2005年2月20日日曜日

コリント二4章16-5章10節「転移ある永遠の住みか」

第59号

 
 二月十一日、大宮教会で「信教の自由と平和を求める」集会がありました。講師は都公立中学校教員の飯島信先生。先生は学校で生徒たちに「パン、平和、土地」のうち、どれが最も大切だと思うかと質問したそうです。するとどのクラスでも三分の二以上の子供たちが「平和」と答えたと言います。先生は「パン」と答えると思っていたのでその結果に驚かれたそうですが、多くの人はこの答えに共感するのではないでしょうか。しかし、今日、教育の現場ではこれとは違った意味での平和を求めているようです。平和は軍事力の均衡によってもたらされるとし、軍備の増強によって近隣諸国の脅威に対抗しようとしています。その結果、戦える人、国家のために命を捨てることが出来る若者の育成を考えているそうです。個人より公共の幸せを考える公民思想が教育の方針となり、このような国家主義の具体的な表れが、君が代斉唱、国旗掲揚ということになっているようです。明治のキリスト者、内村鑑三は日清戦争では戦争やむなしの考えでしたが、戦勝後の社会道義の低下、軍人の慢心などの弊害を見、日露戦争では非戦論を唱えました。わたしたちもまたこの内村鑑三に見習わなければならないと思います。

 パウロは人を「内なる人」と「外なる人」に分けて考えています。「内なる人」とは何なのでしょうか。以前NHKテレビで、大江健三郎氏が若者に「二つの目で外の世界を見ているこの『わたし』とは何なのでしょう」、と問いかけていました。貧しく、生きるのが困難な時代には却って自分の存在が意味を持っていたかもしれません。今日、多くの人が精神科の窓を叩き、わたしが何者なのかを教えてください、というのです。ただ食べ、寝て、息をしている存在は決して生きていることにならないからです。わたしたちは、自分以外の者、すなわち神から自らの存在の意味を問われています。従って、この問いに正しく答えることが出来るまで心は安らぐことはありません。パウロは「内なる人」である「わたし」は、「外なる人」である「身体」を住みかとしていると言っています。「外なる人」は「幕屋」、すなわちテントです。テントは仮の住みかです。すぐに古び、雨漏りや隙間風が入ってきます。わたしたちの身体もまたすぐに、目や耳が衰え、髪や歯が抜けてくるのです。わたしたちは死ななければならない存在です。そのとき「内なる人」は一体どうなるのでしょうか。
 多くの人は「外なる人」の終わりは同時に「内なる人」の終わりと考えます。生まれる前にもどるのです。ある人はいや「外なる人」が滅びても「内なる人」は生き続けると考えます。昔ギリシャの人たちはそのように考えていました。霊だけの世界があり、そこに入ると信じていたのです。わたしたち日本人も「草葉の陰で見ている」と言うような表現をします。わたしが死んでもあなたを見守っている。だから強く正しく生きなさいということです。古代エジプトの人たちは「内なる人」が死に旅立ってもいつかまた「外なる人」のところに戻ってくると考えました。そのため「外なる人」をミイラにしました。
 キリスト教はどうでしょうか。パウロは「地上の『幕屋』を脱いでも『裸』のままではいない」、「神によって『建物』が備えられている」と言います。それは復活の新しい身体で、神による新しい「人」の創造です。それは美しく、永遠に朽ちない身体です。

 わたしたちはこの復活の希望によって救われています。希望は「ある」ことが前提となっているのです。わたしたちは何故死を恐れるのでしょうか。肉体的な苦痛でしょうか、愛するものとの永遠の別れでしょうか、無に帰することでしょうか。そうかもしれませんが、本当の理由はわたしたちは神の前に立って、裁きを受けることを恐れているのではないでしょうか。この世でしてきたことの総決算をしなければならないからです。希望と同じように信仰もまた目に見えないものを「ある」と確信することです。「苦しみもだえている」、それは今、「天にある永遠の住みか」を持っていないからに他なりません。主イエスはわたしたちに身体の復活を約束され、ご自身がその初穂となられました。主イエスは今も生きておられます。「神は、その保証として(ご自身の)“霊”を(わたしたちの心に)与えてくださったのです」。聖霊はまだ自分のものとなっていない新しい「外なる人」が与えられることの手付金です。
 この世の為政者たちが若者たちに、パンのため、平和のため、土地のために命を捨てることを求める時代が来るのを許してはなりません。心の、そして世界の平和を求めるには主イエスのところに来る以外にはないのです。わたしたちに「天にある永遠の住みか」を約束されているのは主イエスだけだからです。

