2003年1月19日日曜日

創世記1章1-3節「光あれ」

第34号

<新年礼拝>

 新しい年が明けました。子供の頃、元日の朝は太陽も空気も町もすべて、そして親の顔さえも何か新しくなったように感じたものです。陰暦の世界では、宇宙の成長、衰退を月の満ち干のように見ています。そしてそれを暦に当てはめて一年の始まりを宇宙の始まりと考えました。この考えによれば元日は新しい世界の始まりです。日本も陰暦を使用していましたので(正式には明治六年まで)その考え方は最近まで残っていました。
 しかし聖書の世界はそれとは違います。「初めに、神は天地を創造された」のです。空間と時間、そしてその中にあるすべてのものは神によって無から創造されたものです。従って宇宙は偶然に生まれたものでも、根源的なものでもありません。
 「神の霊が水の面を動いていた」とあります。聖霊なる神が創造の業に参加していたのです。「神は言われた『光あれ』」、神の創造の意志が語られた言の力によって現実の存在となったのです。ヨハネによる福音書章には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(一節)とあり「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(一四節)とあります。このことにより主イエス・キリストが創造の業に参加していたのを知ります。旧約聖書の最初に三位一体の神を見るのです。「地は混沌であって闇が深淵の面にあり」ました。原始の地球の表面は厚いガスに覆われ、太陽の光が地表に届くことのないカオス的状態でした。

 光が届かない。それは罪にさえぎられ光が届かないという意味で今日の世界に重なります。今年の世界はまさに創世記で書かれている混沌と闇そのものではないでしょうか。アメリカとイラクの戦争はもう既に決まっているかのように報道されています。そして北朝鮮の崩壊は時間の問題と多くの人は言います。その前に何かが起こるのでしょうか。北朝鮮をめぐる緊張は高まっています。アメリカのような豊かな国であってもテロの恐怖があり、貧しい国では飢餓で多くの人、特に幼い子供たちが死んでいきます。エイズもまた多くの国の社会問題となっています。最近まで科学や医学の進歩はわたしたちに幸福な未来を築く期待を抱かせましたが、今やそのような楽観的な考えを信じている人はほとんどいないのではないでしょうか。クローン人間が誕生したとの未確認情報が世界を駆け巡りましたが、それは多くの人にとって決して朗報とは言えません。
 わたしたちの周りを見ても競争はますます激しくなってきています。会社は生き残りで必死です。仕事や事業に行き詰まり、借金、対人関係、家庭内のさまざまな理由から、絶望し、無気力となり、肉体や心を病み、ついには死を選ぶ人が多くいます。日本では自殺者が年間千人とも言われています。十五分に一人が自殺で死んでいくことになります。自殺はもはやニュースとして取り上げられることもないのです。
 世界の問題にしても個人の問題にしても人間の力ではもはや解決出来ないのではないでしょうか。そう思わざるを得ないところに本当の問題があります。将来何が起こるか分からない、あるいは何が起こっても驚かない社会となって来ているのです。

 原始の地球では光が地表に届きませんでした。混沌と闇の世界に神は「光あれ」と言われたのです。光が地表に届くことによって初めて地に秩序が出来、生命が生まれたのです。光はこの世に命をもたらしました。同じことがこの世界にも、そしてわたしたちの心の内面にもいえるのです。主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ八:一二)と言われました。
 ヘレン・ケラーはご存知のように盲目の聾唖者でした。少女の頃、何か気に入らないことがあると癇癪を起こし、手当たり次第、物を壊し、暴れました。混沌と闇の世界に彼女は生きていたのです。このヘレンにアン・サリバン女史はキリストの愛を伝えました。その結果、ヘレンは自分の心には黄金の部屋があり、魔法の光を宿していると証できるようになりました。彼女の心のなかに主イエスが宿ったからです。そして主イエスは彼女だけでなく彼女を通して光となって世界を照らしたのです。主イエスは「あなたがたは世の光である」(マタイ五:一四)と言われるのです。
 この世にもそしてわたしたちの心にも混沌と闇があります。そしてこれらの問題の解決はわたしたち人間の力を超えているのではないでしょうか。唯一の救いは「光あれ」と言われた神から来るのです。自分の心に主イエスを受け入れてはじめて問題は解決されるのです。そしてその光は自分だけでなく、家庭を、職場を、世界を照らすのです。

