2006年9月17日日曜日

マタイ26章1~16節「香油を注ぎかけた」

第77号

主イエスがベタニアで重い皮膚病の人マタイの家で食事を取られていると、一人の女が高価なナルドの香油の入った壺を砕いて主イエスの頭に注ぎかけました。その香油の価値は三百デナリオン以上と言いますから、おおよそ労働者一年分の賃金に当たります(マルコ一四:五)。それを見た弟子たちは憤慨して「なぜこんな無駄遣いをするのか。高く売って貧しい人に施すことができたのに」と言いました。過越祭では貧しい人に施しをしたのです。弟子たちは主イエスも同じ考えで、この女をとがめると思ったことでしょう。しかし、主イエスは「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われました。
 わたしたちもこの弟子たちと同じように考えるのではないでしょうか。主イエスが二日後に十字架につけられるのを知っていたなら話は別ですが、こんなに高価な香油を主イエスに注ぎかけるのは余りにも、もったいないからです。しかし、そのことを知っていたのは主イエスだけでした。

 わたしたちには神の思いは分かりません。神の思いとは別の、自分の考えを持っているからです。哲学者デカルトは「我考う故に我在り」と言いました。デカルトは考える自分の存在はどうしても疑いえない。従って他人や外界とは独立に自分が存在している、と結論づけました。わたしたち人間だけが物事を客観的に見ることが出来るのです。
 アインシュタイン以前、人々はニュートンの考えに従って、宇宙は星を入れる無限の器であり、時間もまたそれから独立して初めも終わりもない存在だと考えられていました。今、わたしたちはアインシュタインの相対論によって、宇宙と時間は無から生まれたことが分かるようになりました。しかしこの事実は聖書が数千年前から教えていたことなのです。
 無から創られた被造物にすぎない人間は神について知ることはできません。主イエスを知ることによって初めて神がどのようなお方であるかが分かるのです。神に「仕える」ということの意味もまた、わたしたちの考えでは理解できません。このことについてもわたしたちは聖書から学ばなければならないのです。
 エズラ記には七十年間バビロンで捕囚だったイスラエルの民の帰還について書かれています。八章にはエズラが四~五千人の人たちを率いて金銀など時価数億円を携えエルサレムに上ったことが記されています。これらの金銀はペルシャの王アルタクセルクセスと高官たちから、そしてイスラエルの民で帰還できない者たちからの神殿への献げものでした。バビロンからの帰還は第二の出エジプトです。モーセに率いられたイスラエルの民はエジプト人からの分捕りものとしての金銀を携え、荒野に出て行き、約束の地を目指しました。それらの金銀などは幕屋の建設に使われたのです。
 主イエスの頭に香油を注ぎかけた女も同じです。自分の持っている物の中で最も大切な香油を主イエスに献げたのです。この女はかつて罪の「奴隷」だったのかもしれません。主イエスによって罪が赦され「自由」の身にされたに違いありません。「香油を注ぎかけた」のは主イエスへの愛と感謝のしるしだったのでしょう。それに対して弟子たちは「なぜこのような無駄遣いを」と言い、わたしたちもまた「高く売って貧しい人に施すことが出来たのに」と思います。しかし、主イエスはわたしたちが何をするかより、何故そうするかに関心を持つておられます。この女の人にとって「香油を注ぎかけた」ことは自分の命を主イエスに注ぎかけたことに他ならなかったのです。
 この女のしたことは結果的に主イエスの埋葬の準備となりました。また、油を注ぐことはイスラエルでは王となる儀式でもありました。主イエスは死んで復活され、メシアとしてわたしたちを支配されるのです。

