2002年3月17日日曜日

ルカ15章16-32節「福音を恥としない」

第24号

ロマ書1章16-17

ロマ書の主題
  使徒言行録を終え、ロマ書に入りました。今日はその二回目ですが、パウロはこの聖書の箇所でロマ書の主題を記しています。それは 

一.      福音とは神の力である

二.福音には神の義が啓示されている

三.それは初めから終わりまで信仰を通して実現される

ということです。

一.福音とは神の力である
  福音とは、よき知らせです。この世の生涯が終わって神の前に立ったとき、神と私たちとの間に和解、平和が既になされているということです。それは御子に関するもので(ロマ一章三、四節)、人であり神であられる御子が救いに必要なこと全てを私たちに代わってしてくださったということです。主イエスは罪のない清い御生涯を歩まれ、十字架により私たちの罪を贖われ、復活なさり、天に上り、父の御許から約束の聖霊を注がれ、私たちの救いを確かなものとしてくださっているのです。救いは主イエスがなされた業であり、私たちはそのためにすることは何もありません。私たちもまた復活の希望を与えられていますが、私たちの復活もまた神の業に他なりません。

二.福音には神の義が啓示されている
  神は聖なるお方ですが、このことは神は義と愛を併せ持っておられるということです。義とは罪を正しく罰せられるということです。人は全て罪を犯しているので神に裁かれる存在でしかありません。しかし、神の愛はそのような人をも救われようとするのです。神はその愛のゆえに人と契約を結ばれました(虹の契約(創八章九~十七節)、アブラハム契約(創十二章一~三節)など)。神御自身の立てられた契約を守り、罪の結果である死から人を救うために遣わされたのが御独り子、主イエスでした。神は御子を義とされ、その結果、御子を信じる者をも同じく義とされました。福音には神の愛と義が啓示されていますが、そのことは神からの働きかけがあって初めて理解し、認めることが出来るのです。

三.それは初めから終わりまで信仰を通して実現される
 信仰とは見えないもの、すなわち主イエスを信じ、主イエスに従い、復活と神の御計画を信じることです。私たち自身の復活を信じることもまた信仰によります。事実とは誰もが理解し証明出来ることですが、信じることができるためには、啓示が必要とされます。

放蕩息子のたとえ話
 ルカに出て来るこのたとえ話はこのようなパウロの主張を分かりやすく教えるのに適しています。ここで登場する父親は神であり、二人の息子は私たち人間です。弟は父なる神の束縛を逃れて自由に生きようとします。ここに神なしに、自分中心に生きようとするアダムとエバ以来の原罪を見ることが出来ます。弟は父の財産を分けてもらい、それを全て自分のために使おうと家を出ます。しかも父親の目の届かない遠くの町に行くのです。しかし神から離れて生きることによって持っていたものを全て失い、ついには命さえ失う危険にさらされます。その時、初めて弟は正気に戻り、父のもとに帰る決心をします。これが回心であり、悔改めです。信仰には決断と行動が求められます。家にたどり着くと、思いがけず父は息子が帰って来るのを待っています。まだ遠く離れていたのに息子を認め、憐れに思い走り寄ります。そして自分のものを再び息子に与えるのです。
 父親は放蕩息子を罰することなく無条件に赦しました。私たちの常識では、弟は息子と呼ばれる資格のないことをしたのですから、父親としてはその点をはっきりさせ、必要な罰を与えなければいけないはずです。従ってこのような父親に反発する兄の気持ちは良く分かります。
 このたとえ話を解く鍵は、主イエスが語られた話として理解しなければならないということです。主イエスはご自身の十字架でこの放蕩息子を赦されるのです。この放蕩息子の罪は主イエス御自身が十字架で負われたからこそ成り立つ話です。ですから父のところに戻って来さえすれば放蕩息子に限らずどのような罪人であっても赦されるのです。
 この話は主イエスに罪を赦されることによって初めて理解出来ます。残念ながら罪を赦された体験を持っていない人は兄の立場しか理解できないでしょう。兄は父がしたことが分からず、反発して家を出るかもしれません。しかし、赦された弟は二度と父の家を出ることはないでしょう。

福音を恥としない
 救われた者、あるいは放蕩息子にとって父の赦しは福音です。自分には何の義もないのに、罪が赦され永遠の命を受けることが出来るからです。放蕩息子と自分を重ね合わせることの出来る人は福音を恥とするはずはありません。どのような状況にあっても大胆に御言葉を宣べ伝えるのです。