2005年1月16日日曜日

ルカ11章5-13節「門をたたきなさい」

第58号

 〈埼玉(二区)新年合同礼拝〉

 主イエスは、どのように祈ったらよいのかとの弟子たちの求めに応じて、「主の祈り」を教えられました。そして引き続きたとえ話をされました。
 友人が真夜中に立ち寄りました。パレスチナでは、旅行者は熱い日中を避け、日が陰ってから旅をしました。何か起こるとすぐに真夜中になってしまいます。その家には突然着いた友人に食べさせるパンはありませんでした。人々は一日必要な分だけのパンを朝焼いたからです。それで別の友人の家までパンを借りに行ったのです。
 このたとえ話の前提となっているのは、「あの人のところには必ずパンがある」ということと「それが唯一の解決方法」だということです。わたしたち日本人の多くには慎み深い、淡白、潔い、気が弱い、無理強いは嫌い、遠慮がちといった言葉が当てはまります。ですから、その人のところにいく前から「今時分行ったのでは悪い」、「起きていればいいのだが」という気持があります。友人の家に着いても遠慮がちに声をかけます。しかも、中から「面倒をかけないで下さい。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけには行きません」という声がすれば、きっと驚いて、来なければよかった。立ち寄った友人には我慢してもらおう、とすぐにあきらめて帰ってしまうでしょう。しかし、この人は決してあきらめませんでした。与えられるまで戸をたたき続けたのです。

 主イエスは祈りは簡単にあきらめてはならないと言われるのです。「執拗に頼みなさい」、与えられるまで「門をたたきなさい」、そうすれば必要なものは何でも与えられると言われます。事実、生前、主イエスのところに来て断られた人はいませんでした。病気の人、体の不自由な人、その全てが癒されたのです。中には一見断られたように見える人もいます。例えばシリア・フェニキアの女の人は、娘が悪霊にひどく苦しめられていたため、主イエスのところに来て癒してほしいと頼みました。すると、主イエスは自分はイスラエルの民に遣わされているのだと答えられました。それに対しこの女は、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです、と答えました。主はこの女の信仰をほめ、癒されました(マタイ一五:二一~二八)。主イエスはこの女の願いを拒絶されたのではなく、謙虚な信仰を試されたのです。

 主イエスはわたしたちに何が第一に必要かを教えられています。それは聖霊です。その霊によってわたしたちの「死ぬはずの体をも生かしてくださる」からです(ロマ八:九~一一)。聖霊によってわたしたちの体は聖なる宮となり、神がわたしたちを支配するようになります。わたしたちは「神の国」の民となるのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」のです(マタイ六:三三)。
 パンはわたしたちの飢えを癒します。同じように聖霊はわたしたちの心の飢えを癒すのです。水のたとえと同じように永遠の命の糧となるのです(ヨハネ四:一三~一四)。
 ルカの福音書には「放蕩息子」のたとえが書かれています(一五:一一~三二)。父から財産を分けてもらった息子は遠い外国に行き、そこで放蕩の限りを尽くし財産をすべて使ってしまいます。そして飢饉が起こるのですがこの息子には食べるものがありません。そこで初めて父親を思い起こします。そこにはたくさんのパンがあるからです。帰ってきた息子を遠くから見つけた父親は飛んで行って食事だけでなく必要なものをすべて与えます。このたとえの前提もまた「あの人のところには必ずパンがある」ということと「それが唯一の解決方法」だということです。

 主イエスはわたしたちの心の扉をたたいておられます。わたしたちが扉を開けるなら入って来て一緒に食事をされるのです(黙三:二〇)。聖霊を与えることは天の父の御心なのです。わたしたちの周りには人生という旅の途中に立ち寄った多くの友人がいるのではないでしょうか。真夜中、それは光のない世界で、心の飢え渇きに苦しんでいることを示しています。わたしたちもまた「あの人のところには必ずパンがある」ということと「それが唯一の解決方法である」ことを知らされています。今は恵みの時、救いの時です。しかし、ノアの洪水の時のように、世界は暴虐に満ちています。主イエスの再臨の日は近いのです。終わりの日が来るまでにわたしたちは執拗に祈り続けることが求められています。教会が霊に満たされ、リバイバルが起こること、そして家族、友人、隣人のために祈ることです。祈り続けることをわたしたちのこの一年間の課題にしようではありませんか。