2002年12月15日日曜日

ロマ書15章1-13節「希望の源である神」

第33号

 

   創世記28章10-15

 ローマの教会には少数派ではありましたが、肉やぶどう酒を食べたり飲んだりせず、また、特定の日を他の日よりも大切にする人たちがいました。パウロは彼らを信仰の弱い者と呼び、何でも食べ、全ての日を同じように大切にする人たちを信仰の強い者と呼んでいます。信仰の弱い人たちは良心の呵責なしに信仰の強い人たちと同じことをすることは出来ません。しかし、信仰の強い人は弱い人と同じことをすることが出来ます。パウロは信仰の強い人に対して「全ては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります」(二〇節)「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と言うのです。
 わたしたちは信仰の強い人と言いますと、自分の確信どおりに人を導く人、洞察力や指導力のある人と思いがちです。しかし、信仰においては強いということは人の重荷を担うことができるという意味にほかなりません。主イエスは神であるにもかかわらず、寡婦、孤児、病人など社会の最も弱い人々の立場に立たれました。そして十字架の死に至るまで、他の人の弱さを引き受けられました。つまり信仰の強い人とはどれだけ人を愛せるか、人を助けることが出来るか、またその人の立場で考えることが出来るかということです。軍事力で力を誇示している国と発展途上国に援助をしている国とでは、どちらが強いと言えるでしょうか。個人においても同じです。競争社会で相手に勝たなければといつも対立姿勢でのぞむ人と、弱い人を支え、重荷を担う人とではどちらが強いのかは言うまでもありません。
 しかし、信仰の強い人は人の弱さを担うがゆえに、この世的に見るなら弱い人と同じように見えます。十字架につけられた主イエスを見て、周りの人は本当にこの男は神の子なのか、人を救ったが自分を救うことが出来ない、神の子だったら十字架から降りて来い、そしたら信じてやろうと嘲笑しました(マタイ二七:三九~四三など)。彼らにとっては、十字架は弱さ以外の何ものでもなかったのです。しかし主イエスを神と信じる者にとっては、十字架は神の強さの表れなのです。

 信仰の強い人、それは希望がその人を強くしているのです。神を信じる信仰のない人は仕事に、結婚に、そして、地位や、名誉や、財産に希望を託します。しかし、希望は一つづつ消えて行きます。そして最後の希望が消えたとき人生を諦めるのです。「空しい」これが神を信じない者の共通の人生観です。そしてまだ希望を持って頑張っている人を見ると、あいつはまだ若い、枯れていないと言うのです。
 パウロは、異邦人はこの世にあって希望もなく、神もない者であった、と言います(エフェソ二:一二)。神を知ることによってのみ希望を持つことが出来るのです。神なる主イエスを知ることは、復活を知ることであり、わたしたちに約束されている永遠の命を知ることです。しかし、この希望は自分で持つことは出来ません。この希望は神から与えられるのです。

ヤコブは年老い盲目となった父を欺き、長子の祝福を奪い取りました。このことが兄エサウの恨みをかい、結局、家にいることは出来なくなりました。母の実家、ハランに一人さびしく旅立ち、途中、石を枕に寝ている時、夢に神が現れたのです。その神は祖父アブラハムの神、父イサクの神でした。神はヤコブに、土地と子孫を与え祝福の源になると言うアブラハムへの約束を再確認しました。そしてそれに加え、わたしはあなたと共にいる、わたしはあなたを守る、約束の地にあなたを連れ帰る、そしてあなたを決して見捨てないと約束されたのです。孤独なヤコブはこの神の言葉によってどれほど力づけられたか分かりません。事実二十年経って神はヨセフをハランから約束の地に導き帰るのです。しかし飢饉の時、年を取ったヤコブはこの約束の地から子供らと共にエジプトに下りました。そこで死んだと思っていた息子のヨセフに会い、そして死の床からべテルでの出来事を話して聞かせ、自分の亡骸をエジプトではなく約束の地に埋めるように求めるのです。ヨセフはその約束を守ります(四八~五〇章)。ヤコブの生涯は神に会った時から希望の人生を歩み始めたのです。約束の地を与えると言う神の約束を信じたからです。
 わたしたちも同じです。人生の旅路で一人歩むわたしたちに神が語りかけてくださったのです。そのときからヨセフと同じように神が「わたしの神」となるのです。神がおられる。どんな苦難にあっても神が共にいてくださる。それはどれほどの安らぎであるか分かりません。それだけでなく、永遠の命に預かる約束が与えられているのです。神こそわたしたちの希望の源なのです。