2002年2月10日日曜日

使徒28章17-31節「希望していること」

第23号
希望していること
「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです」とパウロは言いました。イスラエルが希望していることとは一体何でしょうか。その答えは使徒言行録の一章にあります。復活された主イエスは使徒たちに、神の国について話され、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と言われました。それに対し、使徒たちは「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねております。口語訳では「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのはこの時なのですか」と訳されています。国の復興、それこそイスラエルが希望していることでした。
6年前、イスラエルを訪れました。エジプトから入った私たちの目にはずいぶん豊かな国として映りました。灌漑などにより多くの荒地が緑に変わっていたからです。戦後、世界の放浪の民であったイスラエルの人々は二千年の時を経て自分たちの出て来た土地に戻りました。建国、これもまた国の復興といえるのではないでしょうか。国の再建はイスラエルの人々の希望していることでした。
 旧約聖書は神が多くの民族の中からイスラエルを選び、御自身が支配される国を造ろうとされた歴史です。神はアブラハムと子孫に土地と多くの子孫と祝福を約束されました(創世記十二章)。それは御自身の国を造られることの約束です。神はこの約束に従って奴隷であったイスラエルをエジプトから導き出し、荒野で十戒を与え、約束の地、カナンに導き入れました。神はこの乳と蜜の流れる地でイスラエルを聖なる民、宝の民とされ、全ての民の中で最も祝福しようとされました。しかし、イスラエルの民は神に従おうとはしませんでした。反逆する民に神は預言者を次々に遣わし、神に立ち返ることを求めました。イスラエルの歴史は神への反逆の歴史でもありました。そして、預言者の最後に御子、主イエス・キリストを遣わされたのです。
主イエスの時代も、イスラエルの民は国の復興を希望していました。ダビデの子孫であるメシアが現れ、ローマ帝国の支配から国を開放し、自立した国となることを望んでいたのです。

神の国にふさわしい民  
 そのようなユダヤ人たちにとって、主イエスをメシアと信じることは難しいことでした。主イエスがメシアであるなら神の国はどこに出現しているのでしょうか。神の国の住民にふさわしいのはアブラハムの子孫で律法を守っているイスラエルの民のはずでした。イスラエル以外の異邦人は神の約束も律法も知らなかったからです。
 しかし、歴史を通してイスラエルの民が見落としていたのは、神が聖であるように、神の国の民もまた聖でなければならないということでした。聖とは義と愛を併せ持つことで、具体的には十戒を守って生きることです。十戒は神と人とを愛するということに要約されますが、それは聖なる民の生活の基準で、神の国の憲法でもあります。十戒を守って生活するなら神と人の前に自分を低くし謙虚になるはずです。しかし、イスラエルは謙遜になるどころか神に選ばれた民として高慢になってしまいました。その罪こそ預言者が繰り返し民に警告したことでもありました。
十戒を守るということにおいてイスラエルの歴史は、人間の力で神の国の住民にふさわしくなることは出来ないことを教えます。それ故、神は人を聖くする別の方法を採られたのです。それが独り子である主イエスを遣わされることでした。御子は私たちに代わって神の前を聖く歩まれ、信じるものを信仰によって神の国の民にふさわしくされたのです。

神の国の復興  
 イスラエルの人たちは神のアブラハムへの約束を文字通りに理解したため神の国とカナンの地を切り離すことが出来ませんでした。しかし、パウロの言う「希望」はもはや土地には結びついていません。主イエスが王として支配される神の国は土地を持たない民だけの国だからです。そして民もアブラハムの子孫ではなくアブラハムの信仰を受け継ぐ霊的な意味での子孫で、そこにはユダヤ人、異邦人といった民族、人種間の区別はありません。この民が十戒によって神の国を造ることが出来なかった民に代わって神の国を復興するのです。これこそパウロが希望していることでした。
 国の利権、あるいは信仰の約束が他民族の住む土地にあるなら紛争は避けられないでしょう。それが旧約聖書に書かれていることであり、現在のイスラエルとパレスチナの人たちの争いになっています。そのような世界にあって、土地を求めないキリスト者は平和のために貢献できるのではないでしょうか。私たちキリスト者の希望は天にあって、主イエスの再臨の時、朽ちることのない永遠の御国を受け継ぐことを知っているからです。