2004年12月19日日曜日

ルカ1章26-38節「生まれる子は聖なる者」

第57号

 〈クリスマス礼拝〉

 ガリラヤの田舎町、ナザレに住む乙女マリアのところに天使ガブリエルが遣わされました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。天使の言葉を聞いてマリアは驚きました。そして天使は、まだ結婚していないマリアに子が生まれることを告げました。そのようなことはあり得ないはずです。しかし、ガブリエルはマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と言ったのです。聖霊は神です(ヨハネ四:二四)。したがって生まれる子の父は神だと言われるのです。ガブリエルは「その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と言われました。
 神の子が与えられる約束はサムエル記下に書かれています。そこでは主はダビデにこのような約束をしております。「主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」(六:一一~一四)。ここで主なる神は、わたしがその子の父となり、その子はわたしの子となると言われております。マリアに告げられた主イエスの誕生はその約束の成就でした。

聖書に「神は愛です」と記されていますが、わたしたちは時としてその愛を疑うことがあります(第一ヨハネ四:一六)。私をこのような試練に会わせる神は本当に愛なのかと思うのです。またわたしたちは神の義を疑うこともあります。何故、この世に不正がはこびり、神はそれを放置されているのだろう。神が全能であるなら何故この世を正義で支配されないのだろうかと思うのです。
 しかし、わたしたちは神の聖さについては疑うことはありません。「聖」は神の本質です。創造者なる神と被造物との間には越えがたい壁があります。それは神が聖だからでもあります。マリアから「生まれる子は聖なる者、神の子」です。神はその子の父であるが故にアダムとエバの犯した罪(原罪)の影響を受けていません。そしてその子は、「聖なる者、神の子」であるが故に罪を犯すことの出来ないお方でもあります。実際、生まれた時から死ぬまで少しの罪も犯すことはありませんでした。しかし、その子は同時に、アダムとエバの子孫であるマリアの子でもあります。主イエスは人の弱さを知っておられ、罪の誘惑に会われたのです。主イエスが神であるだけなら人との関係はなくなります。主イエスが人であるだけなら人の罪を救うことは出来ません。神であり人である主イエスであって初めて人を贖うことが出来るのです。それが救い主、メシアなのです。旧約聖書では羊や山羊などの動物の血を犠牲として捧げましたが、動物は人を贖うことは出来ません。儀式は真なるものの型であって、主イエスの血潮による贖いをわたしたちに教えるのです。

天使ガブリエルはマリアに「恵まれた方、主があなたと共におられる」と言いましたが、それは、マリアがお金持ちになる、苦労がなくなるということではありません。マリアの生涯は苦労の連続で、最後は愛する子の死を真近に見なければなりませんでした。しかし、どのような苦難の中にあっても「主があなたと共におられる」ということが恵みなのです。神の恵みを受けるに値しない者にも、主は共におられるのです。マリアは天使から「あなたは神から恵みをいただいた」と言われました。それは「聖なる者、神の子」を宿したからです。主イエスの母となったマリアは神から恵みをいただいたのです。神がその人を通して働かれるのであるなら、だれでも「あなたは神から恵みをいただいた」のです。わたしたちは自由について思い違いをしています。自分勝手に、気ままに生きることが出来るならそれが幸福だと思っています。しかし、本当の幸福はそうではなく神からなすべき仕事が与えられることなのです。それが恵みなのです。マリアが恵みをいただいたのは、「聖なる者、神の子」を宿し、産んで、育てることが出来たからでもあります。
 マリアは主イエスをその身に宿しましたが、わたしたちも心に主イエスを宿すことが出来ます。心の中に授けられた子は「聖なる者、神の子」です。その子がどんどん成長することによって信仰が増していきます。そしてついには主イエスの香りを放す者へと変えられていくのです。わたしたちもまた、マリアと同じように「あなたは神から恵みをいただいた」者なのです。

 

2004年11月21日日曜日

コリント一12章31-13章13節「愛がなければ」

第56号

 