2002年11月17日日曜日

コリント一15章50-57節「勝利を賜わる神」

第32号

<永眠者記念礼拝>

創世記3章1-7

 神はエデンの園の中央に、命の木と善悪の知識の木を置かれました。そしてアダムとエバに、園のどの木からも食べてよい、ただし善悪の知識の木からは決して食べてはいけない、食べると必ず死ぬ、と言われました(創二:一七)。園の中央にある二本の木は絶えずアダムとエバの目に留まり、神の戒めを思い出させたのです。神を思うことは彼らにとって大きな喜びでした。それが二人に戒めを与えられた神の目的でもあったのです。
 そのアダムとエバのところに蛇がやって来ました。そして「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と神の戒めを意図的に歪曲し、エバに疑問を抱かせたのです。エバは訂正し「わたしたちは園の木の果実を食べても良いのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてはいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えましたが、神の戒めを少し拡大解釈しています。すると蛇はエバに「決して死ぬことはない」と偽り、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」とその理由を説明しました。事実「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」ので、彼らは取って食べてしまいました。すると二人の目は開けたのです。

神は御自身に敵対する悪を知っておられます。しかし、アダムとエバは神のことばに従って生きていたのでそれまでは善しか知りませんでした。この時、神のことばに背いて生きる罪の側に立ったのです。アダムとエバの心を覆っていた神の霊は去ってしまいました。それは二人にとって考えられなかった、愕然とする出来事であったに違いありません。二人はすぐにイチジクの葉を取って腰に巻き、裸を隠そうとしました。神の霊の宿っていない心を隠さなければならなかったのです。神を恐れ、隠れ、顔を避けるようになりました。人は神から離れ、自分の考えで生きようとし、自分を神とするようになりました。アダムとエバはエデンの園を追い出され、霊的にも肉体的にも死ぬ者となったのです。この罪の結果はアダムとエバの子孫全てに及んだのです。

わたしたちは夜空の星や野の花を見るとき無から有は生じない、これらは偶然ではない、確かに神はおられると思います。しかし、貧困、戦争、不義、不正といったこの世の現実を見る時、神がおられるなら何故このような状況を放っておかれるのかと思います。神との知的な対決、それはアダムとエバに起こったことでした。アダムは神に「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木からとって与えたので、食べました」と言い、女に、いや神に責任を転嫁させています。そこには「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」とエバが与えられたことを喜び、神に感謝するアダムの姿はありません(創二:二三)。同じようにエバも「蛇がだましたので、食べてしまいました」と答えています。結局、このようになったのは神が悪いというのです。
 人は神から離れて生き、死で全てを終わりにしようとします。しかし聖書は、わたしたちは一人ひとり神の裁きの座に立たなければならないと教えます。神の前に自分の人生は正しかったと主張出来る人はおりません。しかし、人であり、神であられた主イエスは神の前に立つことの出来る唯一のお方です。主イエスは人の子としてわたしたち人間の全ての苦難、弱さ、罪の誘惑を経験されました。そして神である主イエスは少しの罪も犯されなかったのです。主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と叫ばれました(ルカ二三:三四)。十字架でわたしたちの罪を贖われたのです。この主イエスを神は受け入れました。わたしたちの裸を隠すには主イエスを着ること以外にはありません。わたしたちの罪の身代わりとなられた主イエスが、わたしたちの裸を再び覆って下さるのです。その意味において、今日の世界にも二本の木が立てられています。一本は主イエスの十字架で、もう一本はわたしたち自身です。一本はいのちの木でありもう一本は善悪を知る木です。十字架のことばに従って生きるのかそれとも自分の考えに従って生きるかがわたしたちに問われているのです。

 この教会から多くの人を天に送りました。彼らは信仰をもって亡くなられたのです。永眠者記念礼拝といいますが、その方々は永遠に眠り続けるのではありません。神は主イエスによって信じる者に勝利を賜わるのです。主イエスによってわたしたちは先に召された人たちと再び会う希望を持つことが出来るのです。

