって死に値するとは言えなかったでしょう。
 問題は主イエスが御自身を人の子とし、人に対して神の権威を持っていることを示され、「人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」と言われたことにありました。人は死んで神の前に立ち、生前したことの裁きを受けます。しかし、人の子は神の前に立つのではなく、神の右に座して人を裁くと言われるのです。今ここで主イエスはユダヤ人指導者に裁かれていますが、御国では御自身の前に来た彼らを裁くのです。とすると本当の権威を持った裁き主は誰であるかは明白です。ですからユダヤ人指導者はその意味をすぐさま理解して「では、あなたは神の子なのか」と尋ねたのです。ここでいう神の子はもはや一般的な意味ではなく、自分を神と等しいものとしていることになります。

  人民の長老、祭司長たち、律法学者は主イエスを十字架につけました。しかし、不思議なことに彼らは主イエスを有罪とする具体的な証拠を提示することが出来ませんでした。彼らは「では、あなたは神の子なのか」と問いかけ、主イエスが「あなたがたの言うとおりである」と答えて初めて「これ以上、何の証拠がいるか。我々は直接彼の口から聞いたのだから」と主イエスが死罪に値するとの判決を下したのです。
 主イエスはこのように言えば十字架につけられるのをご存知でした。主イエスは御自身の復活がなく、十字架の上で全てが終わるのならこのようには答えられなかったことでしょう。そして十字架につけられることが天の父の御旨であることを知っていてその御心に従われたのです。
 私たちはこのように主イエスが答えられたことによって確かにキリスト、すなわち、人の子、神の子であるのを知るのです。このことは私たちの復活もまた確かなことを知ることでもあるのです。

2000年12月17日日曜日

ルカ1章26-38節「恵まれた女よ、おめでとう」

月報 第9号

《クリスマス礼拝説教》  

 「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」。この挨拶は何のことかと驚くマリヤに天使ガブリエルは続けます。「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです」。
  伝承によるとマリヤはこのときまだ十五歳前後といいます。この天使の言葉の意味を理解するにはあまりにも若い、いや幼かったと言えるでしょう。「主があなたと共におられます」。それは、神は生涯マリヤと共におられるという意味です。神はマリヤにどのような生涯を用意されたのでしょうか。

 「見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい」。マリヤはけなげに答えます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。いいなずけのヨセフはマリヤが身ごもったと聞いた時、どれほど苦しんだことでしょう。誰だか分からない子を宿したマリヤのことを公にすることも出来ました。そうするならマリヤは石で撃ち殺されるかもしれません。しかしヨセフは義しい人だったので、ひとまずイエスを自分の子と認め、それからマリヤと離縁しようとしたのです。ところがこのように考えているヨセフに天使が現れ言いました、「マリヤを妻としてめとるがよい」。十代半ばの若い女性が乳飲み子を抱えて生きるのはあまりにも厳しい時代でした。
 彼らはベツレヘムに行き、そこでマリヤはイエスを産み、飼い葉桶に寝かせました。客間には彼らのいる余地がなかったのです。そしてヘロデが幼子を殺そうとしているのを知ってエジプトに逃げました。しばらくしてヘロデが死んでからガリラヤのナザレで新しい生活を始めました。
 次々と子供達が産まれました。ナザレには今もマリヤとヨセフが生活したと思われるところが残っています。マリヤとヨセフの生活は貧しいながらも楽しいものであったに違いありません。夫ヨセフと子供たちの面倒を見たり食事の世話をしたり忙しい中にも笑顔の絶えない家庭であったでしょう。しかし、そのような生活は長く続きませんでした。ヨセフが死んだのです。それまで喜びも苦しみも共にしてきた夫を失ったことはどれほど大きな悲しみだったことでしょう。しかしマリヤにとって幸いだったのは、イエスが父親の仕事を引継ぐことの出来る年に達していたということでした。そうでなければマリヤ一人で子供たちを養うことは出来なかったでしょう。
 イエスは三十歳になるとマリヤの理解できない行動をとるようになりました。そして、遂には家を出て行きました。母親は子供たちが幾つになっても自分の目の届く所に留めておきたいものです。このことはどれほどマリヤを苦しめ悲しませたことでしょう。ある時などマリヤはイエスのところに押しかけ、家に連れ戻そうとしました。以前の平和が戻ったのはマリヤがこのようなイエスを受け入れ、その教えを信じたときでした。
 しかしこれもつかの間でした。イエスは大祭司やパリサイ人、律法学者に捉えられ、ローマ総督ピラトのもとに連れて行かれ十字架にかけられたからです。夫ヨセフを失ったとき、それは確かに悲しい出来事でした。しかし、愛する我が子が手足に釘を打たれ、十字架につけられ苦しむ姿を見ることに比べられません。だれもこのマリヤの気持を支えることは出来なかったでしょう。
 しかし、マリヤは耐えたのです。つるぎで胸を刺し貫かれるような悲しみの中にあっても、自分を見失うことはありませんでした。そのマリヤに仲間の婦人たちや弟子たちが伝えたのです、「主イエスは甦った」と。マリヤの驚きはどれほどだったでしょうか。マリヤ自身もこの甦られたイエスに出会ったのです。そしてイエスの弟子たち、婦人たち、自分の子たちと心を合わせ、ひたすら祈りをしているとき五旬節(刈入れの祭り)を迎えます。この時、弟子たちの内に聖霊が下り、マリヤもまたイエスが自分の心の中に入ってきたのを知りました。長男、いや何よりも神である主イエスが共に生きて下さり、もはや自分一人ではないのです。自分の内に住まわれた主イエスが生前、自分に語られたことの意味を教えるのです。それは御国で主イエスに再び会えること、そして夫ヨセフに会えることをです。マリヤはこのことを頭で理解するというのではなく心からの事実として受け入れました。