2002年1月20日日曜日

使徒24章1-27節「死者の復活のこと」

第22号

〈新年礼拝〉

新しい世界


エレアーデという人の書いた永遠回帰の神話」という本を読みますと、古代社会では、宇宙は永遠で物質や生命はその中で現れ消えていく、すなわち万物は成長と衰退を繰り返し、それはあたかも月が新月から満月に満ち欠けを繰り返すのと同じであると書かれています。そして一年をそれに当てはめると、正月は新しい世界の始まりとなります。日本ではごく最近まで、新しい年に古い年の借金の取りたてはありませんでした。落語では長屋の大家さんは何としても除夜の鐘がなる前に、たまっている家賃を取り立てなければなりませんでした。反対に店子の八つぁん、熊さんにとっては大晦日さえ過ぎれば借金は帳消しになったのです。新しい世界に古い世界の出来事を持ち込むなら、全てが台無しになってしまいます。そういえば、子供の頃、元旦の朝起きると、太陽も空気も家も全てが新しくなっているように感じたものでした。このような考え方は、今日でも陰暦を使う世界で共通して見られるようです。また、宇宙は永遠から永遠に続くと考えている世界では、この無限の宇宙と一体になるとき心の安らぎを覚えると言われています。子供のころ野原に寝そべって夜空の星を見ながら宇宙に漂った、何ともいえない懐かしい記憶が思い出されます。

神の支配
 聖書の宇宙観、世界観はそれとは違います。宇宙とその中にある全てのものは神によって創造されたと教えるからです。初めがあり終わりがあって歴史が生まれます。もし宇宙が永遠に続くなら全ての出来事は繰り返しに過ぎなくなります。神によって創られたものには創られた目的、すなわち神の意志があります。神の意志があるところには神の力が働いているはずです。そして実際にこの世で働いている神の力を二つの面に見ることが出来ます。一つはニュートンやアインシュタインの相対性理論に代表される、いわゆる数学的、物理的法則でそれら自然の法則によって神は宇宙を現在の状態に保っておられます。宇宙をその状態に保つ物質間の力は神の力によるもので、その力がなくなれば宇宙は一瞬にして崩壊してしまいます。もう一つは、聖書が証するもので、人間は神と結びつくことによって初めて生きるものとされるということです。人は神の力によって本当の意味で生かされるのです。
 神は最初の人間、アダムとエバを創られエデンの園に置かれ、園の中央にある木の実を食べてはならないという戒めを与えられました。その戒めによって神との間に結びつきが生まれたのです。また神はモーセを通してイスラエルの民に十戒を与えられ、その戒めを守ることによって生きるようにされました。さらに神は御自身の独り子、主イエスをこの世に送られ、その言葉を信じ、守る事によって全ての人を生きるようにされました。

死者の復活
 今日の聖書の箇所でパウロは、ユダヤ人議会でファリサイ派やサドカイ派の議員たちに対し、パウロらキリスト者は彼らと同じ先祖の神を礼拝していると言いました。そしてファリサイ派の人々と同じように旧約聖書全体をことごとく信じ、復活の希望を持っていると言いました。サドカイ派の人たちはモーセの五書しか信じず、復活を信じていなかったため、ユダヤ教の正統派とは言えませんでした。ユダヤ人たちは主イエスを信じる人たちを「ナザレ人の分派」と呼び、ユダヤ教の正統派とは認めていませんでした。「ナザレから何のよいものが出ようか」と言ったのです。しかし、パウロはキリスト者こそアブラハムの信仰を受継ぐユダヤ教の正統派であると言いました。主イエスこそ旧約聖書で予言するメシアだからです。
 神がエデンの園を創られたとき、そこには死はありませんでした。死がこの世に入り込んだのはアダムとエバが神の言葉、すなわち戒めに従わなかったためです。その罪の結果はアダムとエバの子孫である人類全体に及んだのです。しかし神である主イエスは、天の父の御言葉に従い少しの罪のない生涯を送られました。そして人でもあった主イエスは私たちと同じ罪の誘惑に会われました。その主イエスが私たちの罪の贖いのために十字架につかれたのです。しかし、罪の結果である死は主イエスを墓に閉じ込めて置くことは出来ませんでした。三日目に甦られれ、私たち信じるものの初穂となられたのです。
 パウロは、正しい者も正しくない者もやがて復活すると言います。復活し主イエスの前に立つのです。そして、主イエスを信じなかった者は裁かれるのです。その裁きとは主イエスの戒め、すなわちその言葉を信じてこの世を生きたかどうかが問われるということに尽きます。しかし、主イエスを信じている者には御国が約束どおり用意されるのです。これこそ本当の新しい世界なのです。