 人は愛した人、愛された人をいつまでも覚えているようです。そのような学校の先生、友達のことは忘れません。また、特に初恋の人は忘れられないでしょう。そして思い出すたびに心が熱くなり、心が豊かになっていきます。しかし、今日の社会の大きな問題は、愛されたことのない人が人の子の親になるということです。そこに幼児「虐待」の現実があります。精神科医の斉藤学先生は幼児虐待には四つの型があるといいます。たたく、落とす、傷つけるといった身体的虐待、言葉や仕打ちによる心理的、精神的虐待、これは外的なものより深い傷を心に残すといわれます。それから性的虐待、そして義務、責任の放棄による虐待です。児童相談所への訴えは年間一万件を越え、実数はその数倍に上るといわれます。職員や専門知識を持った人が足りないため多くの場合、適切な対応が取られないまま放置されているようです。親に愛されなかった人は自分の子の愛し方が分かりません。人から愛されたことのない人は人をどのように愛したらよいのかが分からないのです。

 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」と聖書にあります(マタイ六:二四)。神と富を同時に愛することが出来ませんし、自分と同じように人を愛することはできません。愛には自己犠牲が伴うからです。自分の欲望がお金で買え、自分さえよければと思うことにより、様々な社会的弊害を生み出します。時に、人は自分の子ですら邪魔になり、殺してしまうこともあるのです。いずれにせよ、人のことを考えていたら自分が落伍者になりかねない厳しい競争社会に生きています。「不法がはこびるので、多くの人の愛が冷える」時代でもあるのです(マタイ二四:一二)。
 神の本質は愛です。「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」とあるように、神の愛は決して見捨てない、忘れないことによって示されています(イザヤ四九:一五、一六)。ルカによる福音書にある放蕩息子のたとえ話では、子は父を捨てて家を出て行きましたが、父はその子を一日たりとも忘れることはありませんでした(一五:一一~三二)。放蕩息子が家を思い出し、帰ることが出来たのは、息子の罪を御自分の十字架で赦している父がいたからです。その前提なくして、何故、父がこの放蕩息子をとがめることなく赦しているのかが分からなくなります。この放蕩息子の帰りを待つように天の父はわたしたちを待っています。たとえわたしたちの罪はどのようなものであっても、神ご自身のいのちによって既に贖われているのです(ヨハネ三:一六)。
 わたしがアメリカの大学に留学していた時、中国から来た王常明という方がいました。北京の近くの出身でしたが、第二次大戦後、共産党に追われ、国民党と共に台湾に逃れて来たキリスト者でした。台湾で弁護士になるための勉学の最中、牧師となる召命を受けました。そして牧師になりアメリカに留学して来たのです。既に結婚し、二人の子供がいましたが、留学中は親しくさせていただきました。しかし、卒業と同時に彼はアメリカに留まり二十数年の歳月が流れました。その彼が、わたしが牧師になったと聞いて日本にやって来ました。そして彼の口から出た言葉はわたしを驚かせました。毎朝、一日も欠かさずわたしが伝道者となるように祈っていたのです。その祈りが答えられたというのです。中国人でしかもこのように遠く離れていても祈り続けることができたのは主イエスの祈りを祈りとしてきたからに他なりません。

 「信仰、希望、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」とあります(一三:一三)。わたしたちが死んで復活し、御国に入るなら、信仰も希望も全てが現実となります。しかし、愛だけは御国でも続くのです。愛は決して止むことはありません。信仰、希望、愛があれば祈ることができます。しかし、その中で最も大切なのは愛です。愛があれば祈り続けることができるからです。妻とわたしは秋田に住んでいた母のために祈っていましたが、今年のイースターに受洗しました。愛の伴う祈りによって人は救われるのです。愛する者のために祈って下さい。夫、妻、子供、孫のために祈るのです。愛があれば決して見捨てることなくその人を思いやることができます。そして、この愛の祈りの輪を他の人へと少しずつ広げて、大きくしていくのです。今日の社会の問題は自分中心による愛の欠如ですが、祈りによって人を愛することができるように変えられます。そして、わたしたちの教会も「祈る教会」に変えられ、「伝道する教会」になるのです。