 「仕える」は「栄光を帰する」ことです。ウエストミンスター信仰基準、第四章「創造について」の一には、神はご自分の永遠の力、知恵、栄光のためにすべてのものを無から創られた、とあります。この宇宙を、そして人を創られたのは、ご自身の栄光の現われるためであり、わたしたちが神に栄光を帰するためなのです。「主の祈り」に「み名をあがめさせたまえ」とあるとおりです。
 この女は「香油を注ぐ」ことによって主イエスに栄光を帰し、主イエスはそのことを喜ばれました。罪を赦され永遠の命を約束されたわたしたちもまた、自分の最も大切なものを主イエスに捧げることによって主に栄光を帰することが求められているのではないでしょうか。わたしたちにとって最も大切なものは何でしょうか。それは「いのち」に他なりません。わたしちのいのちでもって主イエスに仕えることが求められているのです。

2006年8月20日日曜日

マタイ24章1~35節「天地は滅びる」

第76号

マタイによる福音書二四章は小黙示録と呼ばれています。「黙示」とは黙していることが示されることであって「終末に関すること」です。聖書によればこの世の終わりは神によって決定されています。「この世」を創られた神が「この世」に終わりを来たらせるのです。
 旧約聖書の「ノアの洪水」の物語には、神が古い世界を滅ぼされたのは「地が暴虐に満ちていたから」とあります(創世記六章)。神がソドムとゴモラの町を滅ぼされたのも同じ理由でした(創世記一八~一九章)。
 預言者サムエルは、隣国からの脅威に対抗するため王制を求めた民にこのように警告しました。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ…」る(サムエル記上八章一〇~一八節)。
 王国はソロモン王の後、北王国と南王国に分裂しました。多くの王は神に代わって自ら国の主権者となり、神に罪を犯しました。神は北王国イスラエルをアッシリアに、南王国ユダをバビロニアに渡して滅ぼされました。「神が民を滅ぼされたのは民の罪の故」でした(列王記下一七、二四章)。
 主イエスは紀元七〇年のエルサレムの滅亡と神殿の崩壊について預言し、「神の訪れてくださる時をわきまえなかった」彼らの罪の故であると言われました(ルカ一九:四四)。
 神がこの天地を滅ぼすのはわたしたちの罪の故で、そのことが終末に起こることであるなら、わたしたちの平和への努力には一体どんな意味があるのでしょうか。将来、良い世界が訪れることを願って、わたしたちは平和のために努力するのではないでしょうか。

  この世の悪の勢力と戦うためには武力の行使もやむ終えないとする相対的平和主義の立場を取る人が多くいます。二〇〇一年、ニューヨークの貿易センタービル崩壊で、ブッシュ大統領はテロとの戦いを戦争と呼びました。今日、アメリカでは福音派(エバンジェリカル)、原理主義者(ファンダメンタリスト)のキリスト教が力を得、ブッシュ政権を支えていますが、自国を神の側につけ、敵対するものを悪としています。このような聖書理解はアメリカの国益にも沿うものでしょう。同盟国イスラエルへの徹底的な支援も聖書の言う「神の国」を来たらせる道と信じているようです。
 アメリカの多くの人たちは自分たちの豊かさは神の祝福と信じ、神に感謝していますが、世界の貧しい国々の実情についてはほとんど知らないようです。イラク戦争は核疑惑とサダム・フセインの圧政から国民を救うためというものでしたが、実際にはそれは介入のための大義名分だったと思われています。アメリカはこれら貧しい国の資源を搾取して自らの豊かさを享受しています。世界は豊かな国と貧しい国、善と悪とに分けられていることが、様々な対立やテロの原因となっているのではないでしょうか。