2002年10月20日日曜日

ロマ書12章1-2節「なすべき礼拝」

第31号

<神学校日・伝道者献身奨励日>

 個人として神を信じない人はいても宗教をもたない民族はないと言われています。古代では多くの場合、礼拝において神に自己の所有物の一部を捧げる儀式的行為の形をとっていました。捧げものは農産物であれば「供え物」、生きものであれば「いけにえ」となります。日本でも、建築や土木工事をはじめる前に地鎮祭を行い、お酒や、米、果物、野菜などを供え、工事中の安全を神に祈願したりします。
 聖書の時代のユダヤでも祭壇に大麦、小麦といった穀物が収穫の感謝として供えられました。またいけにえとして羊、牛などの祭儀的に清い動物が捧げられました。いけにえはイスラエルの民をエジプトから救ってくれたことへの感謝、神との交わり、そして何よりも民の罪の贖い、すなわち祭壇に注がれた動物の血が自分たちの命の身代わりとして捧げられたことを意味しました(レビ一~四)。キリスト教は、神の子である主イエスがこの世に遣わされ、十字架で私たちの罪のいけにえとなられたことを教えます。しかし私たちの心は頑ななため、神の方で私たちに働きかけ心を開いてくださらない限り信じることはできません。つまり私たちが信じられるのもまた「神の憐れみによって」なのです。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」とパウロは言います(一一:三六)。

 キリスト教の礼拝は、ユダヤ教のいけにえの儀式に代わって主イエスへの感謝と救われた喜びの表明となりました。そして、自分の所有物の一部ではなく、自分自身を捧げるため神のみ前に出るのです。しかし、私たちは礼拝の対象である神をどのように信じているのでしょうか。キリスト者であっても、私たちを取り巻く厳しい現実に目を向ける時、疑いの念が起こるのではないでしょうか。戦争やテロ、差別や貧困、環境破壊などの世界のさまざまな問題を見、また自分自身が怪我や病気をしたり、他人から中傷や迫害を受けた時など、神がおられるとは思えなくなるのです。神がおられるなら何故このようなことが世界に、そして自分の身に起こるのかと思うからです。私たちは皆、自分の考えやこの世の常識、価値観に捉われて生きています。しかし、そのような私たちに主イエスはご自身の言葉に従って生きることを求められるのです。
 主イエスと弟子たちがマルタとマリアの家で食事をされたとき、マルタはその準備で大忙しでした。しかし気が付くと妹のマリアは主イエスの足元で話に聞き入っています。マルタは主イエスのところに行ってマリアに手伝うように言いました。すると主イエスはご自身の言葉を聞くことの方が大切であるとマルタに諭されたのです(ルカ一〇:三八~四一)。主イエスはマルタの常識的な判断に従ってマリアに手伝うようには言われませんでした。パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(一〇:一七)と言います。神の言葉である聖書は万物の創造者なる神と摂理を教えます。飛んでいる空の鳥すら落ちるには神の許しがあり、私たちの髪の毛すら全て数えられていると言うのです(マタイ一〇:二九、三〇)。神の言葉によってはじめて神がこの世を支配しているのであって、人間の考えや偶然、そして因果律がこの世を支配しているのではないのを知るようになるのです。この世に倣うのではなく、心を新たにし、神の言葉によって自分を変えていただくとき初めて、何が神の御心か、何が善いこと、神に喜ばれ、完全なことであるかをわきまえるようになるのです。それがなすべき、すなわち理にかなった礼拝なのです。

  神の言葉を聴いて歩むには毎日曜日の礼拝は欠かすことができません。教会の礼拝では神の言葉が語られ、御言葉の解き明しがなされています。そして語られた神の言葉への応答、すなわち讃美と献身が会衆によってなされるのです。ある人にとって教会の礼拝に出席することは犠牲を伴うことかもしれません。しかし、神を第一にしてその週を始めるなら、払った犠牲以上に神は報いてくださいます。
 公同の礼拝と共に個人でする毎日の礼拝も欠かすことはできません。聖書を読み、祈り、神の言葉を聴くのです。エジプトを出たイスラエルの民はそれぞれが毎日朝、マナを集めてその日一日の食料としなければなりませんでした(出エジプト一六)。毎日の食事と同じように私たちは毎日霊の食べ物が必要なのです。
 求道者の方にはこれからの生涯を教会の礼拝と個人の礼拝でキリストの言葉を聴きながら送ることを勧めます。それは主イエスの導きを信じ、生涯を主イエスに委ねることです。そうすることによって、自分の考えとこの世の常識に従って生きる生き方と比べてどれほどすばらしいかを証できるのです。