2004年10月17日日曜日

コリント一11章2-34節「新しい契約」

第55号

 
 聖書は旧約と新約の二部に分かれています。「約」という字が共通ですがこれは「契約」の「約」です。従って古い「契約」と新しい「契約」の書を意味します。契約には当事者双方が義務を負う双務契約と片方だけが義務を負う片務契約があります。わたしたちの生活の身近な例としては、双務契約は売買、賃貸、雇用などの契約です。片務契約は遺産相続の約束や戦勝国が敗戦国に一方的に課す義務などです。
 旧約聖書に書かれている片務契約の代表としてアブラハム契約があげられます。神はアブラハムを選び、子孫を与えること、土地を与えること、そして祝福の源になることを約束されました。アブラハムに求められたのは信じたしるしとしての割礼だけで、この約束の達成のためにアブラハムがしなければならないことは何もありませんでした。神は約束された全てをご自身で成就なされるのです。双務契約の代表はシナイ(モーセ)契約です。神はイスラエルの民を奴隷であったエジプトの地から救われ、十戒を与えられました。律法への服従は繁栄をもたらし、背反は裁きをもたらします。従って人もまたこの律法に縛られることになります。この律法を守り、割礼を受けた民による宗教共同体が形成され、イスラエル(神の民)が生まれました。神はこの民に幕屋を造るように命じ、彼らの過失による罪の贖いのための羊や山羊等の動物の生贄を求められました。しかし、イスラエルの民は神との契約を守ることが出来ませんでした。契約を結んだ直後ですら金の子牛を造り、偶像を礼拝しはじめたからです。彼らはキリストを試み、裁きの対象となってしまいました(九節)。その結果、大多数の人たちは滅ぼされました。しかし、神に選ばれたきわめて僅かの人たちは信仰を全うしたのです。彼らは苦難と試練を経て、与えられた信仰を後世に継承しました。イスラエルの国家についても同じことが言えます。北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ、後に残された南王国ユダもまたバビロニアによって滅ぼされました。エルサレムと神殿は崩壊し、民はバビロンや他の異教の地に捕囚として連れて行かれました。しかし、神は時が来るとイスラエルの民を再び約束の地に戻されました。国家もまた苦難と試練を経て生き残ったのです。それは神がシナイ(モーセ)契約を守らない民であっても、アブラハム契約を守っておられるからに他なりません。

 時が満ちて神はイスラエルの民に約束のメシアを与えられました。それが主イエスです。主イエスはアブラハムに約束された「子孫」なのです(ガラテヤ三:一六)。主イエスはわたしたちに永遠の命を約束されました。この約束を自分のものにするためにわたしたちがしなければならないことは何もありません。主イエスご自身がわたしたちに代わって清い生涯を歩まれ、わたしたちの罪を贖うために十字架におつきになったからです。神である主イエスご自身が契約となられたのです。この契約はアブラハム契約と同じ片務契約です。わたしたちは信じるだけで救われるからです。そして神は信じた者たちに心の割礼である聖霊を与えられます。しかし、このように主イエスによって救われた者は、律法を守るように求められていることを知るようになります。その律法とは十戒と同じく、神を愛し人を愛するということに要約されます。それは主イエスが実行されたことでもあります。それを知って行わない者は裁かれます。しかし行うなら神の栄光を現す者となり、神からの誉れを受けるのです。わたしたちは神と双務契約をも結ぶのです。

 旧約では律法は石の板に刻まれ、アブラハムに約束されたカナンの地に建設される神の国の住民にふさわしくするものでした。しかし、新約では律法は心に刻まれ、天の御国の住民にふさわしくするのです。心に刻まれた主イエスによって、はじめて心にかかっている覆いが取り除かれ、真実をはっきりと見ることができるようになるのです。それは、わたしたちはこの世では寄留者で、来たらんとする都こそ本国ということです。御国に入る望みを持っている者にとって、誤って罪を犯すことはあっても、故意に罪を犯し続けることは出来ません(Ⅰヨハネ一:一〇、三:六)。御国を信じる者にとって、双務契約は義務とはならず、喜びとなります。石の板に書かれた古い契約は、わたしたちに罪を教えますが、主イエスの新しい契約はそれだけでなく、わたしたちの心に働きかけ、喜んで守ろうとする意志の力も与えられるのです。それが二つの契約の違いで、古い契約は新しい契約の影にすぎません。しかし、古い契約は新しい契約の理解を助けます。その意味で主イエスの契約は古い契約である十戒を成就させるものなのです。