  日本は戦前、政治家と軍部は天皇を神として、隣国に利権を求め、武力により満州国を建設し、朝鮮や台湾を植民地にしました。
 一九三七年、内村鑑三の門下生、矢内原忠雄は中央公論に『国家と理想』と題して「正義と平和こそ国家の理想、これを失った国家と民族は滅びる」と書きました。そして同じ年、藤井武記念講演会で、「我々のかくも愛した日本の国の理想、或は理想を失った日本の葬りの席であります。…若しわたしの申したことが御解りになったならば、日本の理想を生かすために、ひと先づ此の国を葬って下さい」と述べ、東京帝国大学教授の地位を追われました。
 その八年後、一九四五年八月六日、原爆が広島に、九日には長崎にも投下され、十五日、日本は遂にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしました。中国東北戦争から太平洋戦争の十五年に渡る長い戦争により、三百万以上の人が死にました。広島と長崎は一瞬にして壊滅し、二十四万人と十二万二千人が亡くなりました。中国人、一千万人以上、他のアジアの国々の人々、一千万人以上が犠牲となりました。
 わたしは絶対的平和主義の立場に立ちます。このことは隣国から侵略されないことを保証するものではありません。平和の戦いは忍耐と苦難、そして多くの命の犠牲を伴うものです。
 主イエスは「神と人との和解」のためにご自身の命を捧げられました。それによってわたしたちは御国の住民とされました。それ故わたしたちも「人と人との和解」のために命を捧げることが求められていると思います。このようなわたしたちにとって、敗戦によって与えられた日本の平和憲法には特別な意味があると信じます。
 「天地は滅びる」、それは平和のための努力が無に帰するのではなく、神の子たちに新しい天と新しい地が用意されているということです。

2006年4月16日日曜日

マタイ28章1~10節「あの方は復活された」

第72号

〈イースター礼拝〉

 「あの方は復活された」、これは聖書が伝える最も大切な出来事です。主イエスの復活の事実があったからこそ、わたしたちの復活も確かであると信じることが出来るからです。聖書によれば死は決して自然なことではありませんでした。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」のです(創世記一:三一)。そこには、死はありませんでした。しかし、最初の人であるアダムとエバは「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と神が言われた善悪を知る木の果実を食べたのです(二:一七、三:六)。神の言葉に背くことが罪で、罪の結果は死です。御言葉どおりアダムとエバは死ぬ者となりました。彼らの罪によって全ての人は神の栄光を受けられなくなったのです。この世は滅びに向かい、全ての生き物もまた死ぬようになりました。その後、罪の世界を救うために救い主が与えられるという神のご計画は、アダムとエバに伝えられました(三:一五)。そのお言葉どおり、長い年月を経て主イエスは世の罪を取り除くお方としてお生まれになりました(ヨハネ一:二九)。

 主イエスは神が人となられたお方です。人間の母マリアから生まれたが故に、人の心を持ち、人の弱さを知り、罪の誘惑をお受けになられました。しかし、神の子であるが故に少しの罪も犯されませんでした。罪の結果が死であるなら、罪のない主イエスは死ぬことのない存在でもありました。しかし、主イエスはわたしたちの罪を負って十字架につかれ、罪の裁きをお受けになったのです。「わが神わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか」という十字架上の叫びは、それがどれほどの苦しみであり、悲しみであったか、わたしたちには想像もつきません(マタイ二七:四六)。神はその独り子をわたしたちの身代わりにされましたが、そこにわたしたちの神に背く罪の深さとわたしたちへの神の愛があります(ヨハネ三:一六)。しかし、死は罪のない主イエスを墓に閉じ込めておくことはできませんでした。三日目に復活して死に打ち勝たれたのです。
 アダムとエバの子孫であるわたしたちは彼らの罪を引き継ぎ、神に背いて生きています。それ故、例外なくわたしたちは死ななければなりません。しかし、復活された主イエスは今も生きて天の父の右に座しておられ、また、霊となってわたしたちの心に宿られるのです(Ⅰコリント一五:四五)。これがペンテコステの時に弟子たちに起こったことでした(使徒二:一~四)。主イエスは生前の約束を今も果たされているのです。それは、わたしはあなたがたをみなしごにはしない。あなた方のところに再び戻って来ると言われていたことでした(ヨハネ一四:一五~三一)。
 律法学者ニコデモは、神の戒めを犯した者は生きることはできない、「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるのでしょうか」と言いました。それに対して主イエスは人は霊によって新たに生きることができると言います(ヨハネ三:一~一五)。人は主イエスの霊を心に受けることによってその心は神に反逆している死から神に従順に生きようとする命に変えられるのです。それは主イエスの十字架によって罪なき者とされた恵みによるもので、この世でも、また死んでも復活にあずかることが出来るようにされます。
 わたしたちは回心を経験し、主イエスの霊を心に受けるなら死後の復活を信じることができるようになります。回心も復活も「死」を経験するということで共通しています。