  「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」。この天使ガブリエルの言葉の意味を理解するのにマリヤは生涯をかけ、そしてその苦労は報われました。
この天使ガブリエルの言葉は、主イエスを救い主と信じる者全てに向けられているのです。

2000年11月19日日曜日

ルカ22章1-23節「新しい契約」


月報 第8号

出エジプト記24章1~8節

 十字架に付けられる前の晩、主イエスは弟子たちと過越しの食事を共にされました。弟子たちにパンを取り、「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である」、そして杯も同じ様にして「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」と言われました。新しい契約とは一体、何なのでしょうか。それに対する古い契約とは何でしょう。その違いはどこにあるのでしょうか。
 
  神が人に約束されることが契約です。私たち人間の約束、あるいは契約は考えが変わったり、状況が変わることにより守られなくなる場合が多くあります。しかし、神は約束されたことを変えることはありません。問題はその契約を人が守るかどうかということなのです。
  はじめに古い契約を取上げてみましょう。古い契約は旧約聖書に幾つか書かれていますが、その中で重要なのはシナイ山での契約です。神はエジプトで四百三十年もの間奴隷だったイスラエルの民を救うためにモーセをエジプトの王ファラオの前に遣わしました。しかし、その結果、イスラエルの民の労働はかえって以前よりも厳しくなりました。そこで神はモーセによって奇跡を行い、エジプトの民に災いをもたらしました。しかし災いが去るたびにファラオは心を頑なにし民を去らせようとはしませんでした。神は最後にエジプトの全ての初子、ファラオの長子から奴隷の子まで、そして人の子から家畜までを撃たれたのです。夜、主の使いがエジプトに出て行くと家々では大きな叫び声があがりました。死者のいない家はなかったからです。しかし、イスラエルの家は主の御言葉を守り、小羊の血を入口の柱に塗ったため主の使いが入ることなく過ぎ越したのです。
  遂にファラオはこのままではエジプトの民は滅ぼされると思い、イスラエルの民を去らせました。その夜、エジプトを出たユダヤ人は、成人男子だけで六十万人といわれます。彼らは荒野に入り、シナイ山に着くと神と契約を結びました。雄牛を殺し、モーセはその血の半分を鉢に取り、残りを祭壇に注ぎました。そして契約の書を読み、民はその契約を守ることを誓約し、鉢の血を民に注いで言いました「見よ、これは主が…あなたがたと結ばれる契約の血である」。この日、民は神が与えられた十戒を守ることを誓ったのです。そして、十戒を守る民を神は救われるのです。
  それでは新しい契約とは何でしょうか。主イエスは御自身の血で民と契約を結ばれました。小羊の血でイスラエルの民が命を贖われ、エジプトから救い出されたように、主イエスを信じるものは十字架の血によって命が贖われ、この世から救い出されるのです。

  古い契約の救いでは、カナンの土地が与えられ、子孫が増え、神の祝福に預かるというものでした。しかし、イスラエルの民は十戒を守ることは出来ませんでした。神が求める正しい生き方をせずに自分勝手に生きたのです。神は預言者を何人も遣わし、神に立ち返るように求めましたが民は聞き入れませんでした。
  このような民を救うため神は主イエスを遣わされ新しい契約を与えられたのです。それは主イエスを信じる信仰による契約で、もはや行いによるものではありません。何故なら主イエスがイスラエルの民、そして私たちに代わって神の前に正しく生きて下さり、律法を全うされたからです。そして少しも罪のない主イエス御自身が十字架に付けられて私たちのために死に、その清い命で私たちの罪を贖ってくださったのです。
  私たち人間はどれほど頑張っても、主イエスのように罪を犯すことなく生きることは出来ません。主イエスが罪のない清い生涯を送ることが出来たのは神であられたからです。天の父は主イエスを義とされ人間の罪を贖うものとして受け入れられました。私たち人間は神の前に正しい義なる者とは認められません。従って人間は他の人の命を贖うことは出来ません。
  神であられた主イエスは、同時に私たちと同じ人間でした。人間であったからこそ主イエスは私たち人間の罪を贖うことが出来たのです。主イエスは私たち人間の身代わりとなられ、私たちが負わなければならない罪の苦しみを御自身の身に負われたのです。
  主イエスは弟子たちに、そして私たちに神の国で一緒に食事を取られることを約束されました。そして御自身の血によって罪が贖われたことを覚えるようにと聖餐を制定されました。新しい契約は私たちに来るべき天の御国に入れること、つまり永遠の命を約束します。そのことを証するため主イエスは私たちの初穂として甦られました。その約束と共に信じる者は信仰による交わりと神の祝福を得るのです。