2001年12月16日日曜日

ルカ1章5-38節「神にできないことは何一つない」

第21号

〈2001年クリスマス〉 

創世記十八章一節~十五節

アブラハムとサラへの約束
 主はアブラハムに現れ「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」(創世記十二章二節)と言われました。しかしあなたに子を与える、あなたの子孫は星のようになる、という約束はいつまで待っても実現しませんでした。年老いたアブラハムを見て、妻サラが考えたのはつかえめであるエジプトの女、ハガルによって子をもうけるということでした。ハガルは身ごもり、その子はイシマエルと名づけられました。その時、アブラハムは八十六歳でした。
 主の使いは再びアブラハムに現れ「わたしは彼女(サラ)を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸国民の王となる者たちが彼女から生まれる」と言われました。アブラハムは笑ってひそかに言いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(一七章十五~十七節)
 主の使いは再び現れました。神の言葉を聴いて顔を伏せひそかに笑うアブラハムとサラ。神の約束の言葉はむなしいと知ってハガルによって子供を得ていた彼ら。そのアブラハムとサラになお「主に不可能なことはあろうか」と語りかけられる神の姿があります。そしてこの神の言葉を聴いて恐れ、「私は笑いません」となお自分の信仰を取り繕おうとするサラの姿があります。ユダヤ人の先祖となったアブラハムとサラの生き方は私たちに神への信仰とは何かを教えます。
 アブラハムとサラの夫婦はついに主が約束されたように自分たちの子、イサクを得たのです。その時アブラハムは百歳でした。そして九十歳のサラは我が子を自分の胸に抱いたのです。サラは「神はわたしに笑いをお与えになった。聞くものは皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(二十一章六節)と言いました。その喜びはどれほどのものだったでしょうか。

ヨセフとマリアへの約束
 アブラハムからおおよそ二千年後、主の使いがガリラヤのナザレという町に住むおとめマリアに遣わされました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。」マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えます。それに対し天使は「神にできないことは何一つない」と言われました。その言葉は主の使いが年老いたアブラハムとサラに言われたことでもありました。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言って受け入れたのです。
 しかし、マリアの苦難はそのときから始まりました。不義を働いたと思ったヨセフは、マリアと離縁しようとしました。女一人で乳飲み子を抱えて生きていくのは困難な時代でした。しかし、天使はヨセフにマリアが聖霊によって身ごもったという事実を告げたのです。ヨセフとマリアの家庭は、子供たちに囲まれた愛のある和やかなものであったと思われますが、長くは続きませんでした。ヨセフが比較的若くして亡くなり、長男のイエスが父ヨセフの仕事を継ぎ、大工として家族を支えていました。しかし、そのイエスも三十歳頃には公の伝道生活に入り、三年後、十字架の死を遂げることになったからです。マリアはイエスの死を十字架の下で見ていました。どれほど大きな痛みであったでしょうか。しかし、その涙はぬぐわれることになります。
 マリアは三日後、復活の主イエスに出会います。それは生前、主イエスが約束されていたことでした。マリアは主イエスが神であって、神の言葉は確かなことを知ったのです。

私たちへの約束
 ヘブライ人への手紙に、神は私たちにもっとよい都を天に準備されているとあります。そしてアブラハムとサラはこの天の故郷を熱望していたと言います(十一章)。同じようにマリアも主イエスに、そして苦労を共にした愛する夫、ヨセフに御国で再び会うことが出来るのを知ったのです。
 同じことは私たちにも言えます。私たちは、死は永遠の別れであって、愛するものと二度と再び会えないと思っています。しかし、今も生きておられる主イエスと人格的な交わりを持つことによって、永遠の命の約束が確かなものであるのを知るのです。それは「神にできないことは何一つない」という神の絶対的主権を教えるものです。そしてそれは、永遠の命が確かなのを教えるために、神が人となってこの世に来られたクリスマスの出来事でもあるのです。