 パウロはわたしたちは死んで眠り続けるのではなく、主イエスの再臨のとき、ラッパの音と共に復活し、今とは異なる状態に変えられる、と言います(Ⅰコリント一五:五二)。そして、わたしたちは、わたしたちのために用意された新しい天と地の住民となるのです(黙示録二〇:一一~二一:八)。
 わたしたちが復活するとき、この体は朽ちるものから朽ちない天的な体に変えられます。卵からひよこが孵るように、種から芽が出るように、そしてさなぎから蝶が生まれるようにです。体だけでなくわたしたちの心も変えられます。この地上にいる間はわたしたちの心には生まれながらの罪があり、その罪と神の霊との間に戦いがあります(ロマ七:一五~二五)。しかし、復活したわたしたちの心には少しの罪もないのです。心と体は新しい天と地で永遠に生きるにふさわしく新しい被造物に変えられるのです。
 「あの方は復活された」。それは死んで霊となられた主イエスが、再びわたしたちの心に宿られることによってわたしたちを永遠の命にふさわしい者とされることに他なりません。それはわたしたちがこの世でも自分ではなく、主イエスによって新しく生きることが出来るようになるためでした。

2006年3月19日日曜日

マタイ15章32~16章12節「パン種に注意しなさい」

第71号

「パン種」はパンの中で急速に全体に広がり、膨らませ、食べ易くします。イスラエルにあって「ファリサイ派とサドカイ派の人々の教え」もそうでした。主イエスは彼らの「教え」、すなわち「パン種」に注意しなさい、と言われました。
 律法は二種類あります。一つは書かれた律法である聖書、その中でも特に「十戒」と律法書であるモーセの五書です。もう一つはファリサイ派の人々やサドカイ派の「言い伝え」です。「十戒」も「言い伝え」もいずれも大切なものとして厳格に守らなければなりませんでした。しかし、実際にはファリサイ派やサドカイ派の人々は「十戒」以上に彼らの「言い伝え」を大切にしました。例えば、十戒の第五戒には「父と母を敬え」とあります。「それなのに、あなたたちは言っている」と主イエスは言われました。「『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」(マルコ七:一一~一三)。
 神殿への捧げものは任意です。しかし、十戒に背くものは「呪われよ」、と言われ、また「死ななければならない」のです。どちらが大切かは明らかです。ファリサイ派やサドカイ派の人々の「言い伝え」は自分を他の人に対して宗教的に見せかけ、尚且つ、父と母への扶養の義務を怠り、自分の財産を不当に所持し続けることが出来たのです。十戒の第四番目にある安息日の戒めについても同じでした。主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べたとき、主イエスが病気を癒したとき、また癒された病人が床を持って歩いたときなど、自分たちの「言い伝え」を根拠に彼らは主イエスの言動を批判しました。それに対し、主イエスは安息日の主は誰なのですか、善いことをするのと悪いことをするのとどちらがよいのですかと彼らに反論しました。