2000年10月15日日曜日

ルカ20章27-40節「生きている者の神」

月報 第7号

 聖書には主イエスとパリサイ派の人々や律法学者との論争は数多く出てきますが、サドカイ派の人々との論争はあまりありません。ルカによる福音書ではこの個所だけです。主イエスとサドカイ派の人々の信仰とでは違いが大きすぎて、同じ土俵の上に立って論争することが出来なかったからでしょう。サドカイ派の人々は律法の書、すなわちモーセの五書だけを聖典と信じていました。律法の書には天使や霊については書かれていません。そのためサドカイ派の人々は天使や霊の存在を否定し復活も信じていませんでした。サドカイ派の人々にとって神を信じるということは、この世を律法に従って正しく生きるということでした。信仰によって初めてこの世での生活が守られ、良い家庭を築き子供を正しく育てることが出来るのでした。このことはある面で自分の生活や意志を大切にして生きることでもあったのです。

 このサドカイ派で復活はないと言い張っていた人々が主イエスに論争を持ちかけました。復活があるかないかの論争はパリサイ派の人々に対して極めて効果的だったのでしょう。パリサイ派の人々が答えに窮すると、どうだ、復活はないのだと自らの論議の正当性を主張したに違いありません。彼らは主イエスもまた答えられないに違いないと戦いを挑んできたのです。
 彼らは主イエスに言いました。モーセは「もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけなければならない」と言っている。それではもし七人の兄弟がいて長男が子をもうけることなくして死に、次の兄もその女を妻とし、彼もまた子をもうけることなくして死に、遂には七人の兄弟全員が子をもうけることなく死んだならこの女は復活して誰の妻となるのか、七人全員がこの女を妻にしたのだから。この例は極端すぎて少々話に無理があるような気がしますが当人たちはしごく真面目だったと思われます。こういう論理的矛盾がある以上復活はないのだというのです。
 主イエスのサドカイ人への答えは、復活にあずかる者は天使に等しいもので、神の子でもあるのでもう死ぬことはあり得ない、だからめとったりとついだりはもうしない、というものでした。結婚に対する考え方は今では多様化していますが、本来、子供を産み子孫を残すことにありました。その意味で死ぬことがない以上、その目的は失われます。復活にあずかる者の御国での生活はこの世の生活の延長ではなく、全く違ったものとなるのです。
 復活についてはダニエル書のように旧約聖書においても極めてはっきりと書かれているものもあります。しかし主イエスはここでは柴の書、すなわち出エジプト記三章に書かれているモーセの言葉を用いて彼らと同じ土俵に立って反論されます。主はモーセに柴の燃える火から話かけられ「わたしはアブラハムの神…である」と言われました。アブラハムは紀元前一九〇〇年頃の人で、モーセは一二九〇年頃です。従ってアブラハムはモーセより六〇〇年ぐらい前の人です。にもかかわらず神がこのように言われたのはアブラハムが今も生きていることを示している、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と主イエスは言われるのです。
 しかしこの言葉にはイスラエルの人たちにそうだと思わせる背景があります。神はアブラハムがこの世に生きている時、三つのことを約束されました。子孫が増え、土地が与えられ、多くの民族の祝福の基となると言うものでした。しかし実際アブラハムがこの世で生きている間にはこの約束は成就しませんでした。一人息子のイサクとわずかな土地、マクペラの洞穴が妻のサラと自身の墓として与えられ、祝福についてはその土地の人々から尊敬を得たに過ぎませんでした。従ってこの約束はアブラハムが今も生きている、あるいは復活することがなければアブラハムにとっては成就する、あるいはしたとは言えないからです。このことからも「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」でなければなりません。同じことはアブラハムと同じ約束を与えられたイサク、ヤコブ、そして他の族長たちにも言えます。