2001年10月21日日曜日

使徒15章1-35節「重荷を負わせない」

第19号

創世記17章1節~14節

  9月11日に起ったアメリカ同時多発テロの衝撃は、多くの人にこれからの世界が今までと違ったものになっていくのではないかという不安を抱かせました。その後に続いたアフガニスタンへの報復攻撃により、それが現実になっていくのを実感させられます。今回の多発テロは理由がどのようなものであれ、決して許せるものではありません。しかし、その背後には南北問題(貧富の格差)やアメリカの一極支配(政治、経済、軍事、文化、価値観など)や、アメリカがこの地域や中東でして来た事、特にイスラム諸国からイスラエルの後ろ盾となっていると批判を受けているパレスチナ問題などがあります。
  私たちキリスト者もこの世界の現実に目を背けて生きる事は出来ません。世界で起っている事をどのように考え、受け止めて生きるかは私たちの信仰の問題でもあります。そして、今日の箇所はこのような世界をどのように捉えたらよいのか、その示唆をも与えます。

 15章のはじめには、アンティオキア教会からパウロやバルナバをはじめ数名の者がエルサレム教会に集まって来た事が書かれています。ファリサイ派からキリスト者になった人たちが「異邦人も割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救われない」と主張したからです。彼らは主イエスの救いを否定したのではありません。ただ、それだけでなく割礼と律法も救われるために必要であると言ったのです。(以後、救いには行いも必要とする考えを「行為義認」と呼ぶ)これに対してパウロたちは、神である主イエスが血を流して私たちの罪を贖ってくださったので、それを信じる信仰だけで充分であると主張したのです。(以後、「信仰義認」と呼ぶ)
  私たちは誰でも自分には価値があり、それを人に認めてもらいたいという思いがあります。同じように信仰者にも、神が求めているよい行い(律法)をする事によって神に認めてもらいたいという強い思い、即ち行為義認の考えがあります。しかし、人は律法に熱心になればなるほど、それに反して行動する人たちを裁くようになり、遂にはそのような人たちを殺す事すら正当化するようになります。事実、律法の遵守者であるファリサイ派の人々は、主イエスが安息日を守っていない、また、そのような者が自らを神と称していることなどを理由にして十字架につけました。パウロもまたファリサイ人であった時、キリスト者を迫害し、ステファノの殺害に賛成しました。
  アメリカと戦う人たちは、自分たちは正しいと信じ、その為には罪のない人が巻き添えになっても仕方がないと考えるのでしょう。この考えはアメリカの報復戦争にも見られます。テロの撲滅こそ今回犠牲となった人たちに報い、そして二度と悲惨な犠牲者を出させない道であるとその正当性を主張します。しかし、それにより新たな難民が生まれ、罪のない多くの市民も死ぬ事になるでしょう。その結果、民衆の怒りは広がり、新たなテロが起るのではないかと案じられます。遂にはアメリカ(及び同盟国)とイスラム国家との終わりのない戦いに発展する危険すらあります。正しいと思ってした行為の中にも自分たちの支配や権威を正当化させようとする思い、即ち罪が入っている事があります。いずれにせよテロ行為の大義名分としている様々な問題をそのままにして、武力による解決は難しいと思われます。
  困難ではあってもテロ犯罪者だけが捉えられ、合法的な裁判にかけられる道を選ばなければならなかったのではないでしょうか。そしてテロを生む土壌が解決されなければなりません。豊かな国に住む人たちは、自分たちの利益の追求だけでなくその富や技術を他の国の人たちに分かち合う必要があります。一部の先進国だけが豊かな生活をして、他の国は貧しいままでいいはずはありません。私たち人類は、人種や民族、住んでいる国家が違っても同じ兄弟姉妹だからです(創二章二節)。

 エルサレム使徒会議では行為義認ではなく、パウロたちの主張する信仰義認が公式に認められました。これによってキリスト教はユダヤ教から分かれました。救いは神の恵みによるのです。主イエスは私たちに代わって律法を全うされて死なれ、甦られ、天に昇り、約束の聖霊を父なる神から受け、私たちに注がれました。この聖霊こそダビデの壊れた幕屋を立て直すものです。私たちの内に住まわれる事によってエルサレム神殿ではない新しい神殿、即ち教会が形成されたからです。
  教会は罪人であったにも関らず主イエスの十字架による一方的な愛によって救われた者の群です。その私たちには、不正に対してテロや武力で報復する権利はないと思います。そして、罪人であった私たちに示された神の愛を人と社会に実践する以外、主イエスから何の重荷も負わせられていないと信じます。