 ファリサイ派とサドカイ派の人々は大勢の人たちが主イエスに従っているのを知って、エルサレムからガリラヤに人を派遣しました。主イエスが彼らの「言い伝え」を守っているかどうかを調べるためでした。もし、主イエスが「言い伝え」を守っているのであれば彼らの権威は保たれます。しかし、守っていないのであれば、彼らの権威や地位、名誉は脅かされることになります。「言い伝え」を守っていないのを知ると彼らは主イエスを殺そうと相談し始めました(一二:一四)。民衆もまた、ファリサイ派とサドカイ派の人たちの「言い伝え」を「十戒」より好んだのです。「コルバン」がよい例で、守るのが容易だったからに他なりません。ファリサイ派やサドカイ派の人たちに主イエスは「偽善者よ」と呼びかけました。常識的な考え方やこの世の知恵によって「書かれた律法」を骨抜きにしてしまったからです。そして彼らの「教え」を「パン種」と呼ばれ、その「教え」に注意しなさいと言われたのです。
 使徒時代の教会で起こったアナニアとサフィラの出来事は、わたしたちに神に偽ることは赦されないことを教えます。アナニアとサフィラは、自分たちの土地を売り、代金をごまかし、その一部を偽って使徒の前に置きました。その結果は死でした(使徒五:一~一一)。中世の教会は、献金すれば罪が赦されると免罪符を売りました。ルターの宗教改革は献金、すなわち「良い行いが人を救う」という教会の「パン種」(行為義認)を否定しました。

 十戒はイスラエルの民が約束の地であるカナンに入って作る「神の国」の憲法であり、倫理基準でした。同じ事は、この世を生きる「神の国の民」であるわたしたちキリスト者にも言えます。
 十戒の第六戒は「人を殺してはならない」です。罪人であるわたしたちは神によって救われました。そのわたしたちは人を殺すことは出来ないのです。「正義」のためなら「人を殺してもよい」のではなく「正義」のために「身を捧げる」ということです。たとえ正当防衛であっても人を殺すことはできません。
 この教えは、個人だけでなくその集合体である国家にも当てはまります。日本は戦争により多くの人命を失い、また広島と長崎には原爆が投下されました。日本の憲法第九条は平和国家として立つことを目的とし、他国との交戦権を否定しています。しかし、時代の流れと共に国家固有の権利としての自衛権を認めるようになりました。神から与えられた日本の使命は、非武装により世界平和に貢献することです。
 個人においても国家においても「人を殺してはならない」は人間的解釈を入れる余地のない神の戒めです。

2006年2月19日日曜日

マタイ14章13~21節「パンを群衆に与えた」

第70号

主イエスは洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパスによって殺されたと聞くと、舟に乗ってそこを去り、人里離れたところに退かれました。それを知ると群衆は湖岸を回って後を追いました。その数は男だけで五千人、女と子供を加えるなら少なくとも一万人はいたと思われます。彼らは異邦人であるローマに税金を課せられ、生活は苦しく、貧しかったことでしょう。主イエスは彼らを憐れみ、御言葉を語り、多くの病人を癒されました。
 夕暮れになると、弟子たちは主イエスに、群衆を解散させ、めいめいが村へ食べ物を買いに行くように言いました。しかし、主イエスは「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われ、五つのパンと二匹の魚で彼らの胃の腑を満たしました。