2004年9月19日日曜日

コリント一7章1-40節「定められた時」

第54号


 
 石川栄一先生(北本教会牧師、日本聖書神学校教授)の「旧約聖書における『エース』の理解」(学報、第一一四号)には次のようなことが書かれています。ユダヤ人哲学者A.J.ヘッシェルはユダヤ教を定義して、「歴史の宗教、時間の宗教」とし、また、旧約聖書は、「歴史の中で、ある特定の時を選んで、神が出来事を起こしてきたその記録書」である。
 「時」にはクロノスとカイロスがあります。クロノスは時の流れであり、カイロスは出来事としての時です。ユダヤ人にとっての「時」はカイロスであって、それは生まれた時、結婚の時、子供が生まれた時、そしてまた、神との出会いの時、救いの時、選ばれた時です。「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」のです(コヘレト三:一)。わたしたちにもこのような時があります。これは全て神に定められた時であって偶然ではありません。
 

 ノアの時代にも発達した文明がありました。しかし、人々は自己中心となり、地は暴虐に満ちていました。神はこのような人を創られたのを後悔し、滅ぼそうとしました。しかし、主は義人ノアを他の人と一緒に滅ぼすことはできませんでした。ノアは主の前に恵みを得たのです。主はノアに洪水で地を滅ぼすと告げ、救われるために箱舟を作ることを命じました。ノアは主の言葉を信じ、箱舟を作りはじめました。船は長さが一三七メートル、幅二三メートル、そして高さが一四メートルという巨大なものでした。しかもノアはその船をアララト山のふもとに作ったのです。人々はノアのしていることが信じられませんでした。しかし、全てが出来上がり、動物たちとノアが箱舟に入ったとき、主は戸を閉められ、洪水が襲ったのです。水は山の頂上をも覆い、全ては水の中に没しました。古い世界は洪水によって滅び去りました。そして、新しい世界がノアとその家族八人によってはじまったのです。  今日の社会にもノアの時代と共通した面を見ることができます。文明が発達したにも関わらず暴虐が地に満ちています。南北間の経済格差、宗教対立、人種間の争い、そして女性、子供、いや幼児でさえ問わないテロによる殺戮、主はこれらのことをこのままで放置されることはないでしょう。この世を滅ぼされる「定められた時」があるのです。それは主イエスの再臨の時に他なりません。そして、主イエスはその後に来る新しい世界に生きることを赦される聖なる者たちを選ばれているのです。聖なる者とは主イエスの清い生涯と十字架の血による贖いを信じる者です。その人たちに主は定められた時が来るのを前もって知らせておられます。「定められた時」は主イエスを信じる者にとって救いの時ですが、信じない者にとっては裁きの時となるのです。

 主イエスが公生涯をはじめられる前、洗礼者ヨハネが現れ「時は満ち、神の国は近づいた」と宣べました(マル一:一五)。主イエスは、そのヨハネから洗礼を受けられ、福音を人々に宣べ伝えましたが、この世での神の国の実現を促す弟子たちの問いに「わたしの時はまだ来ていない」と言われました(ヨハ七:六)。そしてエルサレムの人たちがご自身を信じないのを悲しみ、わたしの時を知らない、と涙を流されました(ルカ一九:四四)。そして、公生涯の終わり、すなわち十字架につけられる前夜、ゲッセマネの園で主イエスは「時が来た」と言われました(マル一四:四一)。その「定められた時」とは、十字架上で流された血によってわたしたちの罪が贖われた救いの時に他なりません。しかし、死んで天に昇られた主イエスは、再びこの世に来れれることを約束されています。その時もまた「お定めになった時…」(使一:七)なのです。主は突如として箱舟の戸を閉められたように「人の子は思いがけない時に来る」のです(マタ二四:四四)。そしてその間、わたしたちもノアのように箱舟の建設を求められています。それが教会であって、建物や組織ではなく主イエスを信じる信徒の群れという意味です。教会こそ、来るべき神の裁きから救われるために逃げ込むことができる箱舟です。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と書かれている通りです(Ⅱコリ六:二)。
 ノアの時のようにこの世界の終わりは、新しい世界の到来でもあります。主イエスは、わたしたちが永遠に生きることのできる新しい天と地を用意されていることを教えます。従って、定められた時を見るということは永遠を見ることにつながります。それは今がどんな時であるかを知ることでもあります(ロマ書1311)。この世とこの世の有様は過ぎ去ります。ノアのときのように飲み食いし、嫁ぎ娶り、忙しく仕事をしている時に突如として滅びが襲うのです。わたしたちは永遠に続くその「定められた時」に目を留めて生きることが求められているのです。