2002年9月15日日曜日

ロマ章10章5-21節「キリストの言葉を聞く」

第30号

 

申命記30章11-20節

  「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とパウロは言います。しかしイスラエルの民はキリストの言葉を聞くことを拒否しました。「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのもの」だったからです(一〇:一~四)。彼らは自分たちに与えられた約束により律法を守ることによって救われると信じていました。彼らは自分の義を求め、神の義に従わなかったのです(一〇:三)。自分の義とは自分の良い行いで救われようとすることであって、御子イエスを信じる者たちを義とされる神の義に従うことにはなりません。神の義に従うということは、主イエスが神であることを認めその言葉に従うことです。それは、今までの自分中心の生き方、考え方から神中心に変わることでもあります。

 信仰はキリストの言葉を聞くことによって始まるとパウロは言いましたが、「聞くこと」とはドイツ語訳では「説教」と訳すのが一つの伝統となっているそうです。そして「キリストの言葉」とは聖書の御言葉です。旧約聖書もまたキリストである主イエスを証します。パウロはこの箇所でイザヤ書二八章一六節とヨエル書三章五節から「主を信じる者は、だれも失望に終わることはない」、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」を引用していますが、この「主」はいずれも「キリスト」すなわち「主イエス」に他なりません。パウロはこのように比較的自由に旧約聖書で「主」と書かれているところを「主イエス」にあてはめて引用しています。新約聖書は主イエスを証するものです。特にその中の四つの福音書は生前主イエスが語られた言葉を集めたものです。従って礼拝での説教はキリストの言葉との対話でもあります。主イエスの言葉に従うことを聴く者に求めるからです。「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。信仰は説教を聞くことによって始まるのです。

 しかし、キリストの言葉は私たちの心になかなか受け入れられません。それはマタイによる福音書一三章にある「種を蒔く人のたとえ」のとおりです。道端に蒔かれた種は悪い人がやって来て奪い取るのです。石だらけの所にまかれた種は艱難や迫害が起こるとすぐに信仰を棄てる人で、茨の中にまかれた種はこの世の思い煩い、富の誘惑があったとき信仰を棄てる人たちです。良い土地に蒔かれた種だけが実を結び何十倍、何百倍にもなるのです。キリストの言葉はやわらかい心に宿るのであって、固い心には宿ることができません。キリストを受け入れる、それは魂の奥深いところにキリストの言葉がしっかりと宿ることで、心に律法を記することに他なりません(エレミヤ書三一:三三)。そして主イエスの言葉が心に宿る時、心は喜びで満たされ、新しい人となるのです(二コリント書五:一七)。主イエスを受け入れるのにイスラエルの民と異邦人の区別はないのです。
  それでは神は何故イスラエルの民を選ばれたのでしょうか。それはイスラエルのためではなく神の御業、すなわち栄光のためでした。世界の民族の中で最も小さく弱いイスラエルの民を神の祭司として神に栄光を帰するために選ばれたのです(出エジプト記一九:六、申命記七:七)。そしてそれはイスラエルの民の喜びにつながるはずでした。しかし、彼らは神の言葉がゆだねられたことにより高ぶり、自分たちは特別な民だとする選民意識があまりにも強くなったため、主イエスを受け入れることができなくなってしまったのです。

 昔、マラトンでアテネを中心としたギリシア軍が、ペルシャの大軍を迎え撃って勝利を治めました。そのとき勝利を知らせるためにマラトンからアテネまでを駆け抜いて、「我が軍勝てり」と叫んで息絶えた伝令者の伝説がマラソン競技の起源だといわれています。「良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」。その伝令者と同じように伝道者もまた、神の子キリストが勝利を治められた、キリストによって私たちに神との平和がもたらされたという福音を伝える者に他なりません。伝道者のよき訪れの言葉を信じる者は救われるのです。伝道者の行く先々で人々の心に平和と喜びが広がって行くのです。しかし福音を信じない者は未だに不安の中にいるのです。「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べているのです」と主イエスは言います。その手はイスラエルの民にも異邦人にも差し出されているのです。