 ユダヤでは食事を一緒にすることには大きな意味がありました。それは特別に親しい関係にあること、すなわち運命共同体であることを示しました。人種や文化や物の考え方、また身分、階級、教養が異なっていても、それらの相違を越えて一つとなったのです。主イエスは彼らをご自分の食卓に招かれました。
 たった五つのパンと二匹の魚で一万人以上の人々の胃の腑を満たしたこの出来事は、昔、モーセに率いられてエジプトを出てきたイスラエルの民のことを思い起こさせます。その数は成人男子だけで六〇万人と言われ、総数では二百万人を越えたと思われます(出エジプト一二:三七)。神は彼らをマナで養われました。それは約束の地に入るまで四〇年間続きました(出エジプト一六)。しかし、民は結局、荒野で滅ぼされてしまいました。約束の地に入ることが出来たのはごく僅かでした。何故でしょうか。彼らはエジプトの生活を恋しがり、絶えず神に不平不満を言ったからです。(民数記一四:二~四))。ああ、エジプトには美味しい肉鍋があった、家族の団欒があった、しかしここには何の楽しみもない、と(出エジプト一六:三)。それだけでなく彼らは異教の神モレクの神輿やライファンの星を担ぎ回り、また、金の子牛を造ってこれが我々を導く神だと礼拝したのです(使徒七:四〇~四三)。
 主イエスのところに集まって来た人々にも、これと同じことが言えます。彼らは主イエスにパンを求め、病人が癒されることを求めました。そして、ローマからの独立を求め、この世に神の国を建設しようとしました。人々は主イエスを自分たちの王にしようとしました(ヨハネ六:一五)。それは彼らの必要を満たす存在になるということで、その限りにおいて彼らは主イエスを王として敬うということです。かつてイスラエルの民がエジプトを恋い慕ったように、人々の思いもこの世のことだけでした。イスラエルの民が「約束の地」に目を向けることがなかったように、彼らもまた主イエスの説かれた「永遠の御国」に目が開かれることはありませんでした。主イエスはこのような彼らの思いをご存知で、一人、山に退かれたのです。主イエスがこの世に来られたのは、この世のパンを与えるためではなく、永遠に生きることのできる命のパンを与えるためでした。それは物質的な糧ではなく心の糧です。これこそわたしたちの心の深層にある飢え渇きを満たす「聖霊」です(ヨハネ四:一~四二)。多くの人たちは、このような主イエスに失望して去って行きました(同、五:三九~四〇)。十字架を前に、主イエスのもとに最後まで残ったのは僅かな人々に過ぎませんでした。「招かれる人は多いが選ばれる人は少ない」のです(マタイ二二:一四)。

 主イエスは渡される前夜、弟子たちと一緒に食事(「主の晩餐」)をされました(マタイ二六:二六~三〇、1コリント一一:二三~二五)。そこには「パンを取り」、「賛美の祈り」、「パンを裂き」、「弟子たちに与えられた」等の言葉に「五千人の給食」との類似点を見ることができます。しかし、弟子たちとの最後の晩餐には特別な意味があります。昔、ユダヤでは契約を結んだ者同志は、その後一緒に食事をする習慣がありました。主イエスは最後まで留まった弟子たちと契約を結ばれたのです。主イエスは神であるにもかかわらず、ご自身の命でもってわたしたちの罪を贖われました。十字架で流された罪のないその血は、わたしたちの罪を贖う契約の血となりました。この「契約」により、主イエスの贖いを信じ、自分の罪に死に、主イエスの命に生きるなら、わたしたちもまた復活に与ることが出来るのです。
 教会は御言葉を聴くことと聖餐を大切にしますが、聖餐において主イエスはその場にご臨在されると同時に、十字架の出来事をわたしたちに想起させます。大切なのは、わたしたちが今生きておられる主イエスとの食事に与るということだけでなく、二千年前の十字架の契約が確かであることを知ることです。

2006年1月15日日曜日

コリント二5章16~21節「新しいものが生じた」

第69号

《元旦礼拝》

 歴史学者エリアーデの「永遠回帰の神話」を読みますと、世界のほとんどの民は、正月を新しい世界の始まりだと考えているのが分かります。日本の古典落語にも大家さんが何とかして店子の家賃を年内に取り立てようとするのがあります。新しい年になれば借金は帳消しになるからです。新しい世界に古い世界の出来事では、舞台は台無しになってしまいます。そのような世界にあって唯一の神を信じたユダヤ人だけが新しい歴史観を持つようになりました。宇宙には初めと終わりがあり、罪に落ちた人を救われる神のご計画があると信じたのです。キリスト教は、主イエスこそ旧約聖書で約束されたメシアであって、主イエスを信じた者には新しい天と新しい地が用意されていると教えるのです。
 神の本質は聖であって、聖は義と愛です。天の父は御子をこの世に遣わされ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われました(マタイ三:一七)。父の役割は子を守り、助けることにあります。しかし、人々が御子の顔に唾をし、平手で打ち、鞭で打っても静観されているだけでした。わたしたちであれば自分の子供が悪くても助けようとします。我が子が無実の罪で殺されようとするなら助けずにはいられません。主イエスは父に対して「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取られました(マタイ二七:四六)。