2004年8月15日日曜日

コリント一5章1-13節「わずかなパン種」

第53号

 
 昔、イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトから荒野に出て行き、約束の地を目指しました。エジプトを出る時、神はモーセを通して一〇のしるしを行いましたが、その最後のしるしが過越でした。主はイスラエルの民にニサンの月、つまりイスラエルの正月(太陽暦の三月、あるいは四月に当たる)の一〇日に一才の雄の小羊を各家ごとに用意し、一四日の夕方に屠り、その血を入口の鴨居と二本の柱に塗るように求めました。そしてその小羊の肉を火で焼き、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べるよう命じたのです。民は腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べました。その夜、主の使いは入口の血を見てユダヤ人の家には入らずに過ぎ越し、エジプト人の家の長子を殺しました。ファラオは遂に「行って、主に仕えるがよい」とイスラエルの民を去らせたのです(創一二:三一)。除酵祭はこの過越の祭に続くもので、その日から二一日の夕方までの七日間、種入れぬパンを食べます。その間、家の中に酵母があってはならず、酵母入りのパンを食べた者は共同体から絶たれます。酵母なしのパンを食べたのは料理する時間がなかったためです(出エジ一二:三九)。また練り粉が酵母入りに比べて腐敗しにくかったからでもあります。イスラエルの民が過越祭や除酵祭を祝うのは、彼らが奴隷であったエジプトの地から主によって救われたことを思い起こすためです(出エジ一三:八、申一六:三)。また二つの異質なものを混ぜないということから、主への二心のない忠誠心を表わします。カナンの地定住後は、農耕の民としての意味が加わりました。新しい年の収穫である大麦や小麦が聖別されて用いられるため、パン種を使った古いパンを除去したのです。

 新約聖書は主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊」であることを証します(ヨハ一:二九)。主イエスのこの世での生はベツレヘムにはじまりました。主イエスの母マリアには泊まる宿もありませんでした。そのため、生まれた主イエスを飼い葉桶に寝かせなければなりませんでした。神である主イエスはわたしたちのために貧しくなってこの世に来られました。それは御許に誰でも来ることを許され、来た者を救われるためです。神の子の誕生を聞いたヘロデ王はベツレヘムとその近郊で生まれた二才以下の男の子の殺害を命じました。わたしたちもヘロデ王のように自分が神となって生きたいと思うのです。そのためには神ですら殺してしまいます。このような罪の世界で主イエスは「神を愛し、人を愛する」に要約される神の戒めを完全に遵守されて生き抜きました(マタ二二:三七~四〇))。しかし、主イエスの行き着いたところは十字架でした。神の刑罰を受けられたのです。それはわたしたちに代わって罪の怒りと呪いを受けられたもので、わたしたちが「罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」(Ⅰペト二:二四)。
 過越祭では血を流した小羊を食べます。神との契約は食事をすることによって締結されるのです。同じように主イエスの血による契約もまた食事によって締結されます(マタイ二六:二六~三九)。そして、主イエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない」と言われます(ヨハ六:五三)。主イエスに仕えることこそわたしたちが神に捧げる生贄です。聖餐はそのことを思い起こさせます。教会はそうすることによって聖別されて用いられます。

 わたしたちの先祖のアダムとエバが造られたとき、彼らは悪意のないパン種のない者でした。しかし神の戒めに背き、自らが神になって生きようとしたとき彼らの中にパン種が入って来ました。それ以来、人類はパン種入りの練り粉となってしまったのです。しかし、神の小羊である主イエスがこの世に遣わされることにより再びパン種の入っていない群れである教会が生まれました。主イエスを信じる者は主イエスの生涯と十字架により清められているからです。
 パウロはこの観点から教会内で不道徳なこと、そしてみだらなことを行う者への戒律の必要を説きます。教会の中にもし「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」がいて、その罪を認めないなら、そのような者を教会から除かなければなりません。パウロは「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか」とコリントの教会の人たちに警告します。彼らは自分のしていることを改めないばかりか、それを誇っているからです。教会の外の人は主イエスが裁きます。しかし、教会の内部の人たちはわたしたちの責任です。わずかであってもパン種の存在は他の教会の人たち全体に悪い影響を与えます。救われた者は互いに清め合う責任を担っているのです。