2002年8月18日日曜日

ロマ書8章26-30節「神を愛する者たち」

第29号

  エフェソの信徒への手紙14-7

  マナの会では「信徒の友」の特集を学んでいますが、七月は<「わたし」と出会う旅>でした。その中で「ジョハリの窓」というのがありました。これは心理学者ジョセフ・ラフトとハリー・インガムが考案したもので、人の心の中には四つの窓があるという考え方です。それは、一、自分も他人も知っている私、二、他人だけが知っている私、三、自分だけが知っている私、四、自分も他人も知らない私、です。確かに私たちは自分についてある程度知っているでしょう。明るい、暗い、神経質、短気、おしゃべりといったことです。また積極的な人もいれば消極的な人もいます。このようなことについては周りの人のほうがよりはっきりと見えるものです。しかし、このようなことではなく、他人と違う自分を見つめ、その自分に正直に生きたいという場合の自分とは一体何でしょうか。
  ギリシャの哲学者、ソクラテスは「汝自身を知れ」と言いましたが、人間は自分が分からないのではないでしょうか。どこから来てどこに行くのか、今何をしなければならないのか分からないのです。自分が分からなければ当然生きる目的も分かりません。とりあえず良い大学に入ろう、自分の性格に合った仕事や結婚相手を見つけてなるべく楽しく生きよう、ということになります。しかし、どのような生き方をしても自分が何者であるか分からず、生きる目的が分からないのは苦しいことです。

 私たちは人生経験や心理学、あるいは宗教、哲学によって自分を知ることは出来ません。そうではなく神を知ることによって初めて自分を知るのです。何故なら神は人をご自身にかたどり、ご自身に似せて造られたからです(創:二六)。そして人を造られた神だけがこの私を知っているのです。神は「私はあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた」(エレ:)、そして天地創造の前に、あなたを愛していたと言われます。
  この神があらかじめ定められた人たちを召し出すのです。「神を愛する者たち」は「御計画に従って召された者たち」に他なりません。神によって召し出される前、私たちは神を認めず、反抗し、避けていました。また神を自分の都合の良いように考えていました。しかしそのような私たちを神は捉えられ、神を愛する者に変えられたのです。私たちは神にのみ可能な絶対的な確実さで救われたのです。何故ならその決断は既に永遠の昔、天地が創造される前に下されていたからです。そのことが私に起こったことでした。そして、救いは死で終わるのではなく永遠に続くのです。
  ギター教室を開いている人についての話を聞いたことがあります。この人に娘が生まれました。幼い娘と父はギターでよく遊んでいました。しかしある時父親は娘に才能があるのを発見し、教え始めました。その時から娘にとってギターは楽しいだけでなく、辛い、厳しい学びとなりました。娘の父への信頼とギターへの愛は変わりませんでした。そして娘は成長し、目指していたギターリストとしての道を歩み始めました。父と娘は互いの愛に応えたのです。神は愛する者に神を愛する霊を与えられましたが、それは神と私たちが共に目的に向かって働くために他なりません。私たちはこの与えられた霊によって神の思いが何であるかを知り、神の深みまで極めるのです。神の思いも神の御霊以外には知るものはないからです(一コリ二:一一)。

 神が私たちに与えられる人生の目的とは何でしょうか。それは私たちを御子、主イエスの姿に似たものにしようとすることです。それは御子が多くの兄弟の中で長子となるためです。そしてそれは栄光を与えるため、すなわち私たちに永遠の命を与えるためです。この目的を達成するためには私たちは多くの苦しみ、挫折、絶望を経験しなければなりません。にも関わらず私たちには喜びと希望があります。これらの試練は全て神の愛によるものであって、万事が益となるように働くことを知っているからです。それだけでなく私たちに与えられた神の霊もまた、私たちのために取り成していてくださるのです。ウエストミンスター大教理問答の第一の問は、「人間のおもな、最高の目的は、何であるか」というのですが、その答は「神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」と記されています(ウエストミンスター信仰基準、日本基督改革派教会大会出版委員会編、信教出版社、一九九四年)。つまり神を愛することと言えます。
  この宇宙を造られた神以上に大切なお方はおりません。被造物を神と比べることは出来ないからです。そして神を愛する者は、神はその独り子をお与えになったほどに私たちを愛されているのを知っています。私たちはその神を愛するのです。

2002年7月21日日曜日

ロマ書8章1-11節「霊に従って歩む者」

第28号

 