 聖書では独り子や初子の死には特別な意味があります。列王記下三章にはモアブの王メシャのことが書かれています。モアブは四〇年間イスラエルの王アハブの支配下にあり、十万匹の小羊と雄羊十万匹分の羊毛を貢物として納めていました。メシャはアハブの子ヨラムの治世に反旗を翻しました。イスラエルはユダとエドムと同盟して対抗しました。メシャは勝ち目がないのを知ると世継ぎである長男を城壁の上で生贄として捧げました。イスラエルの上に怒りが下り、状況が一変しました。「新しいものが生じた」のです。モアブはイスラエルのくびきから自由になったのです。
 イスラエルの民はかつてエジプトで奴隷でした。モーセが現われイスラエルを自由の民としましたが、そのためには過越が必要でした。エジプトの民の初子の死によって状況が一変し、「新しいものが生じた」のです。
 アブラハムは百歳になって与えられた独り子イサクを焼き尽くす捧げものにするよう神に命じられました。アブラハムはその言葉に従いました。刃物で息子を屠ろうとしたとき、天から声がありました。「その子に手を下すな。…あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。…」。それによって「地上の諸国民はすべてあなたの子孫(キリスト)によって祝福を得る」との約束が確かなものとされました。「主の山に、備えあり」、「主は備えてくださる」のです。イサクを捧げることにって「新しいものが生じた」のです(創世記二二章、ガラテヤ三:一六)。

 主イエスは十字架にかからなくてもこの世の王となることが出来ました。しかし、それではわたしたちと神との間に和解は生まれません。罪の問題の解決なくして死の解決もありません。死はわたしたちにとって恐ろしいものです。この世と愛する者との別れです。自らの存在が無に帰することでもあります。自然の死ですら恐ろしいのですが、死が神の裁きであるなら、なおさら恐ろしいものとなります。神の前に立ち、生前の行いに応じて裁かれなければならないからです。神との和解とは罪が赦され、神に裁かれない者にされることに他なりません。この和解のために神は御子をこの世に遣わされたのです。主イエスは十字架によりわたしたちの罪を御自分の上に置かれ、御自身を罪ある者とされました。そして罪あるわたしたちが主イエスの十字架の故に罪のない者とされたのです。神の独り子の死によって状況が一変しました。「新しいものが生じた」のです。

 イエスの十字架により、この世界が古いものとされ、わたしたちに新しい天と新しい地が用意されました。そして、その約束の故にわたしたちはこの世においても既に神の国の民とされているのです。
 わたしたちが主イエスの十字架に倣って自分に死ぬとしたら、それは神の初子の死に連なることに他なりません。神に自分自身を捧げることによって「新しいものが生じる」のです(ロマ書六:一~一四参照)。「新しく創造された者」となるのです(2コリント五:一七)。主イエスの命がわたしたちを生かすようになるからです。神を愛し、人を愛するために生きることができるように作り変えられます。後に続く者のために和解の務めを果たすことになるのです。

2005年12月18日日曜日

マタイ1章18~25節「その子はイエス」

第68号

最近続いて起こっている子供たちの痛ましい出来事は、わたしたちの心を暗くし、不安にさせます。今月の十日の川越市民クリスマスで、説教者の山岡磐牧師(日本基督教団初雁教会)は、大人が子供に話しかけることの出来ない社会が来るとは考えられなかった、とおっしゃっていました。わたしが小さい頃は、学校の帰りに寄り道をし、家に帰るのが遅くなることが度々でした。人を信用できない社会、それは神を信じることの出来ない社会でもあります。聖書には、終わりの日にはお互いの愛が冷えるとありますが、今日の社会を見ると、その時が近いのを知らされます(2テモテ三:一~三)。
 主イエスのお生まれになった時もまた暗い時代でした。イスラエルはローマの植民地でした。「ローマの平和」(Pax Romana)は武力で押さえつけられた平和でもありました。ユダヤを治めていたヘロデ大王もイドマヤ人で、しかも王の座を守るためなら何でもした人でした。そのような時代に主イエスはお生まれになったのです。