2001年9月16日日曜日

コリント一15章12-28節「初穂なるキリスト」

第18号

 〈逝去者記念礼拝〉

詩編90編1節-17節    

 8月28日(火)、一人の姉妹が天に召されました。また、昨年の10月と12月にも葬儀がありました。
 詩編九十編には全ての人は死ぬと書かれています。古今東西、永遠に生き続ける人はいません。しかし、私たちは普段、死についてはあまり考えません。特に若い時は、自分の人生は永遠に続くように思っています。大病するとか、事故にでも会わない限り、死は自分とは関係がないのです。しかし、年を取るに従って人は死を考えざるを得なくなります。


 若い時、私たちには力があり、将来への希望がありました。この間、NHKテレビで青春歌謡特集をしていました。番組は明日、将来、希望、力、頑張ろうといった言葉で溢れていました。
 若い時、一人暮らしをした事があります。大変でしたが楽しい経験でもありました。そして、その後の三年半のアメリカ生活は本当に素晴らしいものでした。しかし、四十代の後半になって仕事の都合で宇都宮に単身赴任した時は、大変で辛いだけでした。日曜日、NHKの大河ドラマが終ると、さあ、これから戻らなくてはと胃が痛くなったものです。ある冬の夜、仕事からアパートに帰って暗い部屋に灯りをつけようとして急に父親を思い出しました。父も同じような苦労をしていたのかと身近に感じたのです。亡くなった父も仙台に単身赴任したことがあったからです。
 父に続き、二歳違いの弟が亡くなり、母や妹たちは秋田に行き、そして一人息子もまた巣立って、今、牧師館に夫婦二人だけの生活です。先ほどの詩編に、瞬く間に時は過ぎ、人生は飛び去り、ため息のように消えうせるとあります。五十代の半ばを過ぎて、私もまたこの言葉の持つ意味が少しずつ理解出来るようになって来ました。
 人生がこの世だけのものであるなら、私たちの人生にはどのような意味があるのでしょうか。パウロは「もし、使者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」と言います(三十二節)。しかし、旧約の人たちは救い主を待ち望む信仰によって救われていたのです。「主よ、帰って来て下さい。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕(しもべ)らを力づけてください」とあります。彼らはシメオンやアンナと同じように、主イエスを御国で直ちに認め、その足もとに駆け寄ってひざまずき、救い主を讃美するのです(ルカ、二章参照)。
 旧約聖書が救い主を待ち望む信仰を人々に与えるなら、新約聖書はこの救い主が私たちに与えられた事を教えます。コリント一、十五章十二節~二十八節には何と十六回もキリスト(油注がれた者、救い主の意、ヘブル語はメシア)という言葉が繰返されています。キリストは復活されたのです。そしてこのキリストの復活こそ、キリスト教の最も大切な事実であって、このことなくしてキリスト教は生まれませんでした。

 弟は四十七歳で亡くなる三年前に直腸ガンと診断され、肺から脳、そして骨に転移しました。そのような中で、「兄さん、この苦しみも永遠の命に比べれば無に等しい」と言ったのが思い出されます。まだ小学生の二人の娘を残して死ななければならなかったのはどれほど無念な事だったでしょう。弟は八月に天に召されました。私はそれまでの祈りと御言葉に従い、道が開かれるままに十月に仕事を辞め、翌年の四月神学校に入りました。
 キリスト者はこの世だけの事を大切にし、神と人を愛するだけのいわゆる良い人ではありません。弟がそのような人であるなら、残される子供の事を考え、神は何故、今、私の命を取られるのか、私が何をしたのか、と神を恨んだ事でしょう。しかし、弟は後に残していく娘たちと再び会えるのを信じていたのです。そして苦しみのなかにあっても聖霊が必要な助けを与えて下さっていたのがよく分かります。その顔は安らかで、確かに神はおられるのを確信させられました。私も高校生の息子の将来の事だけを考えるなら、せめて大学を出るまでと職場の机にしがみついていたでしょう。その息子も無事に大学を卒業することができました。弟の連れ合いはその後、牧師と再婚し、娘たちは今、大学生と高校生です。私たちが神を第一にして生きるなら神は私たちに良い生涯を備えて下さいます。それは決して安易で快適な生活を約束するものではありません。しかし、神の国があるのを知るようになるのです。主イエスが支配される国です。
 この主イエスが最後の敵として滅ぼされるのが死です。私たちは愛する者と再び会う事が出来ます。そして、その確かな初穂として、主イエスは甦られたのです。