使徒言行録2章37-39節

 人は自分の好きな趣味なり仕事に熱中している時、生き生きとして見えます。そのような時あの人は生きているといった表現をします。反対に生きていても死んでいる人はいます。同じように神はご自身の前で生きている人と死んでいる人をご覧になるのです。神の前に死んでいる人とは肉に従って歩んでいる者であり、生きている人とは神の霊に従って歩んでいる者です。肉に従って歩んでいる者とは、生まれたままの状態で、回心、すなわち主イエスに出会い、自らの罪を告白し、従う決心をしていない人です。それに対して霊に従って歩んでいる者は回心し、聖霊の賜物が与えられたのを知っている人です。パウロは「神の霊」、「キリスト」、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と言葉を変えながら、その霊が「あなた方の内に宿っているなら」「霊の支配下にある」、「命にある」、「生かしてくださる」、しかし「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」と言います。

 肉に従って歩む者と回心し霊に従って歩む者との間には違いがあります。前者の目にはこの世のことしか見えません。つまりこの世のことだけを大切にして生きます。ジョン・バニヤンは「溢るる恩寵」の中で年老いた人たちがこの世にいつまでも生きていられるかのように、この世のものを追い求めて止まない様を目にする時、そして信者が、夫や妻子など、外的な損失にあった時、深い悲嘆にくれ、落胆することを知った時、不思議に思うと書いています。人は残り少ない人生を思う時、この世のこと、すなわち名誉や地位や財産、そして生にますます執着するのです。あるいは反対に人生を諦めてしまいます。この人たちにとってはこの世が全てですから、人間関係が全てとなり、絶えず人との比較で良し悪しを考えます。その結果、思い図ることは全て自分中心となってしまいます。
 それに対し、後者は主イエスを知ることによりこの世だけでなく永遠性に目が開かれた人です。どこから来てどこに行くのか、また何をしなければならないかを知っています。この世の地位、名誉、財産などよりもっと大切なものがあることに気付き、主イエスに仕えるようになります。しかし、主イエスに従うことによりはじめて自分の内なる罪を知るようになります。それは、肉の弱さの故に主イエスの求めることを実行しようとしても出来ないからです。その苦悩の中から「私はなんと惨めな人間なのでしょう。誰が私を救ってくれるのでしょうか」という嘆きが生まれます。そしてこのような状況からパウロと一緒に「主イエスによって神に感謝します」と叫ぶのです。何故なら肉の弱さのために主イエスの御言葉を実行できない私たちに代わって、主イエスご自身が自ら実践して下さっているからです。主イエスは神の前に少しの罪のない生涯を送られ、その体を十字架につけられることによって肉において罪を罪として処断して下さったからです。

 多くの宗教は、魂は死んでも生き続けますが体は滅びると教えます。しかし、キリスト教は人間を魂と体に分けることの出来ないものとし、魂と肉体の復活を教えます。主イエスは私たちと同じ罪深い肉の姿でこの世に来られ私たちを救われました。しかし、私たちが救われるためには、霊によって体の仕業を絶たなければなりません(十三節)。そのためには主イエスのように肉の思いを十字架につける生き方、すなわち主イエスに倣って生きることが求められるのです。主イエスは、私は律法を廃止するために来たのではなく成就するために来た、また、あなた方の義はファリサイ派の人々より立派でなければならないと言われました。ペトロは、救われるためにどうしたらよいのですかという人々の問いに答えて、悔い改めなさいと言いました。それは今までの罪を悔いるだけではなく、これからは罪を犯さないように生き方を改めなさいということです。心から悔い改めるなら聖霊は必要な助けを与えて下さり、聖化への道を歩ませて下さるのです。だれでもキリストにあるなら新しく造られた者です。救いにあずかるために私たちはどんなに困難であっても狭い門から入らなければなりません。滅びに至る道は広くそこから入る者が多いからです。 
 残念ながらキリスト者であっても霊ではなく肉に従って歩んでいる人が多くいます。その結果は回心前のパウロのように神に仕えていると信じながら神に敵対してしまうのです。聖書は読む人に聖霊を受けなさいと何度も繰り返して言います。ギリシャ語では肉体的生命をプシュケーと呼び、永遠の命をゾーエーと呼びますが、それはゾーエーを得るために他なりません。パウロが主イエスに会って変えられたように、神の霊を受けることによってのみ救われるのです。