 ヨセフはまだ一緒にならない前に、婚約者マリアが身ごもったのを知りました。どれほど驚いたことでしょう。幾日も眠られぬ夜を過ごしたに違いありません。どうして、何故、といった問いがヨセフを苦しめたに相違ありません。婚約者に裏切られる、それは経験した人でなければ分からないかもしれません。マリアを人々の前に公にすることも出来ました。当時のユダヤでは婚約は、法的には結婚と見做されていました。告発すればマリアは裁かれ、その罪の故に死の判決が下されたでしょう。姦淫に対する裁きは今日では考えられないほど厳しかったのです。しかし、ヨセフはマリアを辱めず、命を救おうとしました。それは、生まれてくる子を自分の子と認めた上で、ひそかにマリアと離縁するということでした。「夫ヨセフは正しい人」とありますが、それは「やさしい人」、「思いやりがある人」の意です。しかし、離縁された身重のマリアはどうやって生きていくことが出来るのでしょうか。夫の、あるいは父や兄の経済的支えなしに生きていくことの出来なかった時代でした。それは今日にも言えるかもしれません。
 このように考えていたヨセフに夢の中で天使が現われ、生まれてくる子は聖霊によるものであり、神がその子の父である、それ故、恐れずマリアを妻としなさい、と言われました。
 ヨセフはこのように語る天使の言葉をさえぎって、聖霊によって身ごもるなんてそんな非科学的なことは信じられない、そのような女と結婚したくはない、と断っても世間的には充分正しい人であり得たのです。マリアと離縁し、他の人と結婚し、別の家庭を作ることも出来たのです。しかし、ヨセフは自分の考えを固辞せず、天使の言われたことを信じ、マリアを妻としたのです。

 ナザレの村を訪ねたことがありますが、丘の斜面に立てられた古い町でした。多分主イエスの頃とそれほど変わっていないのではないかと思われました。その時、顔を輝かせた少年イエスが弟や妹たちの手をとって走って来る姿が目に浮かびました。ヨセフとマリアの家庭は主イエスを中心に愛と信頼に満ちた家庭ではなかったでしょうか。ヨセフは主の御使いの言葉を聞いたときから、心の広い人に変えられていました。主イエスが一緒にいるということはそのようなことです。「インマヌエル」とは「主が共にいる」ということです。そして、イエスこそ、「自分の民を罪から救う」お方なのです。ヨセフはおそらく自分の本当の息子や娘よりも主イエスを愛したのではないでしょうか。主イエスが一二歳になった時の宮もうでの出来事がルカの福音書に記されています。主イエスがいなくなった時のヨセフの心配、そして見つかった時の安堵はどれほどのものであったでしょうか(二:四一~四八)。ヨセフは亡くなる時、主の御使いの言葉に従ってマリアと結婚したことを神に感謝したに違いありません。貧しく、苦労の多い生活であっても、主イエスが共にいてくださった生活は、満ち溢れるばかりの祝福に包まれたものだったからです。

 マリアは「聖霊」によって身ごもったということが二度繰り返されています(一八、二〇節)。主イエスはわたしたちの心にも宿られます。わたしたちの内に主イエスが誕生するなら主が共にいてくださる人生を送ることが出来るのです。それが「インマヌエル」です。主が一緒におられるので「わたしたちの罪は許されている」のです。人間の罪と悲惨さとは神から離れていることから生じます。
 この暗い時代に、一人でも多くの方が、わたしたちを罪から救って下さる主イエスを心に宿されるようにと祈ります。そして主が共にいて下さるというこの喜びを多くの人と共にクリスマスに共に分かち合いたいと思います。