2001年7月15日日曜日

使徒11章1~18節「あなたと家族を救う言葉」

第16号

  創世記16章9節~14節    

 カイサリアではペトロの働きによってローマ人の百人隊長コルネリウスと彼の親類、そして親しい友人たちが神の言葉を受け入れました(十章)。しかし、そのことを耳にしたエルサレム教会の信徒たちは、ペトロがカイサリアから戻って来ると、非難し始めました。彼らが問題にしていたのは、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」ということでした。

 神はユダヤ人の祖先であるアブラハムとその子孫に土地を与える約束をしましたが、身体を傷つける割礼はその契約のしるしでした(創世記十七章九節~十四節)。その割礼によりユダヤ人たちは神の契約は自分たちだけに与えられていると信じたのです。また、食事規定は神がモーセをとおしてイスラエルの民に与えられたもので、生き物を清い物と汚れた物に分け、清い物だけを食べなければならないとするものです(レビ記十一章)。清い物を食べている自分たちユダヤ人だけが聖別され、聖なる神に受け入れられると考えたのです。
 ユダヤ人の割礼と食物規定は、厳格に守れば守るほど、それらを守っていない他の人たちを自分たちとは違う異邦人とみなし、彼らとの交わりや結婚を困難にしてしまいます。事実、それがユダヤ人の歴史でした。そしてこの事が、ユダヤ人が小さな民族ではあってもアブラハムの時代から今日まで存続した理由でした。
 割礼を受けていない者と一緒に食事をしたペトロを認めるなら、自分たちもまた異邦人を受け入れなければならなくなります。そうなるとユダヤ人と異邦人の区別はなくなり、神に選ばれた民としての、自らの存在の根拠を失ってしまうのです。

 このような非難に対してペトロはどのように弁明したのでしょうか。彼は事の次第を順序正しく説明したのです。
 まず、ヤッファの革なめし職人シモンの家にいた時、昼、祈るため屋上に上がりました。するとそこで幻を見ました。天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされて、地上に下りて来たのです。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がしたのです。その事が三度あり、その入れ物は天に引きあげられました。その幻の意味について考えている時、カイサリアのコルネリウスのところから三人の使いが到着しました。これらの事が神から出たことを確信し、彼らを家に入れ、翌日、カイサリアに六人の信徒たちと出発したのです。カイサリアに着くとコルネリウスから天使が彼に告げた御告げを知らされました。それは、「ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる」と言うものでした。それを聞いて、集まっている人たちに主イエスについて話し始めると、直ちに彼らの上に聖霊が降ったのです。
 割礼を受けていない者たちに聖霊が降ったこの出来事は、ペトロに生前、主イエスが言われた「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける」を思い出させました。
 ペトロを非難していたエルサレム教会の信徒たちは彼の説明に納得し、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えて下さったのだ」と言って神を讃美したのです。

 コルネリウスが遣わした三人の到着が一時間早かったらどうでしょう。ペトロの泊まっていた家の主人シモンは、異邦人である彼らの訪問を丁重に、しかしはっきりと断ったことでしょう。到着が一時間遅れてもやはり同じ事になったでしょう。ペトロに「ためらわないで一緒に行きなさい」と言われた主イエスが、このすべての出来事を支配しておられたのです。そして、その神は聖霊を与えられるのにユダヤ人と異邦人の区別をされなかったのです。エルサレムの教会の人たちは、ペトロと六人の同行者の証によって異邦人が主イエスを受け入れ救われたのを知ったのです。

 私たちは正しい人、清い人、立派な人でないと救われないと考えます。しかし、神は人を分け隔てせず、どのような人も受け入れられるのです。私たちに必要なのは罪を告白し、主イエスに従う決心をすることです。そうするなら聖霊が与えられます。これが救いで、主イエスの福音です。それが「あなたと家族を救う言葉」なのです。
 聖霊を与えられ救われた者は、割礼は心の割礼、すなわち聖霊を受けることであることを知ります。聖霊を受けて初めてどのような人であっても神の家族の一員になり、そして、今度は主イエスと共に食卓にあずかることを赦されているのを知るのです。