 復活は私たちへの約束でもあります。主イエスは私たちに「わたしは復活であり,命である。わたしを信じるものは死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ十一章)と言われました。主イエスは私たちに約束されただけでなく御自身が復活されることによってその約束が事実であることを御自身の身をもってお示しになったのです。そのことを通して確かに神は死んだ者の神ではなく、「生きている者の神」となったのです。

2000年9月17日日曜日

ルカ19章1-10節「今日、救いがこの家に来た」

月報 第6号

 ザアカイはエリコの町に住んでいました。地図を見ますとエリコはエルサレムからおよそ三十キロぐらい東に行ったところにあります。交通の要衝で、ここにはローマ帝国の取税所があり、行き交う商人たちから税金を徴収していました。取税人は決められた額をローマに納め、それ以上に集めた分を自分たちの収入としていたのです。当然のことながらユダヤ人たちはローマのために働く取税人を嫌っていました。ザアカイはこの取税人の頭で、金持でした。人々はザアカイのことを罪人だと言い、白い目で見ていたでしょう。ザアカイはそのような同胞に、金持になることで見下そうとしていたのではないでしょうか。もしザアカイにとってお金だけが人々の嘲笑に耐えて生きる心の支えであったならその心は空しかったでしょう。
 そのようなある日、ザアカイは主イエスがエリコを通られると耳にしました。主イエスのことは以前から話に聞いていました。それはこの方こそメシアでローマのくびきからユダヤを開放しエルサレムに神の国を建設されるというものでした。ザアカイは何故かこの主イエスに心が引かれ、関心を抱いていたのです。
 彼が道に出て行くと既に長い人垣が出来ていました。背の低いザアカイは前の方に走って行っていちじく桑の木に登りました。そこから見ていると、突然主イエスは上を見あげてザアカイに言われました。「ザアカイよ。急いで降りてきなさい」。どうしてザアカイの名前を知っていたのでしょうか。群衆の誰かが木に登っているザアカイを見て彼の名前を呼んだのでしょうか。主イエスは続けて言います「きょう、あなたの家に泊まることにしている」。原文では「泊まらざるを得ない」「泊まるように前から定められている」あるいはもっと厳密には「父なる神が決められていて、今その人を見つけ出したので泊まる、客となることを喜ぶ」と言う意味だそうです。泊まるとは一緒に食事をし、一つ屋根の下に寝ることで、「私はあなたを友とする」ということです。主イエスは初めて会うザアカイを知っていて名前を呼んだのです。名前を知っているということは彼の人格も仕事も生活もその全てを知っているということです。一瞬の出来事でしたがザアカイはそのことを理解したのです。そして主イエスを神の子と信じ、今までの生活を悔い改めました。これが回心です。彼のように木の上で回心した人は少ないのではないでしょうか。回心したザアカイは喜んで主イエスを自分の家に迎え入れました。
 過日、埼玉育児院を訪ねました。教会員で院長の河東田姉のお話を伺い、施設を見学し、子供たちに会いました。新築された家では、小、中学生が保母さんと一緒に家庭的な雰囲気の中で生活していました。幼児たちの部屋に行くと、入って来た私たちを見て彼らの顔が輝きました。膝に上がってくる子もいました。私たちの訪問ですらこんなに嬉しいのなら主イエスが訪ねて来られたらどれほど喜ばしいことでしょう。主イエスが友として心に入って来るのが回心です。
 回心にはしるしが伴います。主イエスを受け入れた者は神の性質に似る者となるからです。神は愛と義なるお方です。神の愛は特に貧しい人、恵まれない人への慈しみとして示されています。ザアカイはそれまで自分を愛しているだけでした。しかし、今ザアカイは自分の財産の半分を貧民に施すと誓ったのです。神の義に似るとはどういうことでしょうか。それは、ザアカイにとって今まで取税人として自分がしたことを徹底的に調べ、もし不正な取立てをしていたなら四倍にして返すということでした。これこそ悔改めです。
回心を経験したクリスチャンはこのようなザアカイに似た証があるのではないでしょうか。悔改めは行いを伴うからです。
その後、主イエスはエルサレムに行き、パリサイ派や律法学者、祭司長などの指導者に捕らえられ十字架につけられ、殺されました。しかし、主イエスは復活されたのです。復活は多くの人にとって信じられない出来事です。直接復活の主に出会った弟子たちですらすぐには信じられませんでした。しかし、ザアカイにとって、主イエスの復活を信じることは他の人ほど難しいことではなかったでしょう。自分の全てを知っておられる主イエスと出会った木の上の出来事を考え「きょう、救いがこの家に来た」と言われた主イエスの顔を思い出せば、「そうか」とうなずけることだったのです。

 伝承は、ザアカイは取税人を辞め伝道者になったといいます。この伝承が事実なら主イエスとの出会いがそれからのザアカイの人生を大きく変えたことになります。きっとあの時の主イエスの笑顔がザアカイの心に焼きついていたに違いありません。